第十七話 その朝

「居なくなっただと?」


 翌朝、いつもの日課として訓練場で素振りをしていた忠継は、いつものようにやって来たエミリアにその話を聞いていた。


「んん~? どうしたんだタダツグ、お嬢」


「む、ライナスか。実は昨日の娘が居なくなったらしくてな」


 真面目な顔で話す二人を見てとり、やって来たライナスに忠継は簡単な説明をする。エミリアの話では、今朝がたあのアネットという娘を泊めた侍女たちの宿舎に行ってみたら、娘はすでに居なくなった後だったらしい。寝床にまだ体温が残っていたのでそう時間はたっていないはずだが、それでも屋敷から出てしまった可能性も十分にある。


「しかし、出ていったと言ってもどうするつもりなんだ?話を聞いた感じじゃもう身寄りもいないみたいだったし、この先あんな女の子一人じゃ生きていくのも難しいだろ」


「あるいは、そんなことは考えていなかったのかもしれないな……」


 確かに、あんな娘一人ではまた行き倒れて死ぬか、あるいは生き残るにしても身売りするくらいしかその余地はない。

 だが一方で、アネットは貴族や騎士といった者たちに強い嫌悪感をもっているように見えた。そんな者たちに手を差し伸べられることが、あの娘には耐えられなかったのかもしれない。

 とはいえ、一度は見知った相手をこのまま見過ごすのは、忠継としてもさすがに寝覚めが悪かった。


「とりあえず探してみよう。まずは屋敷の中か?」


「いえ。そちらは私の方で手配しますので、タダツグさんは外をお願いします」


「え? それって大丈夫なのか? 俺たちと違ってタダツグはこの街初めてだろう?」


「心配は無用だ。この屋敷は随分と高台にあるようだし、帰るだけなら猿でもできる」


「それに、今うちの人員で完全に自由が利くのはタダツグさんだけでしょう? 一応市中の警邏をしている憲兵隊に連絡することはできますけど、ライナスさん達騎士団には他に仕事もありますし」


「ああ、そっか」


 ライナスの納得で、三人の意見は完全に一致する。

 よってこの後すぐ、タダツグは街へと出ることになった。

 考えてみれば、一人で出歩くのは初めてだった。






「え? 忠継を行かせたのかい?」


「はい。一度タダツグさんも外を出歩いたほうがいいと思いまして。まずかったですか?」


「いや、別にそういう訳ではないけど。……ふむ。まあ、どの道今は忠継のあの力を検証することはできんか」


 自身の中の欲求を一時的に封じ込め、エルヴィスは妹の報告に意識を戻す。

 エミリアはここに来る途中で既にアネットの捜索を屋敷の者にそれとなく頼んでいる。流石に通常の業務があるためそれに掛かりきりということもないだろうが、それでも屋敷内にいれば誰かが見つけて知らせてくるはずだ。それなりに大きいメルヴィンの屋敷だが、今屋敷内にはエルヴィス達が連れてきたクロフォード家の人間も大勢詰めている。大きいという表現に『無駄な』という言葉がつかない、必要以上の大きさを持たないこの屋敷ならば、人の目が届かない場所の方が少ないはずだ。


「それで、その子は先日の妖魔についても話していたのか?」


「はい。ただ、姿形に関しては私達が見た物とは違うようです」


「それについてはこっちに上がってきた情報も同じだ。いくつかの生き物を混ぜ合わせたような、アンバランスで不安定な形態。全身から感じられる未知の魔力。後は……、結構巨大なものが多いっていうのも共通点かな?」


 エルヴィスの上げて言った特徴に、エミリアは一つ一つ頷き返してくる。だが、最後にエミリアが思い出したように言った言葉は少しだけエルヴィスの予想を外れていた。


「あの、そう言えばその子が少し気になることを言っていたんですけど」


「気になること?」


「はい。何でも弓や魔術では殺せなかったとか」


「殺せない?」


 エミリアの言葉に疑問を覚え、同時にエルヴィスは先ほど上がってきた不可解な報告を思い出す。後でエミリアにも意見を聞こうととっておいた書類を机の上から探し出し、エルヴィス自身ももう一度目を通してからエミリアにつきつけた。


「なんですか、これは?」


「あのときの熊の死骸の調査結果だよ。解剖させて死因なんかを調べたんだ」


「死亡理由は、鋭い鏃のようなものによる内臓の破損? 死亡時期は……、三日前?」


 報告書を読み進めるうちに、エミリアの表情はだんだんと不可解なものを見る目に変わっていく。

 この報告書がいつ作成されたかは知らないが、そもそも三日前に死亡したということは、一昨日あの化け物に遭遇した時には化け物を生み出していた熊は既に死んでいたことになる。


