10-6


 以上、回想終了。


 多少補足するのなら、アイスコーヒーを口に含んで意識を失った後、次に目を覚ました時には、俺はもうすでに、椅子に四肢を縛りつけられ、拘束されていた。


 自らが突然陥った、非現実的すぎる展開にしばし呆然としていたら、樹里じゅり先輩がワゴンで昼食を運んできて、俺に食べさせてくれたのが、ついさっきの話だ。


 先輩が、朝出会った時と同じ洋服を着ていたことと、用意してくれたのが昼食だったという事実、ついでに、窓から見える空の色なども加味した結果、俺が気絶してから目を覚ますまで、それほど時間は立っていないと推測できた。


 この部屋には時計もなく、俺の腕時計も外されてしまっているので、実際のところは分からない。というか、これで本当は、もうすでに数日経過していました、とか言われたら、大分困ってしまう。それだと、大騒ぎになってるだろうし……。


「っと、いかんいかん……」


 俺はネガティブな想像を切り捨て、とりあえず現状の把握に努めることにする。


 このまま客観的に確認できないことを、当てもなく考え続けるのは、あまりに非生産的だ。今の状況では、そんなことを考えている余裕は、ない。


「さて……」


 俺は再び、注意深く辺りの状況を探る。

 超感覚を研ぎ澄まし、部屋の中だけではなく、外の様子にも、細心の注意を払う。


 問題は、俺は果たして、どのタイミングでこの拘束を解けばいいのか、だ。


 今の俺は、確かに拘束こそされているが、この程度だったら少し命気プラーナを使えば、あっさりと抜け出せる。


 だがしかし、ここで下手に動いて、俺がこの拘束を、無理矢理引き千切って脱出したと、先輩に思われてはいけない。扉や、鉄格子や、壁を破壊して逃げたと、推測すらさせてはならない。


 そんなことは、である俺には、できてはならない。


 俺がただの人間ではないと、少しでも気取られるわけには、いかないのだ。


 拘束から抜け出せたのならば、それが、ただの人間にも可能だったという理由を用意しなければならない。同様に、この密室から一人で抜け出せたというのなら、その理由も。


 力任せに逃げ出すことは、確かに可能だが、それでは、今後の俺の日常に支障をきたしてしまう。


 卑怯者の俺としては、それだけは、なんとしても避けたいことだった。


 まぁ、本当に切羽詰まったら、四の五の言ってられないとは思うのだけど、それでもギリギリまでは、なんとか秘密を隠す方向でいきたい、情けない俺なのだった。



「……おっと」


 俺の超感覚が、樹里先輩がこの部屋へと戻ってくる気配を感じとる。少なくとも、今このタイミングで、脱出はできない。


 俺は大人しく椅子に体重を任せ、全員の力を抜き、現状に絶望してるような雰囲気を出すために、露骨なくらい項垂うなだれてみる。


 できれば、このあからさまに落ち込んだ俺を見て、先輩が自らの行動を思い直し、俺を解放してくれたりすると、嬉しいんだけど……。


 そんな淡い期待を込めて、静かに耳を澄ませ、先輩の到着を待っていると、ほどなくして、この部屋唯一の扉の方から、ガチャリガチャリと、複数の重そうな鍵が開く音がした。


 本当に、どれだけ厳重に俺を閉じ込める気なんだ……。

 俺は今更ながら、背筋に冷たい汗が流れるのを感じる。


 扉が開く音がして、扉が閉まる音がして、再び幾つもの鍵を閉める音がして、ようやく先輩は、俺の前に再び現れた。


「遅くなってごめんね、統斗すみと君? 寂しかった?」

「……いえ、大丈夫ですよ、樹里先輩」

 

