お風呂と説明

 かぽーん。


 桶を使う音が反響して鳴り響く。

 天井のところの空間で繋がっている風呂場は、向こうの音がまるまる聞こえてくる。


 華やかな声が聞こえてくるとは違い、は静かなものだった。


 男三人、椅子を並べて鏡に向かって、わしゃわしゃと頭をシャンプーしている。


 きゃっきゃっきゃっ、やめてよー、もー、どこ触ってんだかぁ、えいおかえしだ、なんでわたしのほうにぃー、うわぁこれすっごーい、なにこれなにこれー、うわー、きゃー、とかいう声を聞きながら、空想力を働かせるばかりだ。


 なにがすごいのか。どうすごいのか。


「なあ」


 トニック系の香りを漂わせてくる左隣の男に、声を掛ける。風呂に入っている最中もメガネを外さない変なやつだ。


「透視能力。欲しくね?」

「いや。べつに」


 クールな返事が返される。

 本当にホンマモンに女に興味がないのかと疑りながら、夏生はシャンプーの泡をぶくぶくと立てていった。


「ねー、夏生ーっ――!」


 女湯のほうから、声がした。真琴の声だ。


「シャンプー貸してー!」

「志津から借りろー!」


 こちらも叫び返す。


「夏生のそれ――、あたしが普段使ってやるとおんなじー!」


 代名詞で〝それ〟とか言われる。


「そおー! それー!」


 夏生がシャンプーのボトルを手に取った瞬間、再び〝それ〟とか叫ばれる。男物のシャンプーなのだが。

 てゆうか視るな。


 やけくそぎみに、夏生はボトルを向こう側に放りあげた。


「おい」


 石鹸で頭を洗う右隣のデカい男に声をかける。

 こんなウラヤマシイやつ。トモダチでもなんでもないので話しかけずにいたのだが。

 堂々としたその態度に、思わず訊いてみたくなる。


「見られてるぞ。いいのかよ」


 夏生の言葉に、男は「ふ」と鼻息で返してきた。


「見られて困るような鍛えかたはしていない」


 いやそういう問題とも違うだろう。


 シャワーで泡を洗い流している最中――夏生の頭に、ある事実が天啓のように降ってきた。


「おれはいま大変な事実に気づいてしまった!」

「どうした?」


 秋津が熱のない声で言ってくる。

 前髪に隠した部分ハゲを鏡に写すのに、いま秋津はひどく忙しい。


「彼女は物を食べたことがない、といったな」

「そうだな」

「わかっているのか、おい? 物を食べたことがない、ということは、トイレにもいったことがない、ということだぞ!」

「究極の美少女、というやつだな」

「可憐だ」


 三人でうなずき合っていると、放物線を描いて洗面器が降ってきた。


「この馬鹿三兄弟」


    ◇


「ええと。体を洗ってあげたときに、いっぱい触れて、いっぱい読み取ってきましたから、同時通訳しなくても、わたしからだいたい説明できます」


 風呂を出て、洗い髪のままでラウンジへと集まる。

 ドライヤーは使わない主義なのか、腰までの黒髪をバスタオルでぐるぐる巻きにした志津は、はじめに皆にそう告げた。


「では質問のある人」


 髪を拭きながら、皆に言ってくる。

 となりでは姫様が志津を見習って、自分のグリーンの髪を同じ動作で拭いている。


「はいっ」


 夏生はまっさきに手を挙げた。


「その質問にはお答えできません。では次の方」


 口にするより早く却下されてしまった。が真実であるのか、確認しようとしたわけだが――。


「まず彼女がどこからやって来たのか、それから聞くべきだろう」


 秋津が軽く手を挙げてそう言う。


「金星だそうです」

「へー。金星か」


 夏生はうなずいた。


 きっと知らない星の名前が出てくるに違いない。

 ――そう思いこんでいたわけだが、意外と身近な惑星ほしの名前で安心する。


 金星なら夏生も当然知っている。


 夕方と明け方の夜空に、ただならぬ明るさで輝いているあれだ。

 夜が暗くなるまで遊んでいた小学生の頃と、朝が明るくなるまで遊んでいた中学生の頃とに、よく見かけたあの星だ。


「じゃあ、宇宙人って呼ぶのやめないとな。これからは金星人って呼ばなきゃ」

「待て。夏生」


 納得した夏生に、秋津がなにかを言ってくる。


「金星の環境を知らないのか。地表の気圧は九〇気圧。気温のほうも平均で五〇〇度近くあり――これは大抵の木材の発火点を超えている。大気成分は九七パーセントが二酸化炭素で、上空は濃硫酸の雲が覆い尽くしている。そんな過酷な場所だ」

