第十五話 継げなかった忠義

「そもそもの話、俺は武士とは言っても部屋住みなのだ」


 酒のせいか少しだけ霞のかかったような頭を動かしながら、忠継は自分の江戸での生活を思い出す。そこでの自分の立場と、それが持っていた一つの意味を。


「部屋住み、ですか?」


「武家の家で次男三男というものは、長男が跡を継げなかった場合、代わりに後を継がねばならん。そうしなければお家は断絶、お取りつぶしにあってしまうからな。部屋住みというのは長男が家を継げなくなった場合のために、家に控えていなければならない者のことを言う」


「あー、つまり正式な後継者じゃないけど、もしもの時のために待機してなきゃならない跡継ぎ代理ってことか?」


「まあ、そういうことになる」


 部屋住みという言葉を二人が知らなかったことに多少驚きはしたものの、すでに切腹も知らない騎士という経験があったせいかすぐに納得して、忠継は説明を続けていく。自分の国のことを説明することに慣れていることを自覚しながら忠継が紡ぐのは、ただの事実としての自分の立場だ。


「俺は武内家の二男として生まれた。詰まるところ俺には五つ上の兄が一人いて、武内家は本来ならその兄が継ぐはずだったのだ」


「本来なら?」


 忠継の言い回しに、エミリアが鋭く疑問を挟んでくる。どうやら知らないなりにも忠継の言い回しのおかしさを感じたらしい。


「兄が病弱だったのだ。それも医者から、大人にはなれないだろうと言われてしまうほどのな」


「おいおい、それって……」


「そう。家を継ぐべき兄は、しかし俺が生まれた頃には後継者となる可能性を絶望視されていた」


 家は本来長男が継ぐものだ。しかしその長男が大人にすらなれないとなれば、代わりの後継者を用意するしかない。そして、その方法は婿や養子をとる以外にはただ一つだ。


「だから俺の名は忠継なのだ。忠を継ぐから忠継。俺は生まれた頃より、兄を差し置いて後継者となることを望まれていた」


 現実問題として、それが忠継にとって悪いことだったかと問われれば間違いなく否だろう。武家の家において部屋住みという存在は保険であると同時に重荷だ。非常時の跡継ぎという立場上、跡継ぎの心配がなくなるまで家に控えていなければならないくせに、非常時が訪れるまではただの居候でしかない。そう言った世間一般の部屋住みたちに比べれば、二男でありながら本命の跡継ぎと目されていた忠継の立場は段違いにいいものであった。


「両親はかなり早いうちに、俺を家を継ぐ跡継ぎとして育てることに決めたらしい。俺も兄に変わって家を継ぐのだからと、病弱な兄の代わりに武士の本分である剣に打ち込み、だれよりも武士らしく、武士の鑑であろうと努力してきた。そしてそのことは、当の本人である兄自身も了解済みでな」


「どういうことだ?」


「兄自身、自分が長くは生きられないことを知っていたらしい。自分の代わりに後を継ぐ俺を立派な跡継ぎにしようと、自分が病床で読んだ本から俺に様々なことを教えてくれた」


 実際、忠継の持つ知識というのは、ほとんどが兄が病床で読んだ本からの聞きかじりだ。武内の家は部門で名をはせた家柄で、父も剣に関しては相当の腕前だった。父は忠継もそうであることを望み、学問よりも剣のみに力を入れていたのだ。


「兄は俺と違って学問に明るくてな。まあ、病床では本を読むくらいしかすることもなかったのだろうが、あちこちから本を集めては読み漁り、いつの間にか蘭書までも読みこなしていた。まあ、兄が蘭書を読むことを父は良く思っていなかったようだが、それは余命いくばくもない息子のことと見逃していたらしい」


 実のところ、忠継の異国に関する知識はすべて兄から聞かされていたものだ。海の向こうにいる、自分たちとは違う外見と技を持つ異国人の話。それがこのような妖術じみた代物だとは思いもしなかったが、それすらも兄から聞いていた話で納得することができた。