「詰まる所、僕の打ち立てていた予想、『【妖魔】とは動物が何らかの形で獲得した魔力操作能力の産物である』って可能性はこれで無くなったわけだ。どんな能力だったにしても死後も使い続けているというのは考えにくい」


「……そうですね。そんなの私たちの例で言えば遺体が魔法陣を書いているようなものですから。正直に言うと、私はあの熊のことをタダツグさんと同じ理屈で魔力を操れるようになった生き物なのではないかと考えていました」


「ん? ああ、なるほど。確かにその可能性はあったか。とはいえ、だったとしても同じだな。あの力は死んでなお使えるようなものじゃないはずだ。ある程度の意思、少なくとも魔力を操る意思くらいは無くては」


 恐らく、一度は使えたという魔力を斬る力をタダツグが使えないのもそれが原因だろう。タダツグは自分の国の信仰に従っているのか、魔力を操ることを忌避している節がある。忠継の魔力を採取するべく、魔石に魔力を込めさせたときも、問題になったのは『できない』ことよりも『したがらない』ことだったのだ。


「まあ、とはいえタダツグさんが魔力を使いたがらない理由も【妖魔】の存在を知ってしまうと判る気がしますね。魔力を知らないタダツグさんには【妖魔】も魔術も区別がつかないでしょうし。この解剖結果から考えれば、【妖属性】の魔力はその生き物の死後にその生き物の形をとっていたんですから。まるで生前の未練を晴らそうとする死霊のようです」


「やれやれ、お前がそんな非科学的なことを言うなんて――!?」


 その瞬間、妹の言葉に苦笑いを浮かべていたエルヴィスの表情が急に硬直する。脳裏に閃いたのは、一つの可能性。地道な思考を跳躍した、ある種の思いつきだ。


「まさか……。でも、魔力の恣意誘導性、それに死に際となれば……。だが……、いや、あの場所なら……、だとしたらまさか……」


「兄様? どうしたんですか? ……何か思いつかれたのですか!?」


「あ、ああエミリア。少し時間をくれ。いや、時間が惜しい。すぐに調べたい。付き合ってくれ」


 そう言うとエルヴィスはすぐさま席を立ち、辺りにあった【妖魔】関連のものと思われる報告書を集め始める。その瞳には一人の学者としての興味と、同時に領主としての危機感のようなものがあった。






 一方、屋敷を抜け出したアネット・モランは、カムメルの街の中でも屋敷からそうはなれていない、多くの商店が立ち並ぶ大通りの下流、町の出入り口に近い人ゴミの中にいた。煉瓦造りの建物が立ち並ぶ町中を人ゴミに交じって歩き、三日前にこの街にたどり着いてから何となくいつくようになった建物の隙間に入り込み、片方の壁に体を預ける。

 物乞いにも縄張りというものがあると、似たような立場になってアネットも初めて知った。

 全てを失い、とりあえず休む場所を探そうとして初めてわかる。日当たりや風あたり、人通りや屋根の代わりになる物の有無。そういった様々な条件を満たす場所には大抵先客がいるのだ。彼らとてできるだけ居心地のいい場所を使いたいのだろう。もしもそれを奪われそうにでもなれば死に物狂いとまではいかなくてもそれなりの労力を賭して阻みにくるし、弱いものがいい場所を使っていたら強いものが奪おうとする。そんな環境で女で子供なアネットに選ぶことができたのは、狭くて小柄な者でなければ使えないような小さな隙間だった。


(昨日とは、大違い……)


 昨晩一夜を明かすことになった貴族の屋敷の一室を思い出し、アネットは自虐的な気分になる。あてがわれたのは使用人が使う部屋のようだったが、雨風がしのげて安心して眠っていられるというだけでそれは貴重な空間だった。

 今現在、カムメルの治安は悪化の一途をたどっている。それは昨晩会った貴族たちのように、街の様子を書類と報告でしか知らない者達には感じられない、アネットが実際に肌で感じた危機感だった。

 厄介なことに、アネットはまだ十二の小娘だ。こうして村を棄て、ここまで逃げてきた難民の中でも、肉体的な強さすら持たない一番弱い立場にある。ここに来るまでも来てからも何度か身の危険を感じたことがあった。人相の良くない男たちも見かけたことがあったし、そんな者たちに捕まればどうなるかなど想像したくなくても判ってしまう。

 アネットにとって、難民としての路上生活は自殺行為と同じだ。だがそれでも、アネットは昨夜のように貴族の世話になる気にはなれなかった。


(だって、貴族は私達を……)