「おまえ天文マニアでもないのに、よくそれだけ、すらすらとデータ並べられるよな」

「一般教養の範疇だ。――ともかく、とても生物の住めるような環境ではないはずだが」

「あ。とても大きな木があって、そのなかに都市を作って住んでいるそうです」


 志津がさらりと言う。


「燃えるだろ」

「燃えてますけど育つほうが速いので大丈夫だそうです」

「それはいったいどこの金星かと――いや、まあ、いいが」


 眉根を揉んでいた秋津だが、しばらくすると、なにかのダメージから立ち直った。


「話の腰を折って済まなかった。つづけてくれたまえ」

「はいはーい」


 次に手を挙げてきたのは、小鉄だった。


「お姫サマって、ほんとうにお姫様ぁ?」

「あ。そうだよそう。それそれ」


 夏生もぱしっと膝を叩く。


「ええと、なんて言ったらいいんでしょうか……。〝精霊〟――? とにかくなんだか、すごく高貴な立場なのは間違いないみたいで……。まあ日本語で言うと、お姫様で、それほど間違っていないんじゃないかと思います」

「それは金星の王族、とでもいうべきあたりになるのかな」

「ええと。王様は別にいるみたいで。王族とかそういう人たちの――始祖? 本家? そんな感じの尊い血筋らしくて」


 難しい話になると、志津は言葉を探すような顔になる。


「それは日本でいえば、天皇家みたいなものかな? 実権を握る為政者は他に存在していると?」

「ブルー、つまんにゃー」

「そうだぞブルー」


 ウケもしない領域に必要以上に細かく突っこんでゆく秋津に、小鉄と二人してブーイングを垂れてやる。


「どうせなら、もうすこし他のことを聞け。たとえば、金星にはどのくらいの人がいて、どんなところなんだ――とか」

「あ。そうですそうです。まずそっちのほうから言っておかないと――」


 ぽんと志津が手を合わせる。


「金星だけじゃないんです」

「ん?」

「地球だって、土地があれば、どこにでも人が住んでいるもんですよね。それと同じように、太陽系の場合にも、天体があれば、まずどこにでも人は住んでいるみたいで。まず大きな国家では火星王朝。それと木星には衛星都市国家群があったりして。あと土星のほうにもまた別な。水星には少数民族がいて、あと字の違う彗星のほうにも、またべつの――」


「にぎやかなんだな」

「その場合、国と惑星とは、イコールになるのかな?」

「みたいです。国同士の交流はあっても、船の数があまり多くないので、地理的に離れた場所に国は成立しないみたいで。地球でいうと、大航海時代の始まる以前って感じでしょうか」


「ひとつ質問」


 夏生は手を挙げた。


「そんな話、社会科の時間にやってないよな」


 皆に顔を向けて確認を取る。

 ひょっとしたら授業でやっていたが、自分が寝ていて聞き逃してしまったとか――。ゆとり教育とやらのせいで省かれているのだとか――。


 皆からうなずきが返ってきたことで、夏生は自信を持った。

 その先を続ける。


「なんでおれたちは知らないんだ?」


 夏生たちのこれまでに知る「常識」とは、まるで違う話であった。

 目の前に金星人の姫様がいる以上、志津の口から語られる姫の話は、頭から丸ごと信じることになるわけだが――。正直言って、夏生も少々混乱気味である。


「知らされていない、というのが正しいのだろうな」

「はい。鎖国――ってありましたよね。日本の昔。江戸時代あたりに」

「このあいだ小学校で習ったー! ガイジン日本に入れないのー」


 小鉄が元気よく手をあげる。志津は微笑んで、先を続ける。


「それと同じことみたいです。地球は、太陽系の他の惑星――国々に対して鎖国を続けているらしくて」

「なんで?」

「さあ……。なんででしょう? 地球が鎖国している理由は、金星の人たちも知らないみたいです。鎖国を解いて交流するように、時々やってきて働きかけはしているみたいですけど、問答無用で追い払われるだけだとか」

