第4章 焚書法廷

 カークブライドの西側には山があり日が暮れるのが早い。狭いこの都市でも特に複雑で密集した街路を持つ南地区は、時間によって日が差し込まない場所が多々あり、広場の開放感よりも閉所の安心感を、自然よりも都市を、単純性よりは複雑性を、平等よりも特別性を嗜好する人々の街区となっていた。つまり、いわゆるアーティスト気質、コレクター気質、偏屈屋、等を底辺とし、収入がある者も思想家、批評家、哲学者、画家、作家などが好んで住み着いているというわけだ。いくつもある安アパート以外では、食堂も高級店よりは安居酒屋が目につき、カフェだけはやたらと多く、小劇場、映画館、古書店、雑貨屋が軒を連ねている。金よりも物品と精神性が優先されるが故か、犯罪は少ないようだが街路は常に汚れており、ぎりぎり浮浪者ではないという程度の何者かが一ブロックごとに野営しているため、冒険気分の学生たち以外の訪問者は奥に入ることはない。それでも北端のエリアだけは整備されていた。そこは銅像の建っている広場になっており、半ば観光地的な意味合いを持たされていた。古書、古着を中心に手作りの雑貨やガラス工芸品の露店が常時開かれており、珍奇な物をインテリアにしたがる人々や、購入はしないが目だけでも楽しませようとするカップルによって休日は賑わっている。

 九郎はパイプと読書を趣味としているだけに、この街区へ通うことが多々あった。もっとも深場に入る気はさらさらなく、広場周辺の露店、タバコ屋、カフェだけで満足していた。好みがうるさいのはパイプに詰める葉の種類だけだったし、タバコ屋の店主と顔なじみとなった今では、注文すれば彼が深場に潜って探してきてくれる。

「例の新種は入ったかな?」

 九郎はラスタ・スタイルの店主に聞いた。見かけほどにはラスタマンでない内面を持つ店主は生真面目に応じる。

「すいません、残念ながら手に入れることができませんでした」

「珍しいね、失敗とは」

 茶化すでもなく九郎は言った。実際、店主は約束は守る男だったし、仕入れルートについてもかなりのレベルで把握していたはずだった。

「お詫びにこいつをサービスします。わたしが栽培しているものです。限定で販売していて、予約で完売したのですが、自分用をあなたに」

 店主は申し訳なさそうに言うと、小さな木箱を棚から出してきた。

「そこまでしてもらって悪いね。じゃあ、他のも買うことにするよ。こちらも催促したわけじゃないんだ。しくじりの理由が聞きたかっただけでね」

 九郎はいつもと違う高めの銘柄を選んでカウンターに金を置いた。

「しくじりというほどじゃないんです。ちょっと油断していたんですね。五年に一度、この時期の数日だけ物資の輸入が途絶えるということを忘れていたんです」

「それは妙なことだね。どうして?」

 初耳の、しかも奇妙だった。

「五年に一度だけやってくる特別便の船が積み荷を降ろすまで、他の船が入港を禁止されるんです。積み荷を間違えないためとか、紛失しないためと言われていますね」

「そんな大事な荷物がこの街にねぇ?」

「思ったよりもこの街は重大なものが隠れているんです。もっともわたしはそれが何かを知りたくはありませんが。赤い巻物の中身を見るな、ってね」

 店主は九郎の品物を包み終えて釣り銭を用意する。受け取った小銭をポケットに突っ込んだ九郎は小首をかしげた。

「赤い巻物?」

「その特別便が運んでくる積み荷の焼き印が巻物のマークなんです。そして赤い巻物のサインを使っている団体がそれに関係している」

「へぇ」

「……と、言われています」

 店主は微笑んだ。

「なんだ。そういう噂ということか」

「はい。噂を確かめたいとは思いませんが。わたしは浅い位置で商売している人間ですし、命は惜しいですからね。旦那も深い場所には入らないことです。」

「ありがとう。僕も怖いのは避けることにしている」

 九郎は店主ににやりとして見せて店を出た。

 さて、もらい物の葉を試してみるにはまだ日が高い。古本を買ってカフェに潜り込むことにし、露店に顔を出す。銅像の近くに段ボール箱に本を詰めて並べているだけの古本屋が今日も店を出していた。この手の簡易店舗は一昔前の流行本が主体で仕入れ値も売値も安い。詩や古典は置いていないが、時間つぶしには適切な本が多数ある。九郎が好んでいたのは宗教や社会思想の本だった。学者が陰謀論や疑似科学にはまり込んだ結果、奇怪な思想や宗教的啓示を学術本として出版してしまうのだ。まともな体裁に騙されて買う者も多いが、内容が内容なので当然ながら古本には流れやすい。過去に読み捨てたものの中では、爬虫類型の宇宙人が人類を支配しようと潜入していることを警告した宗教学者の本、猫が独自の言語を持ち文明社会を築き上げていると主張している動物学者の本などが突出した異常さという意味で傑作だった。

 釣り銭の箱を横に椅子に座っている若い店主に黙礼し、本が詰まった箱の中を覗いていく。と、目にとまった一冊がある。『世界文学裏面史――文学をコントロールする巻物の秘密結社――』というタイトルだ。先ほどタバコ屋の店主がしていた話とまったくよく似ている。噂話の元となったのはこれか、とかがんで拾い上げる。

「あ、あ! ああっ!」

 突然、悲鳴に似た声が聞こえた。九郎に向かって上げられた声だったのだと気づいたのは、声の主がまさにその古本を奪い取るように手を出してきたときだった。

「それよ! それ!」

「な、なんだ、いったい?」

 九郎は本を放さなかった。子供がオモチャを奪い合うような格好になる。本の反対側にいるのはショートカットの小柄な女性だった。年齢はそろそろ若いとは言われなくなる頃だろう。美人と言える顔立ちだが薄化粧では性格のきつさは隠せていない。小さな帽子とタイトスカートのスーツ姿だ。

「あんたこそ誰? まさか妨害者?」

 彼女は出し抜けに言った。

「なんのことだ、いったい?」

 九郎も意地になったわけではなかったが、本を握って抵抗し、助けを求めるようにおんぼろのスツールに座り込んでいる店主を見た。まだ若いが世間のすべてのことに関心をなくしてしまっているかのような顔をした店主は、それでも古本についてだけは興味対象の内であるらしく、九郎から本を奪おうとした女性に警告するように声をあげた。

