産声

産声

 下へとつづく道の終わりが、そろそろ見えてくる。


 トンネルの壁をつくる材質は、単なる土砂から、例のつるりとした生物的な素材に変わっていた。


 真琴がカニの甲羅と呼ぶそれに、夏生は始めて手を触れてみた。


 まず温かさが伝わってくる。

 ちょうど人肌くらいだろうか。その温かみが気味悪く感じられる。


 触れてみた感触は、前に誰かが言っていたように、石とも木とも土ともちがうものだった。

 ただカニというよりは、カメの甲羅のほうだろう。


 その生物的な材質のトンネルも、終わりを告げようとしていた。


 一度は足を踏み入れたことのある空間が広がっていた。

 星船の体内にできた大きな泡のようなその場所に入る直前――夏生は足を止めた。


「あたっ――。夏生?」


 すぐ後ろを歩いていた真琴が、夏生が立ち止まったせいで、背中に鼻をぶつけてくる。


「ナツ・オ――」


 アリシアが夏生の名を呼んで、手を握ってくる。

 彼女にしてみれば、地球にやってきた理由が叶う場所にようやく来れたわけだ。


「はやく入ってよー。あとがつかえてるよー」


 真琴がぐいぐいと押してくるが、夏生の足はどうにも動かなかった。


「だいじょうぶですから。みんなもついていますから」


 志津は夏生の不安を理解してくれている。

 その言葉に気づかされる。夏生は一人だけではなかった。後ろには皆が――仲間がいるのだ。


 その認識が、夏生に足を踏み出させてくれた。


 部屋に足を踏み入れた夏生は、その中央まで歩いていった。直径数メートルほどの教室程度の大きさの空間を、ぐるりと見渡す。


 暗いな、と思った瞬間。

 壁の内側に埋まった発光体が光を放ちはじめた。ゆっくりとしたリズムで明滅をはじめる。


 前と同じ開けた空間が見えるようになる。直径数メートルほどの殺風景な部屋が、ひとつあるきりだ。


 ――と。


 壁の左右それぞれに、くぼみが生じた。

 しゅっという音とともに壁面の一部が奥に引っ込んでゆき、通路らしきものが、一瞬にして生まれる。


「あれ? 増築された?」


 真琴が先に立って歩いてゆく。

 通路は左右に一本ずつあったが、真琴のあとについて、皆でぞろぞろと片方の通路に入っていった。


 道の先には、別の部屋があった。前の部屋と同じ殺風景な空間だ。また次の通路が部屋の向こうに見えている。


「部屋の数は六個ということか。通路には六〇度ずつ角度がつけられている。外周三六〇度で、計六部屋ということになる」

「あたしたちの個室ってこと?」

「一人部屋だー」

「あ……。これ、わたしかもしれないです」


 と、志津が小さな声で言ってくる。


「しばらくいることになるのに、男の子と一緒の部屋で困るなぁ、って思ったら……」

「困るかな? 困るか。そっか」

「真琴ちゃん……」

「そういやおれも、暗いなって思ったら、さっき、明るくなったぞ」


 全員で顔を見合わせる。


「思った通りになるってことか?」

「試してみればわかることだな」

「んじゃ。操縦席がほしい。なんつーか――コックピットみたいなやつ? いや、宇宙船なんだから、ブリッジだとかそういう感じだよな。席が並んでいて――」


 と、そこまで口にしたとき、横手に新たな通路が出現した。


 薄気味の悪さを感じながらも、夏生は通路に踏みこんでいった。

 自分が口にした関係上、自分が先頭に立って歩いてゆく。


「船体……、と呼んでいいのかはわからないが、その中央部に通じているようだな。外周を六個の居住区画が取り巻いていて、中央部にコントロール・ルームがあるという構成か」