「それがUFOになるわけか。あれってやっぱ、よその惑星ほしからやって来ている宇宙船なわけだろ?」

「はい。星船……とか、そんなニュアンスの名前で呼ばれています」


 と、そこで話がぱたりと止まる。

 夏生の理解を待ってくれているように、間を作ってくれる。


 そろそろいっぱいいっぱいであった。

 頭の許容限度キャパシティをオーバーしてしまいそうだ。


 金星人がいる、というところまでは、まだよかった。


 太陽系という名前の寂れたアパートに、自分以外の隣人はいないだろうと思っていたら、じつは隣の部屋にきれいな女の子が住んでいたのでした――というところまでなら、まあ納得もできる。

 単に気づかなかったのだろうで説明が付くし。

 きれいな女の子の隣人は、いないよりは、いたほうがいいのだし。


 しかし、じつは太陽系アパートは満室なのでした――といわれると、さすがに頭の切り替えが追いつかない。


「もうすこし待て。――まだその、なんだ。イメージ完了できてない」


 夏生は額を押さえてそう言った。


 太陽系アパートの隣人を、みな、綺麗なおねえさんとか、色っぽいおねえさんとかで埋めてゆくと、だいぶ納得してもいい気分になってくる。


 そうだよ気づかなかっただけなんだよ。よし完了。


「あたしさ……。火星の写真って見たことあるんだけど。――たしかロケットを使って、なにかいっぱい飛ばしているんだよね? どこにでも人が住んでいるっていうなら、なにか証拠だとか、まずいもんがあがってきちゃうんじゃないの?」

「探査機なら、火星にも金星にも、それ以遠の外惑星にも無数に到達している。観測データも送られてきている。――が、事が政府絡みであるなら、いくらでも編集は可能だろう。都合の悪いデータは秘匿して、無難なデータだけ発表すればいい」


「時代劇のドラマで、電柱の映ってるシーンがあったら、放送しないで、こっそり始末しちまうようなもんか? 探査機が送ってきた火星の砂漠の写真のなかに、火星コーラの空き缶が落ちてても、火星ケンタッキーの看板が写っていても、その一枚だけ発表しなければ済むってことだな」

「いや。さすがにあたしも、火星にコーラがあるたぁ、思ってなかったけど――。しかし、なぜにケンタッキー?」


「いやさ。このまえテレビで、スフィンクスの真向かいにケンタッキーがあるのを見ちまってさ。そいでもって、二階はピザハットなんだよな」

「へーへー」


「問題となるのは、アマチュア天文家が観測可能な範囲だが――。金星は雲の下にあるから観測不能として、火星のほうは都市が存在しているなら、市販の望遠鏡で充分見えてしまうはずだが」

「火星にあるのは地下都市だそうです。地表に広がっているのは砂漠ばかりだそうで」

「それならば、観測事実と一致するな。ところで、これまでの話のなかで、いくつか質問があるのだが――」


 秋津が志津に向けて、いくつかの質問を投げかける。


 専門的で〝つまんにゃー〟話がまた始まったが、今度は夏生も止めないでおく。

 大鉄と小鉄の二人が静かにしていると思ったら、兄の腕のなかにすっぽりとはまりこんで、小鉄が居眠りをはじめている。

 大鉄はその妹を起こさないように、身じろぎ一つしていない。


 夏生は席を外して、ラウンジからベランダへと出ていった。


 夜風にあたってみると、興奮していたのか、体が熱を持っていることがわかった。


 出る前にちらりと目に入れた壁時計では、時計の針はそろそろ十時を回ろうとしているところだった。

 夕飯の最中に隕石落下現場に出かけてゆき、姫を奪取、その後に飯、風呂とイベントをこなしてきたわりには、時間が経っていないように思える。


 今日は本当に色々なことが起きた。


 昇りはじめた月に夜の校庭が薄く照らされている。

 夜風に頬をくすぐられながら、ぼんやりと眺めていると、携帯を使いながら真琴がベランダへと出てきた。


「うん。うん。――わかってるって。だいじょうぶだってー。ちがうってー。志津のところに泊まるんだからー。じゃあ切るよー」


 フリップをぱたりと閉じて、夏生の隣に自然に並んでくる。

 風呂を出ても前と変わらぬ制服姿だ。


「連絡忘れてたら、親、怒ってた。また男友達と遊んでるんでしょ、とか言われちった。うちの親、けっこうするどい。あなどれない」


 短い髪を夜風に揺らせて、真琴は夏生と同じように夜の校庭を見つめる。


「なに考えてるの?」

「凄いことになったなぁ、って」

「あたしは、わくわくしてる」

「だろうな。見ててわかる」


 夏生はそう言った。


 まだ小学生の小鉄なら、なんにも悩まず喜んでいるだけなのも納得できるし、大鉄は妹の命令がなければ悩むこと自体ないのだろうし、秋津ほど超然としているなら、なんの動揺も示さないことにも理解できる。