「先に触れた方が優先ってのが古本のルールだよ。その兄さんが許さないとあんたはそいつを買えない」

「お金の問題じゃないの! いや、あんたが妨害者でないならいくらでも、いや、倍は払ってあげるけど!」

 女性は混乱した早口でまくしたてる。

「僕は妨害者じゃない……それが何かはわからないけど、ともかく違う」

 九郎が否定すると、店主もうなずいた。

「その兄さんは地元民だし、ここらでは顔の利く有名人だ。保証する。それにどう考えてもあんたのが怪しい。その本、倍でも値段は二ドルしかしない。相場崩しか?」

 そう言われて女性はようやく落ち着いたらしい。それでも本を放さず「大丈夫? それを持って逃げない?」と、九郎にしつこく確認してくる。

 あまりに真面目に問われたので九郎は戸惑うが、問いにはうなずく。

「逃げやしないさ。それにこの本はちょっとした興味で読みたかっただけだ。それも本気でしっかり読み込もうってわけじゃない。事情さえわかればあなたにあげてもいい」

「本当? 本当に?」

「ああ」

 九郎の言葉にようやく女性は本を放した。九郎は店主に本を渡す。

「まさか稀覯本とか?」

 九郎は聞いた。店主は「落ち着け」と手で示し、受け取った本を表、裏、中身と確認する。ペーパーバッグよりも小さめのソフトカバーで、同じ装丁の本がいくつも段ボールに入っているところを見るにどこかのレーベルのごく普通の一冊なのは間違いない。一ドルと書かれたシールが背部に貼り付けられており、中の白紙部分にも鉛筆で値段の書き込みがある。おまけに出版年月日は二年前でしかない。

「この手のは数千部しか流通しないし、すぐに絶版になる。だがこいつがこの世にある最後の一冊だったとしても価値なんてないよ。その姉さんにとってだけ貴重なもんなんだろう。いいよ、兄さんが値札どおりの一ドルで買ってからそちらで交渉してくれ」

 店主は言った。九郎は女性を見たが、その本に価値がないとは納得していない顔をしていた。

「僕はこれを持って逃げないし、中身を時間つぶしに読みたいだけなんだ。もちろんあなたから大金をせしめるチャンスだとも思っていない。だから、僕がこれを買って、それを読んだらすぐにお渡ししますよ。それで?」

 九郎は近くのカフェを指さした。少し悩んだ後、女性は首を縦に振った。本を受け取って金を渡し、カフェに向かって歩く。その間、女性はぴったりと九郎に寄り添い、逃がすまいという構えだった。九郎も意地になってしまって本をしっかりと握ったまま放さない。カフェに入ると平日でそれほど混んでいないのに一番壁際の席を女性は指さした。秘密の話でもあるのか、あるいは単に九郎が逃げないようにというのか。

「だからさぁ、こちらも実際、興味はなかったんですよ。でも、あなたの行動で興味が出てきてしまった」

 九郎は席についてコーヒーを頼んで女性を非難がましく見た。女性はアイスココアを頼んだ後、不機嫌そうに名乗った。

「ラリー・コールマン」

 その名前にどこか覚えがあったので、九郎は小首をかしげた。すると苛立ったようにラリーは解答を口にした。

「作家。『シェークスピアの夜の記憶』」

「ああ」

 九郎は納得した。

「さっき古本にもありましたね」

 ラリーはさらに不機嫌な顔になる。『シェークスピアの夜の記憶』は世界的ベストセラーだった。九郎もタイトルは知っている。とはいえ読んだことはない。娯楽本を読み飽きた結果として、映画化されるようなベストセラーを避けるようになっていたのだ。

「あ、とはいえ名乗らなかったのは失礼」

 九郎は名を名乗った。

「本をあまり読まない人?」

 ラリーが突然に聞いてきた。

「どうして?」

「わたしの名前にすぐ気づかなかったでしょう?」

「そこは失礼。でも普通気づくものでもないでしょう? それに読書が好きだとしても、読む傾向が違えばすぐには名前を思いつかないものです」

「じゃあ、どんな読書傾向を?」

「娯楽以外」

「ふん、また娯楽軽視の人? だいたいそんな風に区別して小説を分ける人がいるから……」

 ラリーが不機嫌になり何事か長い言葉を連ねようとしてきたのに気づいた九郎は、それを遮って先ほどの本を見せながら意見を口にする。

「恋愛ものや泣かせものが嫌いなだけですよ。こういう本だって娯楽は娯楽だ……。それとも、あなたは娯楽以上の意味をこれに見いだしているんですか?」

 ラリーは怒り顔で口をつぐんだ。そして「読め」と手を振る。こうなると九郎も黙って本を読むしかない。

 『世界文学裏面史――文学をコントロールする巻物の秘密結社――』を開く。著者はシン・キャッスル。略歴には考古学者とだけあり、卒業大学も成果も現職も書かれていない。著者のうさんくささに輪をかけて内容もうさんくさかった。著者はとある古代文献――ピラミッドで発見されたエメラルド・タブレットの写本らしい――の解読をきっかけに冒険を繰り広げることになったのだが、肝心のところが《ここでは明かせないが……》で占められているのだ。そして、謎の黒服の妨害に遭い、名を言えない大物学者に出会い、謎の組織に命を狙われながら、行き着いた先は世界文学をコントロールする集団だった、というのが結論だ。彼らは巻物の紋章を秘密の合図としており、その首領は秘術を使って文学を意のままにできるのだという。《文学を意のままにできる》という表現はよくわからないが、原文がそうなっているのだから仕方がない。三〇分もせずに読み終えてしまった。いつの間にか運ばれてきていたコーヒーに手を伸ばすと、まだ暖かい。

 内容を知った九郎は、軽蔑と言うよりは困った人を見るときのおずおずした目線をラリーに向けた。

「……あなた、この内容を信じている人?」

「ふん、そう来ると思ったわ……」

 ラリーは不機嫌顔でカフェのテーブルを指で叩いていた。どうやら完全にこの内容を信じ切ってしまっているというわけではないらしい。

「でも、わざわざこの街まで来たのはどうして?」

「こっちだってそれなりに調べ物はしたわよ。噂を聞いてきたの。巻物の焼き印の秘密結社についての」

「そりゃ噂でしょうに」

「だから噂を聞いてって言ったじゃない。でも、荒唐無稽という前に誰か確かめたことがある?」

 ラリーが挑戦的な目で身を乗り出してきた。

「いや。この街は少々危ないことが多すぎて」

 九郎が首を振ると、ラリーは値踏みするように九郎を見た。

「ほら。ということは荒唐無稽でも信じないわけにはいかないものがこの街にはある。そういうことでしょう?」

 この言葉には九郎もうなずいた。それでも否定的な言葉を口にする。

「しかし、確実なのは数年に一度、ある時期に巻物の焼き印を押された荷物がこの街の船便のすべてを占めてしまうって話だけ。そして赤い巻物の紋章を持つ結社がそれに関係しているってことは、まだ噂にすぎない。もし仮にそこまですべてが事実でも、僕なら積み荷がヤバいものだってことを信じるだけですよ。それ以上調べたくはないな」