 通路の先には、他と違う作りの部屋があった

 秋津の言うとおりであれば、ここが船の中央部になるのだろう。

 六つの席が正六角形を描いて配置されていた。夏生が「船のブリッジ」というイメージを浮かべたせいか、六つの席はに向かって方向を揃えていた。

 完全に閉鎖された空間の中で、どちらが前となるのかは判然としない。そもそも前後の区別があるのかどうか。


 床からせり出した突起が椅子のような形になっていて、そのまわりをパネルっぽい形状のものが囲んでいる。

 夏生がなんとなく思い浮かべた「宇宙船のブリッジ」の風景が、こんな感じだった気がする。


 子供の手による粘土細工のように、形が微妙に歪んでいるし、細部の出来はラクガキのようないい加減さである。


「本当に使えるのか、これ?」

「すくなくとも椅子としては使えるんじゃない?」


 真琴が気楽にそう言った。さっそく椅子の一つに座っている。


「ボク、ここー」


 つぎに小鉄がつづく。

 秋津と大鉄も、自分の席を見繕って座りにいった。


「このまえと同じになっちゃいましたね」


 そう笑って、志津が席につく。

 このまえのときと着座してゆく順番まで同じだった。

 志津が夏生のひとつ前で、そして夏生が最後であった。――が、このまえとは、ひとつ違っていることもある。


 夏生はアリシアを見た。


 言葉が通じないということは承知の上で、彼女に話しかける。


「君を喰ったりしない。喰わせたりさせない。だから怖がらなくていい」


 なにを言われているのかはわからないなりに、彼女は心配しないでとでもいうように、夏生の頭に手を載せてきた。


 彼女のことを安心させてやるつもりが、自分が安心させられているようである。


「夏生ーっ、はやくー」

「ニーニー」

「夏生」

「夏生君」


 皆に呼ばれて、夏生は席に向かった。

 最後に残った夏生の席は、皆のいちばん前だった。


 硬くもあり柔らかくもある不思議な素材の上に腰を下ろす。

 ごつごつしていて座り心地は最悪だったが、そう感じたのも一瞬のこと、椅子の形状はすぐに変化して、すっぽりと包みこんでくる安定感が生まれる。


 そのまま、数秒――。

 何事も起きなかった。


「あれ?」


 夏生は首を傾げた。

 なぜ何も起きないのか。このあいだは全員が指定位置についたときに――。


「ん? ――な、なんだよ?」


 アリシアが膝の上に乗りあがってきた。

 夏生の額に手のひらを触れてくる。

 額の同じ場所を何度も撫でられているうちに、その場所がむずがゆくなって、熱を帯びてくる。


「なんだなんだ?」


 光を放っているようだが、どうなっているのか、自分では見ることができない。


「これ――どうなってるんだ?」


 自分以外の誰かに見てもらおうとして、皆も体の一部を輝かせていることを知る。


 真琴は手首のリストバンドの下が――。

 志津は服の内側から胸元が――。

 小鉄は股間に近い太腿で――。

 そして秋津は前頭部で、大鉄は腰の裏側だ。


 どこもみな、超能力を得るとともに体に現れた〝印〟の位置だった。


 自分の場合には、どこが輝いているのだろうか。

 そういえば夏生は、自分の体のどこに印があるのか、確かめてみたことはなかった。


「夏生――おでこが光ってる」


 真琴が言ってきた。

 どうやら自分の〝印〟は眉間の位置にあるらしい。


 起こりつつある変化は、印が光りはじめたことだけではなかった。


 足下の地面が――いや星船の船体が鳴動をはじめていた。

 巨大な生物が目を覚まして、身を震わせている。そんな感じがする。


 夏生の脇に立っていたアリシアが、すうっと後ろに去っていった。

 彼女の席は出てきていないが、六角形の中央にぽっかりと空いた場所にまっすぐに立つ。


 シートの周囲を囲んでいた計器パネルの模造品イミテーションが、溶け崩れてゆく。

 形を失って流れはじめたそれは、夏生の体に押し寄せてきた。

 足元から這い上がるようにして体を伝い登ってくる。


「わっ、わっ、わわっ」


 見ているうちにも組織が増殖して、体を覆い尽くそうとしてくる。

 すでに足腰は軟体生物のような組織の中に取り込まれていた。


「わわわっ」


 生理的な恐怖から、夏生はPKサイコキネシスを振るおうとした。