 志津はあれでだいぶまいっているらしく、話の最後のほうは口調が棒読みとなっていた。


「夏生はわくわくしてないの?」


 タフな女子高生は、夏生に向けてそう言ってくる。


「おれか? おれは――」


 夏生は考える。

 真琴の言うように、わくわくしていないわけではないが、そういうのとも違う気がする。


「――夏生のばあい、わくわくってよか、ドキドキかもね」

「なんだよ。それ」

「あれ? 気づいてなかった? さっきの話のあいだじゅう、姫様、夏生のことだけ見てたのに」

「えっ?」

「ほら来た。じゃあお邪魔虫は行くねー」


 ラウンジに戻っていった真琴と入れ替わりになって、姫がやってくる。


 なにを見てもめずらしそうな顔をする少女は、ベランダのコンクリを裸足で踏みつつ、夏生のもとにやってきた。


「ナツヲ――」


 夏生を指差し、笑顔でそう言ってくる。


「ナツオ」


 微妙に違う発音を、夏生は直した。


「ナツ・オ?」

「そう。夏生」


 夏生がうなずくと、彼女の顔が、にぱっと明るくなる。

 その自分の笑顔を指し示し、彼女は言った。


「ア……シャ」


 自分の名前なのだろう。

 その音は、アリーシャ、もしくはアリシアというふうに聞こえた。


「アリーシャ?」


 首を横に振られる。


「アイシャかな?」


 また首を振られる。


「アリシアだ」


 少女はやや不満げな顔をしながらも、うなずいてきた。

 姫様の名前はアリシアというらしい。

 これまで名前を聞いていなかったことに、おかしさを覚えて夏生は笑った。すると彼女も笑ってくる。


 ころころとあどけない笑いに夏生は見入った。


 どうして彼女はこんなところにいるのだろう。

 たったひとりで、違う惑星ほしに――。


 そんな肝心なことを訊いていなかったことに、夏生はいまさらながら思い至った。


 夢の中で出会った彼女の懸命な顔を思い出す。

 彼女はなにかを訴えかけようとしていた。


 いろいろなことを聞かされはしたが、肝心なことは、まだなにも聞いていない。


 彼女が、なんのために地球にやって来たのかということは――。

 いつの間にか、彼女は笑うことをやめていた。真面目な顔で、夏生を見つめている。


 見つめ合ううち、彼女のほうから手を伸ばしてくる。


 テレパシーなのか。

 額に触れた彼女の掌から、夏生の心にイメージが直接伝わってくる。


 夏生にテレパシーの素養がないせいか、ひどくぼんやりとしたイメージだった。夏生は心を凝らして、そこに集中していった。


 それはなにかの危機のイメージのようだった。


 混乱――あるいは戦乱。

 一つの惑星だけでなく、太陽系全体に及ぶような巨大なスケールでの争乱だ。


 禍々しい〝外敵〟のイメージが、次に伝えられる。


 太陽系に生きる生命とはまったく別種の存在で、起源も行動原理も異なる〝それ〟は、完全に理解不能の存在でありながらも、ただひとつだけ――理解できる目的を持っていた。


 抹殺。


 太陽系に存在する全生命の抹殺である。

 その強大で禍々しいイメージに比べて、太陽系の諸文明は無力に等しい存在であった。

 肉食獣に食い荒らされる草食獣の群れのように、数万年周期で繰り返される惨劇のたびに、いくつかの文明が消え、生き残った文明も退行を余儀なくされていた。


 だがひとつだけ――。


 牙を持つ存在があった。

 希望とともに〝英雄〟のイメージが伝わってくる。


 太陽系のなかで唯一、外敵に対抗する力を持つ英雄。

 それは地竜の星――つまり地球から現れるのだという。


 彼女は地球で生まれた新たな星船のシグナルを聴いたのだ。そして希望を胸に抱いて、地球へとやって来た――。


「ちょっと待てよ」


 夏生は目を開けていた。

 額にあてられていた掌が離れると同時に、イメージもぷっつりと途絶える。


 目の前の光景が戻ってくる。


 彼女は――アリシアは、夏生のことをまっすぐに見ていた。

 初めて出会った時から、いや、出会うよりも前――夢の中に現れたときから、彼女は同じ表情を夏生に向けていたのだった。


 その表情の意味に、夏生はいまようやく気がついた。


 敬意と希望。そして切実な願い。

 そこにあるのは――。


「ちょっと待ってくれよ……」


 一歩下がって、夏生は言った。


「おれが、そうなのか?」


 しばらくの間があって、アリシアはうなずいてきた。


 接触が解けているので、もう心は伝わってこない。

 しかし少しのあいだ心で触れあっていた夏生には、彼女が地球式の肯定の仕草に慣れていないことも、地球の言葉はわからないがテレパシーで言っていることは伝わっていることも、すべてわかっていた。


