4. にゃん子と探偵①


 ぼんやりと、研究棟の屋内、ふわふわした気分で階段をのぼるわたし。

 エレベータもあったけど、生徒が使って良いのかわからなかったし、いまは授業時間中。顔は知らなくても誰か先生とばったり会うのも、何かヤだったし。


「屋上に……猫、いるのかな……」


 軽く息を切らせながら、到着したのは5階。

 何階建てなのか、はっきりとわからないけど、そろそろ屋上のはず。

 ぎゅっと手すりをつかみながら、ゆっくりと上に向かう。


「猫じゃなかったら……何がいるんだっけ……?」


 悪魔か、探偵、だっけ?

 もし悪魔がいたら、願いを叶えてもらおう。

 私の魂と引き換えに、お母さんが幸せに──


「……ばかじゃないの」


 ガキかよ、わたし。

 毒を吐きながらも、ぐぐっと、胸の奥から込みあげるものを飲みこみ、目をぬぐって階段をのぼる。

 そんな非現実的なものが、いるわけがない。

 なるほど、じゃあその代わりに、探偵という現実的な存在が。

「いるわけないんだよなあ……」

 フィクションの探偵ならいざしらず、現実的な探偵というものは客商売であって、わかりやすい場所でお客さんを待たなければいけないのである。

 屋上やらどことやら、むやみに高いところに登りたがるのは、猫と、煙と、わたしバカと相場が決まってるわけで、探偵なんていう頭が良さそうな職業の人は、低きで地に足をつけて、どっしり構えるべきなのだ。いっそ地に潜ってしまえば、地下探偵などという新たなキャラクターの爆誕だ。

 そんな戯言で心のモヤモヤをかき消そうとしているうちに、ふと、足元の階段がわずかにホコリをかぶって、汚れていることに気付く。

 それは、この階段を使う人が少ないということで──

 見あげると、行く先は踊り場で途切れていて、その奥には銀色のドア。

 四角い曇りガラスが貼られたそのドアは──屋上への出入り口。

 薄暗い階段、斜めに射しこむ淡い光。

 なにやら地下から脱出する映画のワンシーンが思い浮かんで……

 わたしは思わず唾を飲みこんだ。


 あれ……?

 そもそも、なんでこんなところまで上がってきたんだっけ……?


 ふと我に返った感じ。

 いやまあ、ここまで来たからには、何があるか確認くらいしておきたいけど……

 こういうとこの屋上って、ふつーに入っていい場所なのか?

 高校のときは、入れなかったぞ?

 あ、いや、けど、しいちゃんも入ったって言ってたし……

 ふと後方、廊下の方で足音が聞こえた。

 どくんと、なぜか心臓が跳ね上がる。

 階段の手すりをつかんだまま振り返るも、見える範囲に人の気配はなく、遠くの方でドアが開閉する音がしたかと思うと、足音は止んだ。

 そういえば、しいちゃんがこの研究棟は「先生たちが普段いる場所」と言ってたっけ……

 ここから見える範囲の廊下にもドアが並んでいて、それぞれに先生の名前だろう表札がつけられていた。よく見れば、いくつかの部屋から灯りがもれていて、室内に人がいることがわかる。

「うー……」

 ついさっき、わたしを怒った英語の先生の顔を思い出し、ヤな気分になる。

 わたしみたいなのが、こんなとこにいて、怒られたりしないだろうか……

「いや、だから……ガキかよ、わたし」

 怒られるとか、怒られないとか、べつに……どうでもいいじゃんか……

 我思うゆえに、我ココに在り。

 わたしが、いたいと思った場所に、わたしは存在していいのだっ!

 などと、うそぶいてから。

 ふんっ! と、わざらしく鼻息を荒くして、階段をのぼりきった。

 銀色のドア、そのノブに手をかける。

 がちゃりとやると、手ごたえなく回った。カギはかけられてないらしい。

 ほぼ同時に、わたしは妙な気分に襲われた。

 それは何かお化け屋敷に入るときのような感じというか……

 どうも、わたしの内にある不安感が、わたしを落ちつかせてくれないらしい。

「……ええい! ハトでも鉄砲でも出てきやがれ!」

 そんな色々と間違ってる気がしなくもない言葉で喝をいれながら。


 わたしは、屋上へのドアを開けた。


 ふわっと。

 柔らかい風。あたたかい空気。

 梅雨の時期だけど、春の匂いがした。


 視界に飛び込んできたのは、水色の空。

 下は一面がコンクリートで、周囲を取り囲むのは銀色の柵。

 それこそ学園モノのドラマとかアニメなんかでありそうな、ある意味、想像した通りの屋上の光景だったけれど。


「あ」


 じっと、つぶらな瞳でこちらを見上げる、いっぴきのちいさな存在。

 にゃあぁ、と。

 それはそれは愛らしい鳴き声をあげた。

 むずむず、と、わたしの背骨のあたりがうずきはじめる。

 茶トラ。標準サイズよりやや小さめ。

 首輪はつけられてないし、毛並みはボサボサだけど、目がくるりとしているから、完全なノラじゃない。

 飼い猫でもないけれど、人間に餌付けされている半ノラといった感じ。

 見知らぬ存在であるわたしを、おずおずと見上げるその様子は、警戒というより、びっくりと好奇心がまざった風だった。

 わたしはドアの前、すっと足を曲げ、小さい身体をさらに小さく丸めながら、両手を地面に近づけた。

 ひゅっと、口笛を吹くと、すすっと、こっちに向かってくる。

 そして素直に、わたしの手の中におさまってくれた。


 ふわふわで、あたたかい。


 優しくその首元をなでると、茶トラは目を細め、くるると喉を鳴らす。

 わたしは我慢しきれずに、遠慮なく。

 思う存分、もふもふ、もふもふ、する。

 それを嫌がる様子もなく、素直に受け入れてくれる茶トラ。

 わたしの中にあったネガティブな気持ちは、すでにどこかにいってしまい、どうしてこの子はこんなところにいるんだろうと、そんな疑問がまったくよぎらないほどには、素敵な出会いだった。

 なんだか愛おしくなって、思わず両手で抱き上げる。

 にゃああ、にゃああ、と、嬉しそうな声をあげるたび、わたしも本当に嬉しくなる。

「うむ、ういやつ、ういやつ……って」


 横から、視線を感じた。

 

 慌てて目を向けると、屋上を囲う銀色の柵。

 その前、公園にあるような二人がけの白いベンチ。

 水色の空とキャンパスと、近くの街並みを背景に。

 

「──私には懐いてくれないのよ。その子」


 本を片手に、ひとりの女性が座っていた。


「あ」


 思わず猫を抱えたまま立ち上がるわたし。

 ぴしっとしたスーツに身を包んだ、きれいな黒髪の美人さん。

 それは駅でよく見かける──あの女性だった。

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