「と、俺の実家の事情はこのような具合だったのだが、ここ数年になって話しが変わって来た」


「どういうことだ?」


「兄が、死ななかったのだ」


 口にした瞬間、忠継はその言葉が持つ醜悪さに吐き気を覚える。実の兄を死んで当然とするような言い回し。そんなものが自分の口から出てくるというだけで、猛烈な羞恥と自身への怒りが湧いてくる。


「大人には成れないと言われた兄、病弱でとこに伏せていることの方が多かった兄は、しかしいつのころからかその虚弱さを克服し始めていた」


 何が理由だったのかは分からない。だが忠継は、その要因を探るときどうしても蘭書の内容を楽しそうに語る兄の姿を思い出す。蘭学に対する兄の興味は他に比べても群を抜いていて、生き生きとしているというのはまさにあんな表情だろうと思えた。


「そして兄は元服を迎え、二十歳になり、ついに嫁を取って子をなした。長男が生まれたのが一昨年の暮れ、長女が今年の初めだ。二人とも兄に似ず、元気な子だった」


「……それじゃあ、タダツグさんは」


「家督は兄が継いだ。それで武内の家は安泰だ」


 実際、父としても苦渋の決断だっただろう。なにしろ、ずっとそのつもりで忠継を育ててきたのだ。兄や忠継のことを我が子として見ていなかったということは間違いなく無いだろうが、それでも家長である父にはお家を存続する義務がある。恐らくだが、忠継をこのまま跡継ぎにと考えもしたはずだ。そのことは忠継にも容易に想像できる。

 だが一方で、忠継は跡継ぎを兄にすると言い渡された時、誰かに『お前はいらない』と、言われたような気がしていた。

 もちろん両親や兄がそんなことを言うはずがない。それどころか、知り合い全部を当たってもそんなことを言う人間はいないだろう。

 だが忠継は、家督を兄が継ぐと聞いた瞬間、確かにいないはずの相手のその言葉を聞いたような気がしたのだ。

 そしてその言葉は今でも忠継の中でかすかに響いている。


「それに、俺には家を継げなかったこととは別に、もっと堪えたことがあったんだ」


「……あん? まだ何かあるのかよ」


 怪訝な顔をするライナスに、忠継は黙って頷き、答える。

 瞼を閉じたときに浮かぶのは、家を継ぐことが決まってすぐに、兄が忠継に向けた表情だ。

 同時に、兄が放った言葉も忠継の中で反響するように残っている。

『私は、お前のいるべき場所を奪ってしまった』と、そう言った兄の言葉が。


「気づいてしまったんだよ。兄が家を継いですぐに、俺の目指していたものが、どんなに卑劣でいやしいものか」


「卑劣で、いやしい?」


「俺はな。跡継ぎとしてだれよりも立派な武士に成らんと心がけてきた。誰よりも強く、誇り高く、主と民を守る一本の刀足らんと己に命じてきた。だがふたを開けてみればどうだ? 俺が目指すその場所は、兄が死んで初めて手にできる場所だ」


 そう考えれば、確かに父が忠継を跡継ぎに選ばなかったのは正しかったかもしれない。何よりも誇り高くあらねばならない武士にならんとする者が、こんなにも醜悪な感情をその身に抱いていたのだから。


「同時に、家督を継ぐという目標が無くなって、初めて俺にはそれ以外なにもなかったのだと思い知らされた。本来兄が歩むべき道を歩いて来たくせに、俺は自分の道というものをまるで持っていなかったんだ」


 後継者としての役目が事実上不要となったとき、忠継は己が身の振り方を考え愕然とした。忠継には既に失われた跡継ぎ以外の未来というものがまるで見えてこなかったのだ。

 一番いいのは、跡継ぎのいない他家へと養子に行くことだろう。あるいはどこかに仕官すれば、忠継とて武士として生きることができる。だが現実は養子のあてなどなかったし、天下太平の世では士官など望むべくもなかった。