「夏生君!」


 志津の声が鋭く投げられる。


 その声のおかげで、すんでのところで自制が働いた。

 最初の衝動をかろうじて乗り越える。

 船の組織は増殖を重ねつつ、腰から腹へと這い登ってこようとしていた。生暖かい感触がずっしりとのしかかり、ズボンの脚を締め付けてくる。


 ただ覆われるばかりではない。

 蠢いているのが服越しにわかるのだ。


 やがて組織は袖口や裾から侵入してきた。

 皮膚の表面に直接、足のいっぱいある蟲が這い回っているような感覚が襲う。


 夏生の我慢は限界に達した。

 崩壊寸前だった。

 悲鳴が喉元にまで出かかっている。


「拒絶しないで!」


 また志津の声がかかる。


「だいじょうぶです。心を開いて。身を任せれば怖くありませんから」

「け、けどよ――」


 なま暖かく――。気色悪く――。


「お風呂のお湯とでも思ってください!」


 んな無茶な。


 まだ自由になる胸から上を目一杯ひねって、夏生は斜め後ろを振り向いた。


 夏生を励ましてくる彼女の姿を見てぎょっとする。

 彼女のほうは夏生よりも組織の浸食が進んでいた。

 夏生のように抵抗しないせいか、もう肩の上まですっかり組織のなかに取り込まれてしまっている。


「だいじょうぶですから――」


 自慢の黒髪も組織の奥に巻きこまれ、顔だけとなった志津が言う。


「はやくおいでよー」

「ニーニー、おもしろいよー」


 さらに後ろから真琴と小鉄の声がかかる。

 二人の姿は埋もれてしまって見えない。

 肉色の組織に覆い尽くされて、ぶよぶよと蠢く小山とかわっている。


 皆の中央に立つアリシアにも、床から組織が伸びつつあった。


 立ったままの姿勢で、腿までを固められている。手を胸の前で組み合わせたアリシアはじっと目を閉じている。


 祈るようなポーズのまま、乙女の彫像のように動かない。


「夏生君の意気地なし!」


 志津が叫ぶ。


「くっ――」


 女の子から意気地なしと言われては、頑張らざるを得ない。


 夏生は目を閉じた。

 覚悟を決めて、どうにでもしろとばかりに、拒絶する心を開いていった。


 胸のあたりでざわめいていた組織は、夏生が心を許したとたん、一気に加速して体を登ってきた。

 すぐに顔面まで覆われる。


 呼吸はどうすんだよおい、とか思ったが、それも一瞬のこと――。


 後ろから引っぱりあげられるような感じとともに、五体の感覚が急激に遠ざかっていった。

 のしかかる組織の重さも生暖かさも、まったく感じなくなる。


 ――なんだ? ――どうなった?


 なにも見えない。何も聞こえない。五体のあらゆる感覚がない。思考だけの世界に、夏生は存在していた。


 ――ようやく来たよ。もー。

 ――ニーニーのいくじなしー。


 頭の中にそんな思考が湧き起こる。

 自分が考えたことだと錯覚しかけたが、真琴と小鉄の思考なのだとすぐに気づいた。


 ――なんだなんだなんだ。どーなってる?

 ――どうやらテレパシー的に繋がっているらしいな。

 ――あ。そうか。みんなは初めてなんですね。これ。知らないんだ。

 ――これおもしろいねー。すごーいすごーい。あはははは。

 ――む。


 ――なんだなんだ。なんなんだよ。おれの頭の中で勝手に考えるなっての。


 頭の中で誰かが勝手に考えているために、自分の考えを組み立てられない。


 ――待ってください。いま調節しますから。


 たぶん志津の思考なのだろう。思考の中でまで彼女は遠慮がちだった。


 頭の中でこだましていた五人分の雑念が遠ざかってゆく。

 自分一人きりの状態は静寂そのもので、ようやく物を考えられるようになる。


 おれは夏生だよな。


 そう思うのだが、どうにも自信がなかった。


《だいじょうぶですか。夏生君?》


 こんどの声は、きちんとから聞こえてきた。

 自分の内側に湧いたりはしない。


《そっち志津? ほんとに志津?》

《なに言ってるんですか。――ほんとにだいじょうぶですか?》

《これって、一体?》

《よくわからないんですけど、秋津君は、みんなの能力が融合しちゃっているんだって言ってます。さっき心が連結しちゃっていたのは、あれ、わたしの接触テレパスの能力で――》