「おれたちに、やれって? 太陽系を――救え?」


 また、うなずかれる。


「待て。ちょっと待て。待ってくれ」


 夏生は言った。


 彼女が何かを願っていたことは知っていた。

 自分にできることなら、してやりたいとも思った。わざわざ地球までやって来るのだから、大変な願いだろうということは薄々感じていたし、だからなんとなく聞きそびれていたわけだが、しかしまさか太陽系を救えとは、そりゃまたいくらなんでも――。


 なんと言っていいのか、夏生が戸惑っていると、アリシアが夏生の胸の中に飛びこんできた。


 小さな体を抱き止める。


 こういう行動の意味って太陽系共通なのかしらん、とか考えつつ、夏生はドキドキと高鳴りはじめる鼓動を意識していた。


 英雄をやるかわりに、自分の身を自由にしていいだとか、まさかそんな、なんかのえっちなゲームみたいな安っぽい――。


 抱きしめた身体から、またイメージが伝わってくる。


 〝英雄〟というのは、夏生が想像したような行儀の良いものではないらしい。

 もっと荒ぶる手の付けられないような怪物的存在であり、「毒を以て毒を制す」ということわざの通りのものであり――。


 つまり彼女は、その怪物的英雄への人身御供となるために――。


「君を、喰らう――?」


 アリシアから伝わってきた概念と、その決意の悲壮さに、夏生の思考は痺れたように止まってしまった。


「あー、やっぱり、お邪魔虫だったか」


 真琴の声にリセットが掛かり、夏生は、はっと我に返った。

 腕のなかでアリシアは身を固くしている。肉食獣に捕らえられてしまった小動物のように――。


「いやあのっ、これはべつに、そんなんじゃなくて――」


 と、そこで、アリシアを抱いたままだということに気づき、ぱっと身を離す。


「く、喰わない、喰ったりしないから――!」

「なにそれ? なんの話?」

「いやだから――」

「あ――、それより夏生」


 夏生の釈明をどうでもいいことのように遮って、真琴が言う。


「やつら、来たから」

「えっ?」


 混乱していた頭が、しゃっきりと冷めてゆく間を取って、真琴が言ってくる。


「やつらっていうか――単数形だから、やつ? いまはまだ一人。学校の敷地の外側をうろついてる」


 真琴のその目は、夜の闇を貫いて、校庭のさらに先へと向けられている。


 アリシアを連れて、とりあえず室内へと移動する。

 ベランダに面しているのはサッカーコートが二面も取れる無駄に広い校庭だけだが、どこから見られないとも限らない。


「どうしてここがわかったんだ?」

「見つかるのは時間の問題だと考えていた」


 夏生の問いに、秋津がすかさず返事を返す。

 MIBメン・イン・ブラックの手がここまで伸びてきたというのに、まるで動じていない。


「夏生のバイクのナンバーでしょ。自転車の防犯登録番号でしょ。ええと……、あとなにがあるっけ。携帯の電波とかって、あれ、逆探知可能なんだっけ?」


 真琴が指折り数えてゆく。


「いや。夏生のバイクはまだ名義変更が済んでいないし、自転車の防犯シールは私が剥がしておいたので、そちらで足が付くことはない。電波の件も説明は省くが問題はない。だが我々は見るからに高校生だな。この周囲数キロに高校はいくつあるか。しらみつぶしに探したとして、今夜か、明日中には追っ手が掛かると考えていた」


 ごく当然の物事を説明するように、秋津が言う。


 ショックだった。

 そのあたりのことを、夏生はまったく考えていなかった。


 逃げ切ったから大丈夫と、簡単に安心してしまっていた。なによりもいちばんショックだったのは、真琴よりも考えなしであったということだが。


「幸い、いまここにやって来たのは、一人だけのようだ。二十六人から、一人減って二十五人か。――さすがに手が足りていないらしい」


 そう言ってから、秋津は挑むような目を夏生に向けた。


「どうする、夏生」

「相手が一人なら、チャンスじゃねえか」


 夏生は不敵に笑ってみせた。

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