「つまり、わたしのように積み荷が特定の書物だとは考えていないわけね」

「本? まぁこの本にはその結社は文学を操ると書いてありますがね。そこを信じる理由は僕にはないですよ」

「そうだ、まだ読んでないんだった。ちょっと待っててもらえるかしら?」

 ラリーに言われて九郎はうなずいた。作家なら読むのは自分よりも速いだろう。

 九郎は本をラリーに渡した。ラリーはそれを読みながらも九郎に話しかけてくる。

「あんた、本をよく読む人だって言ってたでしょう?」

「ええ、まぁ」

 九郎は戸惑う。どうやらラリーは読書と会話を同時に行えるタイプらしい。

「だとしたら、わからない?」

「え?」

 彼女の言いたいことがわからずに九郎は聞き返す。

「最初にも言ったけれど、世界的な作家を前に読書人がする態度ではないでしょう?」

 ラリーは常識を知らぬ相手への説教とばかりに本から顔をあげて、怒気のある目を九郎に向ける。これには九郎も不快になるよりも先にうんざりしてしまう。

「そりゃあ、あなたの本を読んでいなかったのは確かですが」

「そういうことでなく!」

「え?」

「普通わたしレベルの作家が、文学の危機について語っていたら、読書人としてもっと興味を持つはずでしょう?」

 「僕にとってあなたは文学全体を代表するとは思えない」という言葉を九郎は飲み込む。面倒ごとは避ける方がいい。

「誰が語ろうと文学が操られているなんてことは信じないですよ」

「でも、ノーベル文学賞が一大学の特別委員会で決められていることに疑問はもたないでしょう?」

「それは単なる事実でしょう。それでも文学をコントロールするなんて誰も思っていない」

「そこがわからないなんて。彼らが読む冊数には限界があるの。だから彼らに読ませるために出版社が選定を行っているわけ。ベストセラーが読まれるわけではないの」

「それはわかるけれど、それなら巻物の秘密結社が彼らだというだけでは?」

「わたしが調査したところでは違うの。例としてあげただけ。彼ら、つまり巻物の秘密結社は焚書をやっている」

「焚書!」

 これには九郎も驚いた。だが書物をこの世から消すということが可能とはやはり思えない。

「そういう結社があってもおかしくないとは思うけれど、現実には不可能でしょう。政府と結びついて市場を規制するのが関の山。現代は電子化された書籍もあるし、本自体は海外で流通させることもできる。ネットの分断さえ可能な独裁国家の話なら別ですが、それならそもそも結社なんて必要ないわけで」

 九郎の意見にラリーもうなずいた。だが、続いてとんでもないことを真剣に口にした。

「そこで、わたしも嫌々ながら荒唐無稽なことに同意しなくちゃならないわけ。彼らは本当に文学を操ることができる。それがこれまで調べてきた結論よ。それなりに大きな出版社をまわって聞き取りもした。そうしたらどうやら五年ごとに書物が焚書されていることは確実だってわかったの。出版記録が残っていて、タイトルもわかっている。書店や問屋の収支決算も合っている。それでいて本は残っていない。誰に聞いても内容をおぼろげにしか覚えていない」

 九郎は驚いたが、それを顔に出すわけにもいかず、同意するわけにもいかなかった。

「少なくとも意味がわからないですね」

「でも、この本に書いてあったことと同じでしょう?」

 ラリーはちょうど読み終えたのか例の本を閉じて表紙を指さした。

「確かに、文学を操る、という表現しかなかったですからね……」

 わずかでも同意した部分にラリーはつけ込んでくる。

「わたしは取材して自著が消えた作家を見つけた。そして、そこになんらかの人為的な操作があることがわかったの。なんと原稿は紛失しているか、データは消えていたの」

 ラリーがにやりとした。人気作家というだけあり性格面には難があるが相手の興味を誘導して自分の主張を納得させるのはさすがに上手い。

「取材して事実だったならどんなに荒唐無稽でも信じないといけないでしょ? わたしも『シェークスピアの夜の記憶』を出して以来、やれ歴史を知らないだの疑似科学だ陰謀論だと騒がれたこともあるけれど、それを肯定している証拠があるなら信じるべきよ。そりゃあ小説だから誇張はするけれど。でもベースにあるのはシェークスピアはフランシス・ベーコンだったという事実なのだし」

「事実?」

 感心したのをいったん棚上げにする事態に九郎はびくりとする。

「文献があるなら証拠でしょう? それを採用して世に問うのが小説じゃない。そして実際に売れた。学者が認めなくても大衆には真実がわかっている。そうでしょう?」

 ラリーは得意げだ。九郎が否定しようとしたが、話はまだ続く。

「別の著作ではマイナーな歴史上の人物に光を当てもした。天動説をガリレオ以前に知っていた神父よ。研究者が一人しかいなかったからその人の著書に内容をほぼすべて依存することになったけど、売れたことでその神父の魅力も証明できたし、研究の正しさも皆が知るところとなったわけ。売れた後でその研究家が研究成果の横取りとかグダグダ言い始めたけど、正式に訴えてこなかったのだから、正しいのはわたし……いいえたくさんの人たちに支持されるのがやっぱり正しいってこと」

 さすがに九郎も反論する気がなくなってきた。

「わたしは今度のテーマを言論の自由についてとしたの。あらゆる規制団体と政府に抗議し、現代の焚書ともいえる言論統制に反対するってわけ。それを調べてたら巻物の秘密結社に出会った。なかなか手に入らなかったけど、この本を資料にするわ」

 『世界文学裏面史――文学をコントロールする巻物の秘密結社――』をラリーは掲げた。

「なるほど」

 と九郎はうなずく。うなずくことしかできなかったからなのだが、ラリーはそれを同意と受け取ったばかりか「もっとあなたの話が聞きたい」という意味として解釈したらしい。

「実はもうシリーズの最初は書いてあるの。あなたが知らないと思うから説明すると、政府の焚書に図書館組合が反発。ついに組合側に死者が出るの。それを受けて図書館は裏のルートから攻撃型原子力潜水艦を手に入れて独立図書館とする。言論の自由を脅かす国家に核での脅しをかけることが可能になったわけ。ここまで聞くと堅いテーマに思われるでしょうけれど、潜水艦内と地上とに引き裂かれた恋人のラブストーリーがメインなの。言論統制国家でゲリラとして戦う女性と潜水艦艦長の遠距離恋愛よ。いいでしょう?」