《いまどうなってる?》


 自分が何者であるかに確信が持てると、思考がしゃっきりとしてくる。


 テレパシーによる会話は言葉以外のニュアンスも伝わってくれるようで、ほんの一言だけで、志津は夏生の言いたかったことをすべて理解したようだった。


《それは――真琴ちゃんの能力を借りて視てみたほうが早いです》


 視よう――と思った瞬間、真琴の視ているものが、押し寄せる勢いで伝わってくる。


 暗闇が追い払われて、周囲のすべてが明らかになってゆく。

 自分のが土中に埋まっている。

 それをどこか外の視点から眺めている。

 何重にも折り重なる地層のカーペットがすべて透けて視えていた。その土砂の下に球根状の自分のが埋まっている。


《それ。自分――ちがう。夏生が自分だと思ってるそれが星船なんだってば》

《今現在、我々の本当の肉体は、操縦ルームに保存されている。例の組織は、いわば超能力の超伝導体として働くようだ。接触テレパスも過剰に働いているから、意識をしっかり保っておかないと、自分と他人との区別が付かなくなるぞ》

《ああ――わかってる》


 秋津の意識は厳密で理屈っぽくて堅苦しかった。

 自分とは違う――そう思うと、また一段ほど意識がはっきりとした。


《この球根みたいに視えているのが星船なわけか》


 肉体の目とは違って、どんな角度からでも自由自在に視ることができた。

 拡大も縮小も思いのままだった。地中に埋まった星船を、夏生は色々な角度から観察した。


 入ってきたときのトンネルはまた消失しているようで、星船は地中に完全に孤立していた。

 しばらくは何の心配もなさそうである。

 落ちついて、自分たちの置かれることになった新しい状況について考えることができる。


《直径はおよそ五〇メートル。硬い外殻の内側は、部屋となった空洞が存在するほかは、ほぼ均質な組織によって埋めつくされている。内部組織はこの先必要に応じて、様々な器官に分化してゆくと思われる。体内には機械の類は一切見あたらない。すべて生体で出来た宇宙船――つまり生体宇宙船とでもいったところだな》

《こいつ、やっぱり生きてるのか?》


 金星から飛来したアリシアの船も、中身は生木であった。

 こちらの船のほうは外殻が甲羅で、中身は肉質というわけか。


《さて。生物といえるのかどうか。こんな生物はこれまで知られていないからな。まあ代謝を行っていることはたしかだ。地下から熱エネルギーを吸い上げて、それによって代謝と成長を行っているらしい。根の先端はマントルにまで届いていると思われる》