 自分たちから生活を奪い、間接的にとはいえ父親を殺したのは貴族だと、アネットはそう思っている。

 貴族の使った魔術によって荒されつくし、まともに作物の育たなくなった土地、にもかかわらず課される理不尽な重税。それに従って奪っていくばかりの役人たちと、化け物が出たと助けを求めてもなにもしてくれない騎士たち。

 以前村を訪れた、『活動家』を名乗る男が語っていた。税金とは本来民衆の生活を守るための費用として納められるものであり、民から集めた税を我がもののように扱う貴族はただの寄生虫でしかないと。

 聞いたときは言いすぎだと感じたアネットだったが、生活できなくなって土地を捨て、その過程で唯一の肉親である父親を失い、初めてあの『活動家』の言うことが正しく思えた。

 今のアネットにとって貴族や役人、そして騎士たちは敵≪かたき≫であり、敵≪てき≫でしかない。少なくとも昨日の夜まではそう思っていたし、だからこそ盗みを働く初めての相手は貴族と騎士らしい三人組を選んだ。

 だがそれによってアネットが知ったのは、あまりに想像とかけ離れた貴族の生態だった。


(優しい、人だった)


 夕べ出会った女性の、考えていたのとはるかに違う人格に、アネットは少なくないショックを受ける。盗みを働こうとした自分に食事を与え、一晩の寝床まで与えてくれる。それはアネットが今まで想像してきた貴族という生き物にはありえない行動だった。

 共にいた騎士もそうだ。アネットの知る騎士は、もっと高圧的で農民を家畜のように見下すものだ。なのに、昨晩見た二人のうち一人はまるでそんな様子は見せず、もう一人は確かに高圧的ではあったが、それでもアネットの知る騎士と違って権力に甘えた軽薄さのようなものが無かった。

 特に後者、黒い髪と短い耳をした異国風の顔立ちの騎士は、最初の印象こそいかにも騎士といった物だったが、話しているのを横で聞いているとどちらかと言えば生真面目で、高圧的というよりも厳格な印象をもった。

 『これではだめだ』と、アネットはそう思う。これでは貴族や役人、騎士といった者たちを恨みにくくなってしまう。

 アネットにとって貴族や騎士というものはその全てが自分達を見下し、何もせずに日々の糧を貪る悪人でなければならないのだ。それ以外の存在を知ってしまったら恨みにくくなってしまう。


(人が違うから、かな……)


 詳しくはアネットにはわからないが、その土地によって土地を管理する貴族は違うという話を聞いたことがある。よく思い出せば自分が住んでいたゼインクルと、今いるアスカランダが違う人間の管理下にあるとも聞いた気がした。

 だが、だからと言ってアネットには自分の土地の領主だけを恨むような器用な真似はできない。そもそもアネットはゼインクルの領主、正確には執政官というらしき人物の顔も知らないのだ。考えてみればアネットが持つ想像の貴族の顔は、自分の家に来ていた高圧的な役人の顔だったりする。


(……これから、どうしよう)


 自分を支えている恨みが薄れるのを恐れて、発作的に屋敷を出てきてしまったアネットだったが、その実結局は行くところなど有りはしない。考えてみれば屋敷から何か盗みだしてくれば良かったかもしれないが、それすらもできなかった今、アネットの目の前にあるのは再び食べるものにも困る路上生活なのだ。


(どうして、こうなっちゃったんだろう……)


 身を押しつぶす不安に従うように座り込み、アネットは抱えた膝に顔をうずめる。視界が暗くなって感じられるのは、周囲の喧騒と様々な臭い。そして僅かに感じられる、町中で使われた魔術の魔力感覚だ。


「……え?」


 だが、その中にアネットは覚えのある感覚を一つ感じとる。否、町中で感じる魔力に覚えのない魔力などほとんどないが、アネットの感覚が過敏に反応するのはその中でもたった一つだ。


「まさか……」


 思わず立ち上がり、アネットは自分のからだが恐怖にすくみあがるのを感じる。

 それはあまりにも覚えのある、忘れたくても忘れられない父を殺した魔力の感覚だった。






 そのとき、異国の武士は逃げた娘を追いながら、露店で買った朝食を食べていた。

 そのとき、貴族の兄妹は町はずれの屋敷で新たな発見に戦慄していた。

 そのとき、騎士たちはいつものように訓練や仕事に勤しみながらも、次に向かう土地への準備を進めていた。


 確かに日常とは違う、しかし周囲の日常の中に隠れられる程度に違うというだけの朝。

 しかしそれを超える異常が、街の北側の門へと現れる。


「おいおい、なんだありゃ……」


 最初にそれに気付いたのは北門で番をしていた若い兵士の一人、ガルトだった。ガルトは今朝から北門でゼインクル方面からくる人間のカムメルへの出入りを監視していたのだが、その監視役として到底看過できない光景を見つけてしまったのだ。