 ニコニコと満面の笑顔を浮かべながら、先輩が俺の顔を覗きこむ。


 本当に、ゾッとするほどの笑顔だった。


 どうやら、同情を誘って開放してもらうのは、無理だと考えた方がよさそうだ。


「実はね、おやつの用意してたの。もう少ししたら、一緒に食べようね?」 


 笑顔の先輩は、持ってきたトレーを近くのテーブルに優雅に置くと、この部屋のクローゼットへと向かう。トレーで運ばれてきたのは、美味しそうなクッキーだ。


 昼食を食べたばかりなのだが、どうやら少なくとも、おやつを食べる時間までは、先輩はこの部屋にいるつもりのようだ。


「あの、先輩……、どうしてこんなことを……?」


 俺は、この部屋に閉じ込められてから初めて、樹里先輩にその理由を尋ねる。


 これまでは、なんだか聞くのが恐ろしくて、状況に流されるままにされていたのだが、流石にいつまでも、こうしているわけに行かない。


 俺も、覚悟を決めるべきだろう。


「んー? こんなことって、なあに?」


 ゴソゴソとクローゼットを漁りながら、先輩はごく普通の調子で、俺に聞き返す。

 まるで、なにもおかしなことは起きていないとでも言うかのように。


 まずい。

 思ったよりも、危うい空気を感じる。

 ここで言葉を、選択を間違えてしまうと、取り返しがつかなくなる気がする。


「え、えーと……、その……、こうして椅子に座ってるだけなのも、なんだか飽きちゃったかなーって……」

「あら? 大丈夫よ。これから色々と、楽しいことが起こるんだから」


 そんなに弾む声で、なんて言わると、正直、恐ろしいのですが……。


 俺の全身からじんわりと、嫌な汗が滲み出てくるのが分かる。


 だが、落ち着け……、落ち着くんだ、俺……。

 冷静に、冷静に、先輩の考えを読むんだ……。 


 どうやら今はまだ、先輩は俺に対して、少なくとも直接的な危害を加えるつもりはなさそうだ。


 確かに、こうして軟禁こそされているが、俺を縛っているのが、柔らかな布であること、まだ俺の足のつま先や足首、膝部分を切断するなどの、より直接的に俺を逃がさない手段は行われていないこと、さっきの昼食でも、非常に丁寧に俺に食事を与えてくれたことなどから考えるに、先輩はまだいくらか俺に対して、理性的に接してくれていると言える。


 今はまだ、と考えた方が、いいのだろうけど。


「……楽しいことって、一体なんだろう? うわぁ、楽しみだなぁー」

「うふふ、すぐに分かるわよ?」


 とりあえず今は、樹里先輩を下手に刺激するべきではない。


 無暗に否定したり、拒絶したりすると、ただでさえ尋常ではない彼女の心のバランスが狂って、先輩がどんな行動に走ってしまうのか、予測ができない。


 血生臭い展開になることだけは、絶対に避けなければならないのだ。

  

 俺の安全という意味だけではなく、それは同時に、先輩のためでもある。


 俺はこんな状況に陥った今でも、この目の前の敬愛すべき先輩に、不幸にはなって欲しくないと、思っているのだから。


「うん! これにしましょう!」


 樹里先輩はクローゼットの中から、大きめのタオルを取り出すと、上機嫌で俺に近づいてくる。その笑顔は本当に楽しそうだが、同時に、ひどく恐ろしい。


「……先輩、タオルなんかで、一体なにをしようっていうんですか?」

「うふふ。統斗君、なんだか沢山汗をかいてるから、拭いてあげようと思って」


 汗を拭く、それを聞いた瞬間、チャンスだと思った。


 俺は今、椅子に縛りつけられているのだが、当然、洋服は着たままだ。俺の身体を拭くのなら、どうしてもこの拘束を解いて、服を脱がせる必要がある。


 つまり、この四肢が、自由になるかもしれないのだ。


 しかし、どうする? 

 拘束が解かれたら、多少強引にでも逃げ出した方がいいのか?

 そんなことをして、樹里先輩は大丈夫なのか?