 下に向かって視点を足してゆくと、細く伸びる根のようなものが、岩盤の合間を抜けてはるか下にまで続いていた。

 そこまで行くと透視でもさすがに視えなくなるが、根の先はたしかに地球の深部に向かっていた。


《どこからやってきたんだろうな》

《地球深部から、と考えるのが妥当だろうな。この周囲の地層には破られた形跡がない。少なくとも地上から入りこんだ物体ではないということになる》


 そういえばMIBメン・イン・ブラックのひとり〝J〟が、宇宙船は生えてくるものだと言っていた。

 その時は冗談かと思っていたのだが、まさか本当だったとは――。


《男の子ってそーゆーの好きだよね。でも、そろそろいい? さっきから――お待ちかねなんだけど》

《なにが?》

《忘れてるよこいつ》

《ナツ・オ》


 皆の誰とも違う心の声が、親しげに夏生を呼んでくる。


《アリシアか》

《……》


 アリシアの声は、それきり黙り込んでしまう。

 ただ親愛の情だけが、言葉ではないイメージとして伝えられてくる。


 信じられない純真さであった。

 夏生が意識さえ向けないことにも、ひとつひとつ喜怒哀楽を向ける瑞々しい感性を持っていた。


 惚れ直してしまいそうである。


 しかしこうして心が通じるようになってみて、夏生としては、がっかりしたことがひとつあった。

 彼女から伝えられる親愛と敬意の念は、夏生ひとりに向けられたものではなかった。

 この状態の――連結された六人に対して向けられていたものだった。

 星船自体も含んでいるのかもしれない。


《ナツ・オ》


 再び彼女が声にだす。


 そういえば彼女が覚えてくれた日本語は、この名前ひとつきりである。

 心の中でもそれしか言ってもらえないとは。

 テレパシーで心が通じるようになってなお、言葉の壁が立ち塞がってくるとは……。


《テレパシーも万能じゃないんです。使っている言葉が違うと、イメージのやりとりで意思疎通しないとなりませんから……。動物と話すのが、ちょうどこんな感じですね》


 思考というのは母国語で――つまり声に出すのと同じ「言葉」で行われているものだということを、夏生は初めて意識した。

 志津が通訳をするためにひどく苦労していたわけだ。


《わかってくれました? わたしの苦労》

《ところでさ――》


 夏生は話題を変えた。


《どこかに、なにか……。もうひとつあるような気がするんだけど……?》


 夏生たち六人とアリシアのほかに、もうひとつなにか――ちがう気配があるのだった。


 漠然としていて、はっきりとしない。

 夏生たちのように明確な思考をしているわけではないようだ。


《たしかに……、なにかいますよね》


 志津もそう肯定してくる。


 心象空間――とでもいうのだろうか。

 肉体感覚が消失して心だけとなったこの場所では、場所や方向といったものは意味を失っているが――。気配はあらゆる場所から感じられるようだった。


 巨大な獣がうずくまっていて、その体の下に自分たちはいるのだと――夏生はそんなふうに感じた。


 一度そう思うと、相手の息づかいまでもがリアルに聞こえてくるようであった。


《こいつは……、船か、星船なのか?》

《それ以外には考えられないだろう》


 話しあう心の声も、おもわず低くなってしまう。

 心の質量というか、体積というか、存在の大きさに関して、人間とは桁の違う相手であった。


 もし眠っているのであれば、起こさぬようにと――。


《お手――!》

《おいこら》


 小鉄がいきなり、そんなことを言いだした。


 ぐるる。


 うなり声とともに、巨大な心がこちらに向いた。


《お手っ!》


 また言う。強い口調で命令している。


 たし。


 それが手なのかどうなのかわかったものではないのだが、小鉄がいるあたりに、なにか巨大なものが降りかかってきた。


《重いよ~》


 くうん?