「そのために取材したいことはわかりましたよ。では、僕はこれで。本をお役立ててください」

 九郎は立ち上がる。

 と、素早くその袖をラリーがつかんだ。

「だ・か・ら」

 怒気混じりにラリーは九郎を見据える。

「だから?」

 意味がわからずに九郎は聞き返す。

「だから、それが世界的作家にする態度?」

「え? まだ話を?」

「そうじゃなくて、この先に危険があるにきまってるわけ。わたしが一人で? 死んだら世界的なニュースになるっていうのに?」

 ラリーは脅迫するように言った。九郎は言いたいことは理解したが、断るしかないと首を横に振る。

「手伝いませんよ。危険があるなら今までだってあったんでしょう? それにお金はあるはずだ。シークレットサービスくらい頼めるはず」

「頼みましたとも」

 ラリーはうなずいた。

「それならどうして」

「彼らはどこからかの圧力で手を引いたの。その後、わたしのファンクラブに連絡をとって軍隊経験者を募ったのだけれど、彼らも途中で逃げ出してしまった」

 とんでもないことをラリーは言った。彼女の言葉が嘘だろうとそうでなかろうと、この場で孤立しているのは確かなようだった。九郎は仕方なく助け船を出すことにする。

「それならカークブライド・ホテルに宿を取ってください。僕はここの組合には注文を出せる立場なんだ。そこからボディガードを貸してもらえるようにしますよ」

 九郎はうんざり顔だったが、ラリーはぱっと顔を明るくした。

「助かる! あなたボディガートとしては頼りなさそうだったからね!」

「……料金はきちんと請求しますよ」

 九郎はぼやいた。


                   ○


 ラリーが金に糸目をつけなかったので、このカークブライド・ホテルの最上級サービスとはどんなものかを九郎ははじめて知ることが出来た。いつも適当な晩飯を作っているシェフが魚介料理の達人で、ワインカーヴにはビンテージが眠っていることなどまるで知らなかったし、なにより従業員がこんなに存在していたのかというほど沸いて出てラリーのチップを付け狙っていた。

 ともあれ九郎が絶品と感じた夕食を「まぁまぁ」と評したラリーは、食後に二人を娯楽室へ誘った。二人というのは九郎とエリのことであり、ラリーの興味が主に美少年のエリに向いていることは確かだったが、エリならうまくあしらうだろうと九郎は快諾した。もっとも酒と葉巻がおごりでなければ断っていただろうが。ビリヤード台とダーツが据え付けられた娯楽室のソファに座ったラリーはエリを呼びつけてコニャックと葉巻のセレクトを任せた。九郎は横から「コニャックはビンテージでなくていい。葉巻はビンテージを」と口を出した。

「なんで? お酒もいちばん高いのじゃないと嫌」

 ラリーが文句を言った。

「おごらせておいて難だが、あんたの酒の飲み方じゃ三杯目には味もわからなくなってる」

 すでに口調はくだけており、九郎もラリーのあしらい方がわかってきたというところだ。

「ならお酒はそこそこのでいいわ。ただ葉巻は最低の安物をね! 私は吸わないし」

 部屋を出て行くエリにラリーは大声を出す。

「なんで意地を張るんだか」

「だからそれが作家に対する扱い?」

「作家が偉いって思い込んでるのか?」

「知識人だからよ。社会を外側から見てそれに意見する立場だもの」

「ならウェルメイドな波瀾万丈型のメロドラマなんざ書くなよ。小説からも外側に出て自分が何を書いているか冷静に見てみろ」

「わたしは大衆の側につくのよ、なにがあろうと!」

 九郎が「それは君の頭が悪いからだろう」と言いかけたとき、エリがトレイを押して戻ってきた。実に心得たもので、酒はマーテルの市販では最高級となるブランド『シャンテルー』、葉巻にはラベルが貼っていないものを選んでいた。

「あら、この子、偉いじゃない。限定でなくてもこれならまぁいいわ。そして葉巻はノーラベルなんてよほどの安物ね! よくできたわ」

 ラリーがエリの頭を撫でる。冗談めかしてはいるが、銀色の髪をすいて耳の裏を愛撫しているあたりに性的な含みがある。

「エリは見た目通りの子じゃないぜ」

 九郎は葉巻を取り上げて香りを楽しんだ。葉巻においてラベルなしは高位の葉巻職人にしか許されないオリジナルブレンドのハウスシガーであることを示している。トレイに載っていた大型のカッター付きライターを使って、ゆっくりと煙を楽しむ。

「それで明日はちゃんとボディガードをかけあってくれるんでしょうね?」

 ラリーはブランデーグラスにたっぷりと氷をぶちこみ、並々と酒を満たしていた。それには何も言わず、九郎は煙を吐き出してからうなずいた。

「そこまではするさ。それ以上はさして興味もない」

「興味ない? だって、あんたも本を読む人なんでしょう?」

 ラリーはグラスを飲み干して意気込む。

「焚書が行われているかもしれないのよ!」

「現代で焚書が可能とは思えないからね」

 冷たく九郎が答える。

「そこはあんたが本を出版したことがないから。出版前なら可能なわけ」

「出版前の本に価値が?」

「馬鹿ね! 編集者が読むんだからそこで価値がわかるわけよ! その段階で危険な本は出版されないどころか、著者まで消されるって寸法よ」

 得意げに言って、ラリーはもう一杯ロックを作る。

「独裁国家でもない限り、危険な本なんてないだろうに」

「今まで誰も知らなかった知識や情報は社会を混乱させるから危険よ」

「誰も知らないんだったら、売れなくても学者が国費で出版するだろうよ」

 即座に反論してしまい、九郎はラリーのペースで話が進んでいることに内心で落ち込む。

「そりゃ善意で書かれているならね。きっとその類いの焚書されるような代物は悪意で書かれているから」

「それなのに焚書を暴こうとしているのか?」

「悪書でも燃やすのはダメでしょ。言論の自由に反する」

「でも、それをしているのは出版そのものなんじゃないのか? あんたの論では」

「焚書そのものを糾弾できなくても、脅せば焚書そのものは手に入るでしょ? そうしたら私が少し内容を変えてそれを出版できるようにするわ」

 体のいい盗作ではないかと指摘するのは踏みとどまる。

「それじゃあ調べれば調べるだけあんたにお得な案件だな。失敗しても体験記が冒険物にはなる」

「ふん、わかってきたじゃない」

 ラリーは鼻を鳴らしてまたもグラスを干す。ほどなくろれつが回らなくなり、九郎も反論の必要はなくなった。葉巻が吸い終わる頃にはラリーは完全に眠りこけていた。

「では部屋まで送りますね」

 それまで酔っ払いにおとなしく絡まれていたエリが、その肢体に似合わぬ力でラリーの肩を抱き起こした。

「いや、僕も行く」

 九郎が反対側の肩を背負った。

「一人で大丈夫ですよ? 後のことを心配しているならこちらも女性慣れしていないわけではありませんので。先代にもいろいろ教えてもらいましたし」

 本当に顔に見合わぬことをエリは言う。

 九郎は口をとがらせた。

「この女の思い通りにしたくないだけだよ。それより明日はこいつを起こさないでくれ。僕だけで組合に行くから。そうでないと騒ぎ立ててややこしいことになるだろうし」

「了解しましたよ、先生」

 エリは柔らかい笑みを見せた。


                   ○


 組合の窓口は混み合っていたが九郎はそこを回り込んで裏口から中に入った。患者に認められている権利であり、今こそそれを使うべき時だった。警備部警察係の事務所を直接訪ねる。警備部の半数ほどは九郎の顔を把握している。そのため突然の訪問にも驚かれることはない。ただ今回は驚かれなかっただけでなく待ち構えていたような空気があった。応対してくれた若者が向こうから声をかけてきたのである。