 確かに逃げ出すチャンスだとは思ったが、果たして、それを実行してもいいのかどうか、俺の心は突然迫られた選択を前に、まったく考えがまとまらない。ただでさえ全身びっしょりなのに、更に冷や汗やら、脂汗が出てきてしまう。


「それじゃ、顔から拭くわね? 危ないから、目を閉じてね?」

「あっ、はい」


 俺は、まるで赤ん坊のように、先輩に優しく顔を拭いてもらいながら、迫りくる選択の時を、祈るように待った。こうなったら、出たとこ勝負か?


「うん、次は、胸ね?」

「は、はい……」


 先輩は丁寧に丁寧に、俺のシャツのボタンを一つづつ外していくと、タオルを手の平に張り付けるようにして、俺の胸元に差し込んだ。俺は緊張のあまり、上手く声が出てこない。


「ちょっと、拭きづらいかな?」


 そう呟くと先輩は、俺の正面から背後へと回り込み、まるで俺を後ろから抱きしめるようにしながら、俺の胸元をいじくった。


 いや、俺の汗を拭くためなんだけどね?


「大丈夫? 痛くない?」

「は、はい……、大丈夫です……」


 俺の耳元で囁く先輩の優しい声に、その吐息に、先程までとは別の意味で、俺の背筋は震えてしまいそうだった。


 それからしばらく、樹里先輩は丹念に丹念に、俺の胸を拭き続ける。

 俺は、先輩の呼吸音で鼓膜をくすぐられながら、ただ沈黙するしかなかった。


「ごめんね……」

「――えっ?」


 いつ、どのタイミングで拘束が解かれるのかと、実は内心ドキドキしていた俺は、先輩の突然の謝罪に一層強く、ドキリとしてしまう。


 なんだろう、一体なにについての、ごめん、なのかな……。


「これじゃ、背中はちゃんと拭いてあげられないね。ごめんね……」


 あぁ……、そういうことですか……。


 どうやら、樹里先輩はあくまでも、この拘束を解かない範囲で、汗を拭こうとしているようだ。俺はなんだか、気が抜けてしまう。ガッカリしたような、ホッとしたような、不思議な気分だ……。


「でも、夜になったら、ちゃんと全部してあげるから……」

「えっ……」


 俺の耳元、本当に触れるか触れないかギリギリの距離で、先輩は怪しく囁く。

 俺はそのしっとりとした声に、全身がゾクリと震えてしまった。


 先輩はそれ以上なにも言わず、黙って俺の身体を拭き続ける。この部屋には時計がないので、正確な時間は分からないが、彼女は随分と長いこと、そうしていたような気がするのだった……。



「はい! おしまい!」

「……ありがとうございました」


 俺の身体を、拘束を解かない範囲で念入りに拭き終えると、その使用したタオルを綺麗に畳みながら、樹里先輩は満面の笑顔を見せてくれる。


 そして、畳んだタオルをテープル近くのソファーへ、丁寧に置くと、この部屋に備え付けられている洗面所に、手を洗いに行った。


 洗面所……、トイレか……。


「あの、先輩!」

「うーん? なーにー?」


 少し離れた場所にいる先輩に声が届くように、俺は少し声を大きくする。


「その、俺がトイレに行きたいって言ったら、どうなるんですかね?」


 これまでは予想外の展開にすっかり驚いてしまい、トイレのことなんて、完全に忘れてしまっていたのだが、考えてみれば、俺は今、全く動けないのだ。これは見過ごせない問題だった。


 もしかして、トイレに行きたいと言えば、この拘束も外してもらえるのでは……。


「大丈夫よー。ちゃんと尿瓶しびんも用意してるからー」


 俺の目論見は、あっさりと崩れ去った。

 というか、むしろトイレに行きたいなんて言えなくなってしまった。

 先輩……、尿瓶って……。


 まったく恥ずかしいとか、照れるとかしていない、普通の声色なのが、むしろその本気度を感じさせる。どうしよう……、恐い……。


 ……でも、大きい方をしたいって言ったら、どうするんだろう?


