10-5


 俺がゾッとするほど大量のメールに驚いたのは、晩飯を食べ終え、ついでに、リビングでしばらくテレビを見るなどしてゆっくりし、お風呂にまで入って、十二分にリラックスした後のことだ。


 同時に、大量の着信履歴にも気が付いたので、俺はなにかあったのかと、メールの内容を確認する前に、慌てて先輩に、直接電話することにした。


 俺が電話をかけてワンコール鳴るか鳴らないか、驚異的な速度で、電話は繋がる。


『――十文字じゅうもんじ君? 十文字君だよね? 十文字君でいいんだよね?』

緑山みどりやま先輩、すいません。ちょっと、その、色々あって、着信に気付くのが、遅くなりました……」

『十文字君。十文字君だ。十文字君! 十文字君十文字君十文字君!』


 ……本当なら、ここで俺は、色々と察するべきだったのかもしれない。


 だが、大量のメールと着信履歴にすっかり面食らい、浮足立ってしまった俺は、この危険な兆候を、見事に見逃してしまった。


「あぁ、はい十文字です。それであの、一体なにが」

『あのね、あのね十文字君。勉強会、そう勉強会なの』

「勉強会?」


 いつもの落ち着いた先輩らしくない、興奮しきり、上擦った様子で、彼女は突然、まくし立てる。


『うん勉強会。勉強をするの。します。勉強会を、します』

「あ、あの、落ち着いてください先輩! 大丈夫、ちゃんと聞いてますから」


 後から振り返れば、ここで俺は、確かに違和感を感じていたのだ。

 感じてはいたのだが、それがなんなのかまでは、想像が及ばなかった。


 もしかしたら、俺は意識的に、その違和感の原因を考えることから、目を逸らしたのかもしれない。


『ご、ごめんなさい。ちょっと落ち着くわね』


 電話越しに先輩が、深呼吸するのが聞こえた。

 それと同時に、俺も自分を落ち着かせる。


 なんだか、胸の奥がザワザワしてきた。


『――もう大丈夫。あのね、みんなで勉強会をすることにしたの。勉強会と言っても本当は、紅葉こうようを楽しもうって企画なんだけど。ほら、最近は、みんなで集まる機会も、あんまりなかったじゃない?』


 落ち着いたと言いながらも、先輩は少しだけ、早口のままだった。


 しかし、勉強会……、いや先輩が言うには、勉強会にかこつけた紅葉もみじ狩り、か。


 確かに最近は、体育祭やら文化祭やら忙しく、クラスメイトの桃花ももか火凜かりんあおいさんはともかく、先輩や黄村とは、あまり直接会えていない。こういうイベントを設けることて、みんなでワイワイやるというのは、確かに魅力的な提案だった。


『私の父が、趣味で経営してるペンションが近くの山にあって、今年はまだ使ってないの。ちょうど今空いてるから、そこでどうかなって』


 趣味で経営してるとは、随分豪奢ごうしゃな話だと思ったが、そういえば先輩の家は、かなりのお金持ちだったことを思い出す。


 しかし、場所の提供までするということは、今回の話は先輩の立案なのだろうか?

 だとしたら、彼女がこれほど意気込んだ様子なのも、納得できる気がした。


 俺は無意識のうちに、違和感を誤魔化すために理由を探す。


「それは、楽しそうですね」

『そうよね? そうだよね? 十文字君なら、そう言ってくれると思ったの!』


 本当に面白そうな企画だと思ったから、素直に賛同しただけなのだが、なんだか先輩は俺の思った以上の勢いで喜んでいる。


 それはもはや、狂喜と言ってもよかった。


『それでね、善は急げって言うじゃない? 紅葉も丁度、見ごろだし、急な話なんだけど、十文字君は、明日って大丈夫?』

「明日、ですか?」

『うん、明日』


 本当に随分と急な話だと思ったが、確かに丁度明日は土曜で、学校も休みだ。

 そういう行楽こうらくを行うのなら、まさに丁度いいタイミングだろう。


 というか、この企画が明日行われる予定だから、先輩は、俺に急いで知らせようとして、大量に電話とメールを繰り返したのだろうか?


 だとしたら、先輩に悪いことをしたな……。


 そうやって、俺はまたしても、違和感から目を逸らした。


「みんなは、明日で大丈夫なんですか?」

『うん、大丈夫』


 俺の唯一の懸念はもうすでに、この楽しい企画に全員が集まれれるのかどうかだけになってしまったが、その心配も、先輩の一声で解消された。


 解消されて、しまった。


「分かりました。俺は大丈夫ですから」

『本当? 本当に? 本当に本当に大丈夫? 明日でいいの?』


 確かに急な話だが、丁度明日は予定もない。


 久しぶりの完全休日なので、一日寝ていようかとも思っていたのだが、それよりは格段に健康的なお誘いを受けて、内心嬉しかった。


 そう、電話越しでも分かるほど興奮している先輩と同じくらい、俺は喜んでいた。


「えぇ、大丈夫ですよ」

『やったぁ! それじゃあ、詳しい予定を伝えるね……』



 まるで子供みたいにはしゃいでいる先輩に、明日のスケジュールを聞いてから、俺は安心して、自分のベッドにもぐり込む。


 明日は朝が早い。今日は色々あって疲れた。だから、早く休まなくては。


 俺は先輩と直接話せたことに安心してしまい、彼女から大量に届いていたメールの中身を確認することすら忘れ、気怠い疲労感に引っ張られるように、闇に落ちるように眠りについた。