「やっぱり南地区に入るんですか?」

「毎度噂が流れるのは早いね」

 九郎は肩をすくめた。患者は街の人々にとって興味がある対象だから、誰がどこで話を聞いていてもおかしくはないが、この分では詳細まで知られていそうではある。

「ホテルマンが外から来た作家とのことを噂にしてましたからね。とはいえ南地区の奥は僕らも放置してますからねぇ」

 若い警察官はコーヒーと椅子をすすめてくれた。

「でも、放っておくとあの作家、勝手に入っていきかねないからね。組合の係の者でなくてもいい。ボディガードを探して欲しい。有料……結構な額でもかまわない。最悪で金目当ての無鉄砲な命知らず。最良は南地区の奥に詳しいガイド、あたりで」

 九郎は条件を並べた。すると決まり悪そうに若い警官は笑った。

「すんません、実はもう前者に近い者が名乗り出ていまして」

「名乗り出ている?」

 九郎が驚きの声を上げるのと、奥からハンカチで手を拭きながら男が出てくるのが同時だった。

「なんだぁ、ちょっと間が悪いなぁ。俺が出迎えるつもりだったのに」

 つまりはトイレに行っていたということなのだろう。そして彼が名乗り出ている人物というわけだ。

 大柄な男だった。背は高く筋肉質でそれなりに鍛えているようだが、どういうわけか顎が引っ込んでいて顔の下側がそのままなだらかに首に繋がっているかのように見える。そのくせ唇にあたる場所はつんと前に突き出ていた。体と顔のアンバランスさは表情にも及んでおり、瞳の気弱さと裏腹に口の端には挑戦的な笑みを浮かべている。ヒゲはなく髪を長く伸ばしていて後ろで束ねているあたりも職業に相応しくない。

「彼が?」

「そうです。南地区には出入りしているそうで……」

 その説明を遮って大柄な男は声をあげた。

「ラリー・コールマンさんはいないんですか?」

 ぶしつけな態度に九郎は顔をしかめる。若い警官は「だから前者なんで」とだけ言って離れていった。

「あの作家なら呼んでいない」

「ふうん、来てないんだ」

 男は九郎の前のソファに座って落胆したように首を振った。

「それで本番には来るんでしょうね?」

「本番?」

「もちろん南地区に入るときに決まってるでしょうが」

 男は脚を組んで首を横に折り曲げた。体つきのアンバランスさから人間というよりはひとつの奇っ怪な塊のように見えた。

「採用するとは言ってないが」

 九郎が言うと男は大げさに目を見開いた。

「それはあんたが決めることじゃないでしょ。ラリー・コールマンさんが決めることだ」

「それならあの女に好かれてみるがいいさ。そうだな、それがいい。僕が行く必要がなくなる」

「あんた、行く気がないっていうこと? 何言ってるの? ラリー・コールマンさんに言われて仕事してるんでしょ?」

「僕は下働きじゃないぜ」

 九郎が即答すると男は首を傾けたままで不思議そうな顔をした。

「いいいけどさ。契約の話はあんたを通じてはできないってことなんですね」

「そういうことだが、僕が紹介するには違いないんだ」

「俺が直接売り込んだっていいじゃないか。患者は業者じゃないんですから」

「ならそうするがいい」

 いい加減に不快になっていた九郎は話を打ち切ろうとしたが、男には意図が通じていないのか引き留めるでもなく反発するでもなかった。

「そうしますよ。ところであんた小説は書くの?」

 不意に問われて九郎は戸惑う。

「いや。読むだけだ。何が?」

「何がって、別に。ふうん、書かないんだ」

 妙に表情を殺して男は言った。そういえばまだ名も聞いていなかったことを思い出したが、どうでもいいことだと九郎は立ち上がる。すると妙なことに男も立ち上がった。

「ん?」

 九郎が振り返り男を見ると向こうも見返してきた。

「あ?」

 疑問に思いながらも九郎が歩き出すと男もついてきた。どうやらラリーのところまで案内してもらえるものと思っているらしい。これまでの会話のどこにそう思える要素があったのかわからないが、そうなればホテルまで彼を無視して歩いて戻るだけだ。しばらくは無言でいたが向こうが口を開いてきた。

「俺、小説を書いてるんで」

 いきなりのことに九郎は思わず振り向く。

「何だって?」

「小説書いてるんで。俺」

 不機嫌なのかどうなのか判別しがたい顔をしていた。

「ああ、そう」

 どう答えたものかわからず九郎が小さくつぶやくと、男はうなるような声をあげた。

「小説書いていない人が、どうして焚書を調べるのかって聞いてるんだけど」

 そういうことかと理解した九郎は再び前を向いて歩を進めた。相手の顔を見ずにいたかったのだ。

「あの作家が危なっかしいからそうしているだけだ」

「ふうん、じゃあ小説ってもののの重要さをわかってないんだ」

 男は言った。顔を見ていなかったのは正解だった。顔を合わせていれば瞬間的に怒気がみなぎったことが知られていただろう。

「……重要な人には重要だろうね」

 怒りを抑えてどうでもいいことを言うと、男は急に饒舌になった。

「そういうもんじゃないでしょ、小説は。そういうんじゃないでしょ。社会のさ、そう、社会とか……思想。そういうの動かすのが小説なんだから、全部でしょ。世界の全部があるんですよ、小説に」

 無視しているというよりどう答えたものかわからずに黙っていると、相手は勝手に話を続けた。

「小説が人間を作るんだから、焚書のことは怒るに決まってるでしょ。怒らない人はあり得ないな。うん、あり得ない。人を燃やすのと同じだって昔から言うのだし。書いていないにしても、読むならわかるでしょう? ねぇ、そのはずですよ」

 どうやら質問されているらしい。答えないのも面倒だと憎まれ口をきくことにする。

「思想も別段、小説でなくとも伝わる。焚書にあうのは小説ばかりじゃあるまい」

「ふうん、そう思うんだ。そう思うなら思えばいいけど」

 徴発なのか、からかいなのかわからぬ口調で男は言った。

「たとえ小説が大事だろうと君が書いたものが重大なわけがなかろう」

 九郎は自分が相当に腹を立てていたのだと言い返してから気づいた。それに対する男の反応はかなり激しいものだった。

「そ……そりゃあ……! 発表していないし……! いや、でも、重大さはある……あるんだ。取材もしたんです。その、社会で重要なそれ……現場を見ている! 俺は。犯罪の!」

「君の仕事じゃみんな見てるさ」

「そうじゃない! 作家としての目がある! 取材はそういう目でないと意味が無い! 傍観者じゃないんだ! 作品で昇華できる限り」

「取材を作品にね? 君のじゃなくていい。どんな作品があるんだ?」

「……『フューチャー・クラッシュ』」

「知らないな」

「そりゃあんたに教養がないからだ。売れてるんですよ。それに素晴らしい小説だ」

「それが取材が素晴らしい作品だってこと?」

「そうだ。その作者が小説指南本を書いている。それに『フューチャー・クラッシュ』の執筆経過が載っていた。作者が真摯なことに、主人公の少女の心情描写のために性暴力被害に遭った女性のセラピー施設に取材に行ったんですよ」