 人懐っこい子犬のような印象だ。


《へえー、おとなしいのねー》


 さっそく真琴が手を出しにいく。


 人間よりも巨大でありながら、ずっとシンプルな心の持ち主であるようだった。


 夏生たちが乗りこんできて初めて目覚めたのだろうか。

 生まれたての赤ん坊のように原始的な本能があるきりで、〝自分〟という認識がひどく薄い。


 よって〝他者〟の区別も曖昧だ。

 夏生たちのことを異物として見てはいない。

 自分の一部とでも思っているらしい。まるで警戒心というものがない。


 子猫の心を持った大虎か。

 それとも子熊の心を持ったか――。


《よしよしー》


 頭上からじゃれついてくる相手を、小鉄は上手にあやしていた。


 そういえば小鉄という少女は、自分よりもガタイのデカい相手を扱うことに慣れているのだった。


 今頃になって、そう気づいた。


《名前付けてあげませんか》


 遠巻きに眺めるだけの志津が、そう言った。


《ぽち》

《たま》

《うまかボー》

《アルフォンス》


《みんな、ひどいです。――小鉄ちゃんのなんて、それ、お菓子だし》

《お菓子じゃないよアイスだよ》

《秋津君のだって、それって昔、わたしが屋敷で飼ってた犬の名前じゃないですか》

《屋敷で犬を飼っていたのは私であって、冬野、君ではないはずだが》

《スサノオ》


 ぽつりと、アリシアが口にする。


《スサノオ……って、須佐之男命すさのおのみことのことでしょうか?》

《それ日本語か? 誰かが教えた言葉?》

《神話ですよ。古事記とか日本書紀だとか。誰も……、そんなことアリシアさんに教えてないですよね? そんな時間もなかったし》


 色々なことがありすぎて時間の感覚が麻痺しているが、アリシアと出会ってから、まだ十二時間も経っていないのだ。


《その名前でいいですよね。いちばんまともだし。――だけどこの子。男の子だったんですね》

《いや。それはどうかわからんけど……》

《お手。お手っ》

《マテ。マテ》


 真琴と小鉄の二人から矛盾する命令を告げられて、星船――スサノオは、尻尾でも振らんばかりに愛想を振りまいている。


 その様子は無邪気なものだった。


 姫君を喰らう魔物が待ち受けているのだと、そう思ったときもあったが、いらぬ心配だったと夏生は思った。


《真琴、小鉄――マテ》


 そう言って二人を止めておいて、夏生は星船スサノオと向き合った。


 距離の存在しない世界でのこと。

 おたがいに注意を向け合っているというだけの意味しかないが――やはり存在がデカい。

 対面すると、首を上に曲げて仰ぎ見ているような感覚がつきまとってくる。


 ここにやって来たのは、大きなおともだちと遊ぶためではない。


 船を飛ばすために来たのだった。


 生まれたばかりの無垢な心が、夏生に注目している。

 擬音でいうなら「きゅう?」だとか、そんな感じの音が鳴っているところだ。


《ええと……、飛べ、スサノオ》

《きゅう?》

《きゅうっていった、いまきゅうって――》

《飛んでみろ。おまえ、宇宙船なんだろ? 星船なんだから……飛べるよな? ほら飛んでみろ。さあ飛べ》

《きゅう?》

《かわいー》

《うるさいな。静かにしろよ。いま操縦しようとしてるんだからさ》


 騒いでいるのは、おもに真琴と志津である。


《いくら命じても、飛びはしないぞ。――夏生》

《なんでだよ?》

《おねがいしないとだめだよ、ニーニー》

《お願いしてもだめだろう》

《じゃ脅さないとだめなのか?》

《飛べと命じるのでもお願いするのでも脅すのでもなく、夏生――君がPKサイコキネシスで持ちあげてみてはどうかな》

《バカ言えよ》


 夏生は即座に言った。


 夏生のPKサイコキネシスで持ちあげられる重量は、せいぜい人間一人分までだった。

 今夜は色々とあったおかげで、以前と比べて大幅なパワーアップを感じていた。

 いま試してみたなら、一瞬くらいなら、車くらいは持ちあげられるかもしれない。


 だが――。

 たとえそうだったとしても、この星船を持ちあげるのは無理な話である。


 星船の直径は五十メートルほどだと聞いている。

 数字で出されてもすぐには想像のつかないサイズだ。

 かなりの大きさの部屋を七部屋も内部に抱えこんで、まだ余裕の残るような規模である。


 乗り物というより、これはもはや建造物のスケールだ。


 星船を持ちあげろということは、いわば、高層ビルを持ち上げろと言うに等しい注文なのだった。


《無理だろ》


 そうは言いつつも――だが秋津の言うことである。夏生は秋津を信頼していた。


 だめもとの気分で、やってみることにする。


 自分の体がどこにあるのか。そして対象物がどこにあるのか。

 心象世界のなかでは、どちらも判然としない。


《自分の体を持ちあげて浮かべるような感覚で》

《おう》


 すべて秋津の言うとおりに、やってみることにする。


 皆の注目が自分に集まっていることを感じつつ、夏生は力を使いはじめた。

 自分の体を持ちあげ――ようとすると、抵抗にであった。


 体の上に布団くらいの重さのものが覆い被さっている。

 たいした重量には感じられず、そのまま体を持ちあげてゆく。

 星船の船体を、自分の体と錯覚した感覚がいまだ残っている。


 それを呼び起こしながら、夏生は力を使っていった。


 五十メートルものサイズの船を持ちあげている実感はまるでなかった。

 あくまで自分の身一つを動かすという――秋津に言われた、それだけのつもりで、そのことだけを行おうとする。


《すご――動く。動いてる。動いてるよ》


 真琴の視界が共有されてくる。


 地層の下から星船は動きはじめた。

 土砂と砂礫と岩石とを押し上げて、岩盤さえ砕いて地中を移動してゆく。


 何万トン。何十万トン。あるいは何百万トンになるのかもしれない。

 それだけの重量物が、まるで羽根布団のようである。


 上昇を続けるは、やがて地表に到達した。

 真上にあるのは裏山だった。

 標高で計るほどもない裏山は、とてもとても小さく見えていた。


 下から迫りあがるで、裏山を割り開き、地球の内部から生まれ出るように、空中へと昇ってゆく。


《飛んだぞ――》


 空中百メートルほどの高さで、いったんを停止させる。


「ぎみゃああああ」


 大気を震わせて星船スサノオが鳴く。生まれ出たことへの産声のようだった。

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