「ふざけやがって、なんだあいつ!! 死人が出るぞ!!」


 同僚のイアンが歯ぎしりして動き出すのを見ながら、ガルトもすぐさまそれを止めに向かう。

 視界の先には一台の二頭立ての馬車が、辺りの人間を轢きかねない恐ろしい速度で北門めがけて走っていた。周囲にいた難民や行商人達が慌てて道の横によけていくため今のところ事故は起きていないが、それでも一歩間違えば死者が出る暴走行為だ。断じて看過できる行為ではない。

 場合によっては魔術をぶつけて強引に動きを止めてしまおうと魔方陣を展開していたガルトは、しかしその馬車にあり得ないものを見つけて動きを止めた。


(貴族の、紋章……?)


 同じくそれに気付いたらしいイアンが動きを止めるのと同時に、暴走馬車は二人の間を走りぬけ、人々が逃げ出した北門をくぐって街の中へと突入する。ガルトが慌てて振り向くと、馬車はけたたましい音と馬の嘶きを周囲に響かせて横転するところだった。

 どうやら馬車を曳いていた二頭の馬の一頭が、慌てて避けた誰かの荷物に躓いたらしい。あるいは馬車をひいたままあんな走りをさせられて馬の方も限界だったのかもしれない。


「ふざけた貴族様だな。いったいなんのつもりだ」


「おいおいイアン。聞かれたらことだぞ」


「構うもんか。同じ貴族様なら俺らんとこの貴族様の方がよっぽど公平で賢明だ。それより馬車の中を確認するぞ。流石に死なれたら面倒だ」


 二人でそんな会話を交わしながら、ガルトは小走りに馬車へと近づいていく。途中でイアンが周囲の人間を下がらせるのに時間を取られたため、馬車へとたどり着いたのはガルトが先だった。

 それにしても妙だった。貴族というのは普通護衛の人間と一緒に移動するものだというのに、この馬車はそんな護衛などお構いなしに一台だけで走って来た。もしこの馬車に乗っている人間が貴族だとしたら、その護衛達は一体何をしているのか?


(紋章は……、ってこれはもしかしてゼインクルの執政官様か?)


 内心で驚きながら紋章の刻まれた扉をあけると、中に頭から血を流した小太りの男がいるのがわかる。豪奢な服装も明らかに貴族の纏うもので、ひげを蓄えた口からうめき声が漏れているのが聞こえることから、どうやら生きてはいるようだ。


(さて、どうしたらいいんだこの状況……。こいつは貴族の客として扱わなきゃならんのか……?)


 ガルトが貴族の暴走馬車の対応に頭を悩ませていると。不意に横倒しの馬車の中で呻いていた男が目を開ける。男はその焦点をガルトに合わせると、次の瞬間には猛烈な剣幕で怒鳴って来た。


「門を閉めろぉっ!!」


「え、えぇ?」


「聞こえなかったのかっ!! 門を閉めろと言っているんだ!! これは命令だ!!」


 唾を飛ばしながら叫ぶ男の言葉に、ガルトはひたすら困惑する。通常町の門を閉めることは夜と非常時のみ。それ以外ではよっぽどのことが無い限り勝手に閉めることはないし、もしも勝手に閉めれば厳重に処罰が下される。ただでさえ人が頻繁に通る門を閉めれば、大変な人数に影響が出るからだ。


「聞こえなかったのか!? 大至急門を閉めろと言っているんだ!! 私を誰だと思っている!! 私はゼインクル執政官のパイアス・マコーマック――」


 と、怒鳴り散らしていた貴族の言葉が、まるで鉄の塊でも飲みこんだように突然止まる。同時にガルトが感じるのは、猛烈に強くて、感じたことのない魔力の感覚。

 そして反射的に振り向いたガルトは、目前にある巨大な穴と、体の両側に並ぶ大量の牙を目に映すこととなった。


(あれ、なに……これ……?)


 緩慢な思考が、どうにか疑問だけを絞りだす。見れば、周りの牙には自分の着ているのと同じ軍服の切れ端ようなものが引っかかっていた。


(なんだこりゃ……。まるで俺、食われかけてるみたいじゃな――)


 そうして、

 内心の言葉が終わる寸前、まるでそれを待ち切れないとでも言うように両側の牙が閉じられ、ガルトの思考は怪物の腹の中へと消えていった。

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