 だから、俺は気が付かなかったのだ。


 先輩が俺に出し続けたメールの、その本当の意味に。




 翌日、俺は寝坊した。


 本当は早起きしようと思ったのだが、前日の肉体的な疲労のせいか、それとも、やはり心のどこかで、なにか不穏な空気を感じていたのか、なんにせよ事実として、俺は寝坊した。


 俺は慌ててベッドから飛び起きると、寝間着から着替え、勉強会という名の行楽に向かうための準備を始める。


 行楽と言っても日帰りの予定なので、それほど時間はかからなかった。


 最後に財布と携帯を引っ掴んで、俺は急いで、階下へと向かう。

 メールの確認をしてる時間は、残念ながらなかった。



 すでにキッチンで朝ご飯の用意を始めている母さんを捕まえて、俺は昨日の夜に、急遽決まった予定を伝える。


 彼女が云々という話から昨日の今日なので、なんだか随分と冷やかされてしまったが、結果として母の快諾を得た俺は、そのままきびすを返して、急いで家を飛び出す。


 そのまま全速力で駅へと向かい、駅前のバスターミナルで、昨日先輩から聞いたバス停を探し出し、目的のバスが来るまでまだ少しだけ時間があると分かった瞬間、俺はようやく、一息ついた。


 すぐにやって来たバスに乗り、小一時間ほど揺られれば、本日の目的地である山のふもとに到着した。山と言っても、本格的な登山に挑むような険しいものではない。老若男女問わず楽しんで登れる、どちらかと言えば観光地として側面が強い山だ。


 バスの中で居眠りしてしまった俺は、バスを降りると同時に、一つ大きく伸びをして、自然の爽やかさをたっぷりと含んだ新鮮な空気を、思い切り吸い込んだ。


 少し気分が落ち着いたところで、俺はずっと仕舞っていた携帯を取り出し、先輩に電話をかけると、またもやワンコール鳴るか鳴らないかのタイミングで、あっという間に繋がった。


「あっ、先輩。今バスから降りたところなんですけど……」

『十文字君! ごめんね、私、色々と準備で忙しくて、迎えに行けなくて……」


 先輩のお父さんが所有しているペンションは、一般の観光客が山に登るだけのルートから、少し外れた場所にあると聞いている。慣れないと、ちょっと分かり辛いということで、近くまで来たら電話するようにと、先輩にあらかじめ言われていたのだ。


『それでね、バス停からは……』

「なるほど、なるほど」


 俺は先輩との通話を続けつつ、詳しい道順を聞きながら、ペンションへと向かう。

 なるほど、これは確かに、ちょっと見つけ辛い道かもしれない。


 バス停から、それほど距離があるわけではないが、ちょっと人気のない小道を分け入って、少しだけ山を登る必要があり、その上、特に道しるべもないので、なにも知らない人だと、なるほど、確かに迷ってしまうかもしれない。


 まぁ、俺には先輩のナビゲートがあるから、そんな心配はないんだけど。


『十文字君! こっちこっち!』

「先輩!」


 かなり立派なペンションの入り口で、俺を見つけた先輩が、ぴょんぴょんと飛び跳ねてこちらにアピールする。携帯からは、先輩の嬉しそうな声がこぼれていた。


「すいません、お手数おかけして」

「ううん、私の方こそ、迎えに行けなくて、ごめんね?」


 俺たちは互いに携帯を切って、今度はようやく、生身で言葉を交わす。

 なんだか、こうして直接先輩に会うのは、随分と久しぶりな気がした。


「さぁ、十文字君。入って入って」

「……は、はい」


 秋らしい緑のワンピースの上から、品の良いカーディガンを羽織った先輩が、俺の手を思った以上に強い力で握りしめ、そのままペンションの中へと俺を導く。


 そのいつもの彼女らしくない強引な行動に、俺は多少面食らってしまった。


 だが俺は、なにも言えない。

 俺の手を引く先輩の笑顔を見ていると、なにも言えなかった。


 俺の超感覚ちょうかんかくが、なにかを告げている気がしたが、俺はそれに気付かない。

 気が付かないフリをしているだけ……、なのかもしれないけれど。


「わぁ、このロビー、とっても広いですね」

「十文字君の手って、温かいのね。私、このままずっとこうしていたいわ」


 会話が噛み合わない。

 先輩は俺の手を優しく撫で回しながら、俺をロビーの椅子へと誘った。 


「あの、みんなは?」

「ここまで歩いて。喉乾いたでしょ? すぐに飲み物持ってくるわね?」


 会話が噛み合わない。

 先輩は俺を置いて、奥に引っ込んでしまった。


 誰もいない静かなロビーで、俺は一人静かに、先輩が戻ってくるのを待つ。

 俺たち以外に人の気配はない。


 このペンションにいるのは、俺と先輩の二人だけだ。


 俺の超感覚が、なにか叫んでいる気がしたが、俺はそれに気付かない。

 気が付きたくないだけ、なのかもしれないけれど。


「お待たせ。十文字君、アイスコーヒーでいいかしら?」


 まるで、あらかじめ全ての準備を終えていたかのように、迅速に飲み物を持ってきた先輩は、俺がなにか答える前に、良く冷えたアイスコーヒーを差し出した。


「……いただきます」


 その美味しそうな黒い液体を、俺は先輩に勧められるがまま、素直に口を付ける。


 そうさせるだけのなにかが、俺の眼前で、満面の笑顔を浮かべている、この親愛なる先輩の瞳には、宿っていたからだ。



 俺の意識は、そこで途切れた。



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