「それを小説のために? レイプ被害者の女性から心情を聞いたって?」

「作品を通じて女性の心情を訴えることで被害女性のためにもなったんです。これが真摯な小説だけが持つ効果だ」

 男は断言して自分の言葉をかみしめるように沈黙した。

 おのずと九郎の顔がひきつった。

「……そいつは、どこで発表されたんだ?」

「発表? 発売ですよ! きちんと書店に並び、図書館にも入った」

「女性たちの手に?」

「女性が買えば。映画化もされた。女性の目に届くための広報には十分だったでしょうね。もちろん女性にだけ意味があるわけじゃないけど。男性向けだったし」

「男性向け?」

「内容が未来ファンタジー・アクションでしたからね。主人公の女性が性奴隷の出身で剣闘士の男によって救われる」

 得意げに男が言った。

 九郎は唇の乾きを感じていた。

「その本のために取材を?」

 自然、もう一度聞いていた。

「ページをめくる手を止められない良い本でした」

「ずいぶんいい本なのだろうね」

「それなりに売れましたから」

「それなりに?」

 さっきと言っていることが違う。

「今は占いや社会学のエッセイの方が売れますから。それに比べてということです。マイナーなレーベルからだったし。小説は売れないんで」

「そういうことなら社会学のエッセイでも書くべきだったんじゃないか?」

 九郎はめまいを感じていたが 無理に笑った。

「どこか具合でも? 休んでいてくれていいですよ」

「いや、歩ける。小説、小説ね」

 椅子に座ってパイプを吸いたくて早足になった。暗い街路に靴音が高く響いた。露天商でもいてくれれば気が散じたがそう都合良くはいかなかった。男はなおもその作品のストーリーと見せ場を説明していたが典型的ハードボイルドをファンタジーに焼き直しただけのものだった。笑わずに酒を飲み淡々と賭博をし冷徹に殺しをするが女にだけは潔癖。すべてが男のために作られたおとぎ話。

 ホテルに到着しカフェに向かうとラリーがクロワッサンとカフェオレを前にしていた。九郎が勝手に出て行ったことでエリを非難していたらしい。カフェに入るや九郎を指さしてぼやく。

「あんた勝手すぎるでしょうに! 雇ったのは誰だと……」

 ラリーが背後の男に気づいた。

「どうも! ジャン・シモンと申します!」

 同時に男が声をあげていそいそとラリーに歩み寄っていった。九郎ははじめて彼の名を知った。


                   ○


 ラリーとジャンの会談中はずっとパイプを吸っていたから彼女らが何を話していたかは覚えていない。それでも九郎は夢の中で聞いた会話のように漠然とした内容だけを把握していた。ジャンがひたすらラリーの著作を褒めたがその解釈がすべて間違っているとラリーが断じていた。ジャンはひたすら恐縮したがラリーのおむずかりは解消できず、結局のところラリーが一方的に小説論をまくしたてる関係に落ち着いたようだった。九郎がパイプの酩酊を炭酸水を飲んで抜く頃にはジャンが助けを求めるように九郎を見ている始末だった。細かいことは無視して、ともかく行動をするのが良かろうと九郎は立ち上がった。

「港から回ろうじゃないか」

「港から? どうして? 南地区に入るんでしょ?」

 ラリーが聞いた。

「入ってくる荷物が巻物印の箱だけになるってのが噂じゃないのなら、箱のことを一番知っているのは港の人々だろうさ」

 九郎は歩き出した。ラリーとジャンは後をついてきたが、ラリーの文芸講座はまだ続いているようだ。ラリー曰く「売れているものだけが素晴らしい」とのことで、それにジャンはなんとか反論しようとしているがうまくいってはいない。

「それじゃあ大量生産のジャンクフードが一番おいしいってことと同じじゃないですか」

「そうで何が悪いの? 世界の平均とればチェーン店の食事が一番に決まっているでしょ。雑草とタロイモ練ったものと芋虫みたいなものだけ食べている人が世界の何パーセント? 脂を塗ったフライパンをヤブ蚊の群れに突っ込んでヤブ蚊ハンバーグ作ってる人だっているくらい。味なんて想像したくないわ。コース料理なんて世界の一割も食べられてないってのに! 世界がジャンクフードで満たされて悪いことはなにもないわ」

 無茶苦茶な論理でやり込められているが、たとえ話に踏み込んだ方が悪いのだろう。それからも、それなりに歩くはずの距離をラリーは話しづくめ、港に到着したときにもまだ話し足りなそうにしていた程だった。

 どこでも港というのは同じような構造になっているもので、規模に違いがあるだけだ。ここにも国際規格のコンテナ積み卸しクレーンが一機あるが、それでも港としては小さい部類になる。大半の貨物は人力で荷下ろしされているようで、倉庫もそれ相応のサイズのものが並んでいた。増築を繰り返しているのか古い木造のものからコンクリートのそれまでが時代別に端から順になっているが、共通しているのはどれも潮風に痛めつけられているということだ。すべての扉に錆が浮かんでいる。コンクリートの路面には剥がれたペンキと錆、釣り人が捨てた乾燥した海藻と下魚が散らばっていた。空気には港特有の異臭が感じられる。

 今、港には人が多くなかった。のそのそと歩いている猫と倉庫脇に積まれた木箱に座っている老人くらいしか目に入らない。

 九郎たちは老人に歩み寄った。

「どうも」

「ああ」

 老人はうなずいた。元港湾労働者なのかどうかわからないが長年の日焼けでひっつれた皮膚の持ち主だった。白髪頭にはぼろぼろで原形をとどめていない帽子がのせられている。顎の下あたりにヒゲのそり残しが目立っていた。顔の皺が深く、細めている目もほぼ横線にしか見えない。口であろう皺に暇そうにタバコを引っかけていた。襟にボアのある作業衣を肩にかけ、居眠りのようにゆっくりと前後に揺れている。

「ここは長いんですか?」

 九郎が聞くと老人は細い目を開いて顔をあげた。思いの外健康そうな声が返ってきた。

「生まれた頃からここで働いて、今は組合員だよ」

「そういうことなら、ここに巻物の焼き印が入った……」

 言いかけたところで老人が遮った。

「毎年……いや、五年ごとか。何人かはいるが、今年はあんたたちか」

 老人がニタリと皺だらけの顔を歪めた。

「それじゃあ、ご存じで?」

 九郎が驚くと、老人は面白そうにうなずいた。

「ああ。毎度違う奴が同じことを聞きに来る。答えることも同じだが。若い時分から何度も答えた。最初は俺も興味あったが、後には飽きてしまった。さて、最初から説明しよう。まず港が五年に一度、巻物の焼き印の入った荷物しか受け取らなくなるのは、組合の決まり事だ。昔からのな。それがいつどうして決まったのは誰も知らない。毎度のことだな」