 なんて、一瞬頭をよぎったが、なんだか、とんでもない答えが返ってきそうで、俺は厳重に、口をつぐむ。


 樹里先輩……、なんて恐ろしい人だ……。


「それじゃ、おやつにしましょうか?」


 しっかりと手を洗い終えた先輩が、この部屋にある冷蔵庫から、なにか飲み物を取り出し、こちらに戻ってきた。


「はい。お願いします」


 今の先輩に、決して逆らってはならないと再確認した俺は、もはや言われるがままである。先輩が持ってきたのは、またもや、よく冷えたアイスコーヒーだった。


 プラスチックのコップに注がれた、その漆黒の液体にストローを差し込むと、先輩は笑顔で、俺に差し出す。脳裏には当然、これと同じものを飲んで昏倒したことが思い返されたが、俺は従順にストローを咥え、吸い込む。


 俺の口内に、絶妙な苦みと芳醇な香りが広がったが、残念ながら、それを楽しんでいる余裕はなかった。


 どうやら、今回は大丈夫だったようだが、正直、味がまったく分からない。


「それじゃ、クッキー、食べさせてあげるわね?」

「うわぁい。嬉しいなぁ」


 先輩は俺と同じコップから、俺と同じストローを使って、アイスコーヒーを飲みながら、テーブルの上に置いておいたクッキーを一つ掴むと、俺に差し出す。


「はい。あ~ん」

「あ~ん」


 差し出されたクッキーを素直に受け入れると、素直に咀嚼そしゃくし、素直に飲み込む。


 うん、美味い。

 美味いと思う。

 アイスコーヒーと一緒で、殆ど味は、分からないけれど。


「どう? そのクッキー」

「うん。とっても美味しいですよ?」

「よかった! 実はそれ、私の手作りなの!」

「へぇ、樹里先輩の手作りなんて、嬉しいなぁ。先輩、お菓子作り上手なんですね」


 そうか……。このクッキー、先輩が作ってくれたのか……。

 もっと別のシチュエーションで、味わって食べたかったなぁ……。


「うふふ! 嬉しい! それじゃ、一杯食べてね!」

「は~い」


 先輩は満面の笑顔で、俺にクッキーを与え、アイスコーヒーを飲ませ、自分もクッキーを食べたり、俺と一緒のアイスコーヒーを飲んだりしている。


 その顔は、本当に嬉しそうだった。


「それじゃ、夕食も、腕によりをかけて作るわね!」


 夕食も、ということはこのクッキーだけじゃなく、もしかしたらさっきの昼食も、先輩の手作りだったのかもしれない。そうだとするなら、もっとしっかり、ちゃんと味わって、食べればよかったなぁ……。


 俺はすっかり、現実逃避モードだった。


「それで、夕食の後は……」

「……はい?」


 なんだかぼんやりしてしまった俺の口の端についたクッキーの欠片を、先輩はその細い指を使って、直接取ってくれる。


 そしてそのままクッキーの欠片を自らの口に運ぶと、その指をじっとりと舐りながら、俺の耳元に、その唇を近づけた。


「――ふふ、楽しみにしててね?」


 俺の耳元に、妖艶な吐息を注ぎ込みながら、蕩けるような声で先輩は俺に囁く。


 そしてその唇で、俺の頬を優しく、優しくなぞりながら、彼女は離れていく。


「はい、統斗君、あーん……」

「……あーん」


 俺は先輩が差し出すッキーを、ただ馬鹿みたいに口に入れる。


 先輩はこれまでより少しだけ深く、彼女の指が、俺の口内に入ってしまうほど深く差し込む。そして俺がクッキーを食べたのを確認すると、その指を抜き取り、そのまま自分の口内へと運ぶ。

 

 先輩の瞳は、やはり、どこまでも本気だった。


 どうやら、時間的な猶予は、俺の思った以上に、ないのかもしれない。


 ……よし、逃げよう。


 俺はいい加減、覚悟を決めるのだった。



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