 唯一打ち込むことができた剣もしかし、忠継に新たな道を示してはくれない。天下泰平の世では士官の道はないに等しいし、他家へ養子に行こうにもそのような都合のいいあてはない。道場で教える立場に回るにはまだ腕前は未熟だし、最悪やくざの用心棒になった例なども聞いたが、身についてしまった理想の武士足らんとする高潔さがそれを許さなかった。

 決められていた未来が急に失われてしまったことで忠継は己の道しるべを完全に失ってしまった。足元が崩れていくような錯覚と、どうにもならない虚脱感。自分が何のために存在しているか分からない、どうしようもない不安を抱え、それでも忠継は身についた高潔さを捨てられない。

 生きているのにその意味が、自身の価値がわからない。それどころかこんな醜い自分が、本当に必要とされる場所など有るのか疑問すら抱く。決定的ではない、しかしだからこそ抗えないヌルく、息苦しい絶望。

毒のように徐々に生きる力を奪っていくそれが、歩いて来た道が途切れているのに他に道はなく、ただ立ち尽くさなければならないというその状況が、忠継の精神を緩慢に殺していく。


「旅に出たのは兄に第二子が生まれてすぐのことだった。何か自身の道を見つけなければと思い、ひと思いに江戸を離れて国を見て回ることに決めた」


行先は、とりあえず兄が一度行ってみたいと願っていた長崎に決めた。とはいえ実のところ、それすらも途中で変えてもいいと感じていた。結局のところ長崎に行くなどというのは忠継が唯一許せた体力のない兄への当てつけで、実際はただ江戸を離れ、家を離れてみたかっただけなのかもしれない。

病弱な兄が無事に家を継ぐまでに成長できたという、本来なら両親ともに喜ぶべき事態が、忠継のせいで生き延びた兄本人すら喜べずにいるのは、見ていて辛いものだった。

自分の存在が、どうしようもなく疎ましく感じられて。


「だが、結局俺は自身の道を見つけることもかなわず、それどころか未練たらしく武士の道にしがみつき、手柄を立てれば士官できるのではないかなどと考えて天狗退治に向かってこのざまだ」


 話しは終わり、そう言わんばかりに忠継は言葉を切り、目の前の盃を一気にあおる。いつの間にかぼんやりしていた思考の片隅で、『ああ、俺は酔っているな』とようやく自覚し、襲い来る睡魔に従って卓上に突っ伏す。意識を失う寸前に、酔いに任せて流れ出した言葉の、その最後のかけらを吐き出しながら。


「本当に、俺は何をしているんだ……」






 タダツグの酔い潰れて眠る姿を見ながら、ライナスは小さく一つだけため息をついた。理由はタダツグの話した内容についてもそうだが、隣に座る自分の護衛対象の、見事な手腕に対する感嘆もある。


「まったく、見事な手腕ですねお嬢。もしかして酔ったタダツグがこんな風に話をすることも計算済みっすか?」


「いいえ。正直ここまでうまくいくとは思っていませんでした。こんなに簡単に酔うとも思っていませんでしたし」


「それにしちゃあ、随分と忠継に酒や料理を進めてたじゃないですか」


「それはタダツグさんの様子を見て、いつもの頑なさが無くなっていると感じたからですよ。普段のタダツグさんなら、見たこともない料理を簡単に口にしたりしませんから」


 エミリアの言葉に、ライナスは『なるほど』と内心で感心する。確かに酔い始めたタダツグは、いつもの頑なさが薄れているように見えた。恐らくエミリアはそんなタダツグの様子を見て、もっと酔わせれば正直な話を聞けると踏んだのだろう。


「にしても部屋住み、か。俺は一人息子だから、なんて声かけていいか分からないっすね」


「私は……、いえ、だめですね。たぶんタダツグさんに必要なのは、立場を理解して掛けてもらう同情の言葉じゃないですから」


「……って言うと?」


「誰にでも言える。でも機会が無ければだれも言わない。そんな言葉ですよ」


 はっきりとしない言葉に答え隠したまま、エミリアは再び料理へと手を伸ばす。

 ライナスが目の前の女性もまた兄を持つ身だということを思い出すのは、それから少し後の話だった。

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