 この街の組合には奇怪なルールがあるのは常識だった。九郎はうなずく。

「そして、そのルールのせいでその日、荷物は減少する。だが、長年のことで、ルールさえ守れば問題ないのではないかと考える者も多くてね。この日だけは荷物に焼き印を押せばいいということになった。だから、この日は巻物の焼き印の荷物が流通する」

「それじゃあ、あの噂は……」

「ところが本物の巻物の焼き印が入った箱ってのは、あるんだ。すぐにわかる」

「本物が?」

 ジャンとラリーは色めき立った。

「本物は昨日来た。赤いローブの死神のような奴ら。箱を棺みたいに八人くらいで囲んでね。さして大きくない奇妙な船でやってくる。オールが八本ほど出ているガレー船だ。ひどく古く見える。エジプトやギリシャのみたいな」

「で、その荷物はどこに行ったんだ?」

 我慢できずにジャンが身を乗り出した。老人がなだめるように手を振った。

「誰もがそれを知りたがる。だが、話には先がある。ずっと先のことも。つまりあんたらは目的の場所に行けるし、それを見ることもできるだろうが、その後のこともあるんだ。そして、そこで何があったか俺に伝えて欲しいね」

 ははは、と老人は笑う。なにやらいたずらを仕掛けているかのようだ。

「かついでいるのか?」

 ジャンが例の不機嫌にしか聞こえぬ声で言った。九郎は無視して老人に笑いかけた。

「今までの人で、危険な目に遭った人はいるのかな?」

「そりゃあいただろうが、南地区でのいざこざに巻き込まれただけだろうよ。貧乏なのも喧嘩っ早いのもいるからな。だけど、その危険ってのは人によるとしか言えないな。なんともなかったものもいるし、気がおかしくなったのもいる。ひとつだけ言えるのは、そこで何かしら変化のなかったやつなんていないってことだ。俺のところに戻ってくるように言っておいた奴は大抵、青い顔をして戻って来てわけのわからないことを言ったもんだ」

「それはいったいどんな……?」

 九郎が聞くと、老人は笑った。

「話を聞いてもわけがわかんないんからそう言ってるのさ。焚書についてのことを説明してくれているようだが、こっちはさっぱりだ。学がないのは認めるが、それにしてもわからなかった。結局のところ、そういうもんなのだろう、としか言えないな。安心しな。つまらなそうに何もなかったと帰ってきた者もいたんだから」

「ともあれ、ガレー船と巻物の秘密結社ってのが実在するならそれでいいんじゃないか?」

 九郎はジャンとラリーを見やった。二人は納得し切れていない顔をしていた。そんな様子に気づいた老人は両手を拡げてみせた。

「かついじゃいないさ。さて、荷物の行く先を教えておこう。南地区唯一の教会だ。それが何の宗教のものかもわからないが、ともかく教会といえばひとつしかない。すぐにわかる。そしてわからないのは、秘密結社の正体とガレー船がどこから来るのかってことだけだ。そら、行くといい」

 老人はニヤニヤしながら三人を見送った。


                   ○


「やっぱり罠じゃないすか? あの爺さんあからさまに怪しかったし」

 ジャンは先頭を歩きながら言った。

 南地区の教会についてはジャンも知っていた。そして案内するのに難しいことはないと保証した。危険ではあるがガードさえいれば大したことはないとも。それでもジャンはかなり周囲を警戒していた。言葉通り老人たちが何かしらの企みを持っているなら罠にはまりに行くようなものだ。

「お金を奪うにしてもなんかやりようがあるはずだし、何もないでしょ。なによりあのお爺さん、小説はまったく詳しそうじゃなかったし」

 ラリーが気楽に言った。こちらは空元気というわけでもなさそうだ。好奇心旺盛に周囲を眺めている。

 南地区はガイドなしでは入れないというのは、危険度以上にその構造のせいもあるのだと九郎は知った。もともと街路が狭いカークブライドだが、中でもここは格別で、無計画になされた増築のせいで迷路と化していた。それも立体の迷路だ。石畳の上を歩いていたかと思うと下水にかかった木製の橋にさしかかっており、それを渡るとなぜか下りの階段がある。そこしか通る道はないのだが歩いているのは食堂のデッキでテーブルが行く先を塞いでいるといった有様。しかもジャンはテーブルを脇に寄せてそこを通過する。食堂から漂う香りは水が悪いのか油のきついもので床も壁もぎらついていた。そこの抜けるとまた階段。きちんと階層指定があるわけでなく、高さの違う場所を適当に階段で繋げたという具合だ。

 建物がひしめき、ところによっては一帯を覆っていることもあるような構造から周囲は暗かったが、ひとたび店舗から住居群のある地帯へ入ると様相は一変した。やはり日光が入らないと日々の暮らしには不具合があるのか、下層の家は窓と鏡を組み合わせた独特の採光法を編み出していた。建物の隙間から細く入ってくる光を各々の家の窓に向けて鏡で反射させているのだった。暗い穴のような建物の隙間を斜めに幾筋もの光のラインがはしり、鏡の四角く白い輝きがそこかしこに浮かんでいるように見える。モノクロに輝く幾何学模様が数十メートル上方まで続いている光景は幻想的だった。

「教会なんかなくても、ここでいいくらいじゃない?」

 ラリーが目を輝かせながら言った。

「見慣れた光景ですがね」

 ジャンがまぜっかえすと、ラリーは一瞬で不機嫌になった。

「そういう感情のなさが小説家デビューを阻むわけ。いつでも新しい感性で景色を見られないと」

 それに類することを今日は言われ続けてきたのか、ジャンはこらえきれなくなったように言い返す。

「人は何にだって慣れてしまうものでしょうに! それは理想論なんですよ! だいたい理想論ばかりで人間が書けますか? あなたの作品も尊敬はしていますけど、軽いんですよ。人間が描けていない。人間に対する観察眼は足りないんじゃないですか? いつも理想的なヒーローばかり出てくるような小説ばっかりだ。今回の焚書だってね、文学の問題でしょうが! あなたみたいな娯楽の人じゃ仕方ない」

 これまで聞いたことがない早口でジャンがまくしたて、これにはさすがにラリーもひるんだ。

「な……なにが文学よ! 誰も買わないんじゃ仕方ないどころか、デビューもしていないのに!」

「同人だって文学を真摯に考えてる! 人間にとって重要な文学を! あなたみたいに焚書を横から取っていこうなんてことを考えちゃいない! そもそもあなたの図書館についての小説、最低じゃないか! 言論弾圧をする側をあんなに簡単に悪者扱いして! その二分化した態度こそが弾圧でしょうが!」

「そんな理屈わからなくても、私の小説は売れている! それだけじゃなく、偉い人が支持してる! だからそれでいいに決まってるの!」

 不毛な言い合いに流石に九郎も辟易してきた。緊張から興奮しているということなのだろうが、これではどうにも先に進めない。「議論は後にして……」と声をかけようとした時だった。

「焚書法廷を見たいと望むなら、質問に答えてもらうぞ!」

 朗々と声がした。狭い街路に反射して低く、しかし大きく確実にそれは響いた。

 言い合っていた二人も動きを止め、反射で判別しにくくなっている声の主を探した。

 それは複雑に入り組んだ階段の上に立っていた。手すりのない石段は鏡の反射で四角く照らされており、そこに立っていた人物を空中で屹立する存在のように浮かび上がらせていた。

「答えろ、焚書は誰によって行われるか?」

 そう問うたのは紅衣の人物だった。赤いフード付きのローブ。そして顔には仮面。白く、表情はなく、目と口にあたる部分に細い切れ込みが入っているだけのものだ。

 仮面の男は複雑に入り組んだ階段の上に立っていた。手すりのない石段は鏡の反射で四角く照らされ、彼はまるで宙に浮いているかのように見える。赤いローブは古くすり切れていたが、それが幽鬼のような印象を与えている。

「誰がお前は!」

 ジャンが叫んだ。下は声が反射しにくい位置になるのか、くぐもった声になった。仮面の男はそれを聞いたか聞かなかったのか、もう一度同じ問いを繰り返した。

「答えろ、焚書は誰によって行われるか?」

「権力者に決まってるでしょうが!」

 ラリーがジャンに代わって怒鳴った。苛立ちというよりは恐怖を払拭するための叫びだった。それでいて声にはある種の自信がある。「自分が絶対に正しいのだから即座に議論を終わらせろ」とでも言っているかのようだ。

「そんな認識でここに来たのか? それでは絶望があるだけだぞ!」

 仮面の男は答えた。その否定に即座にジャンが反応した。

「そうじゃない! 俺はこの作家とは違う! 焚書は偏向した思想を持った集団が行うものだ!」

 先ほどまでの論争が尾を引いている。むしろラリーの言葉に刃向かうために言っているかのようだ。当然のように仮面の男よりも先にラリーが反論した。

「偏向した思想集団ってのが権力でしょうに! 集団は個人より権力があるに決まってるでしょ!」

 それに反応したのも仮面の男ではなくジャンだった。

「集団はカリスマが引っ張っているもので、それはカリスマ個人の思想でしょう? その思想に騙される信者の集団がいるということでは納得しますが、それはいわゆる権力とは違います!」

「権力についての定義とかまだるっこしいことしてるんじゃないわよ! 本を書くのが個人! それを抑圧するのがなんであれ権力なの!」

「それじゃあ俺の話も正しいじゃないか!」

 言い合いが続くことになり、誰にも口を挟む余地はなくなった。九郎もこの状況をどうしたものかと戸惑うが、論争を止めたところでどうにもなりそうにない。「困ったものだ」という顔で仮面の男を見上げると、彼も無表情の仮面の奥で困惑しているのが感じられた。「どうしよう?」と九郎が表情で訴えると、ややあって仮面の男が動きはじめた。見えてはいないが赤いローブの下にはやはり足があるようで、靴音を響かせながら複雑なジグザグを描いて、それまで光の加減で見えなかった階段を一歩一歩おりてくる。やがて九郎らと同じ階層に到着したとき、仮面の男はここぞとばかりに声を大きく一声。

「やめないか! 双方とも真実にはほど遠い! この先の焚書法廷に立つならば、そのような覚悟では……」

 どうやら長々と続くはずだった説教は不意に途切れた。それまでぎゃあぎゃあとやり合っていたジャンがいきなり驚きべき勢いで跳ね上がったのだ。それはチャンスを計っていたというより、たまたま殴りやすそうな奴が視界に入ってきたため反射的に動いたというべき行動だった。ジャンののっぺりとした印象を与える巨体が外見からは想像もつかぬほどスムーズに動き、オモチャに飛びかかる猫もかくやの速度で右手を跳ね上げる。その拳は仮面の男の顔面を見事にとらえていた。

 悲鳴というより潰した袋から漏れた空気が鳴らす音のようだった。仮面の男は地面に転がった。いまや仮面は吹き飛ばされてただの男となり、赤いローブははだけて中の無地リネンシャツとジーンズがあらわになっていた。

「やっぱりただの人間じゃないか」

 ジャンは息を荒くしていたが、これは疲労ではなく怒りのためだろう。説教に対する恨みか、ジャンは男の襟首をつかんで乱暴に体を起こさせる。

「大体、俺に小説の講義をしようなんて……」

 そう言いながらジャンが引き起こした男の顔は、九郎にはどこか見覚えのあるものだった。記憶を探るがそれより早くラリーが声をあげる。

「古本屋の……!」

 九郎もそれが誰だかをはっきりと認識した。この件のきっかけともなった古本を販売していた露天の若い男だ。

「待った! 話を聞こうじゃないか」

 九郎はジャンを押しとどめた。幸いにもジャンとてそれ以上の暴力をふるう気はなかったと見え、古本屋の意識のあることを確かめると彼を解放した。

「くそ……乱暴すぎる……」

 それほどダメージがなかったようで古本屋はぼやく。改めて見ても取り立てて言うほどのことはない印象の若者である。

「どうにも普通のツラなのに、なんでこんなことを?」

「そうよ。仮面なんかつけて。巻物の秘密結社って嘘だったの?」

 ジャンとラリーが続けざまに質問というか苦情を並べる。

「長くなるから面倒だ。いいから先に行けよ」

 古本屋は自らの背後、階段がある空間のさらに奥に向かって首を振った。

「まだ先があるのかよ」

「説明になってないじゃない。だからどういうことなの?」

 このように質問されれば困惑し答えにならない答えが返ってくるか、それでなくとも説明には長くかかるはずだが、この古本屋は違っていた。ある程度まで想定していたかのように言葉を並べてきた。

「この先に教会がある。そこに焚書法廷はあるんだ。本当に。そこじゃ誰かが来るのを待ってる。誰かが来なくちゃはじまらないんだ。そこで焚書にするかどうかの判定がなされている。陪審員を待ってるわけだ」

 ほぼ老人の言っていたことと同種ではあるが、より具体的に告げられると九郎の心も穏やかではいられない。それは見学などではなく参加させられるということなのだから。

「それで何か説明したつもりか?」

「あなたは結社のなんなの?」

 ジャンとラリーは質問を続けた。九郎はそれ以前のところにひっかかっていたがおかまいなしだ。それでも古本屋は正直に答えた。そうすることが義務であるかのようだった。

「行けば分かる。俺は、前回の焚書法廷に参加した。それで、もう、嫌になってしまって、こうしているってわけだ。できれば誰も行かせたくなかった……なかったんだが、殴られた腹いせもある。焚書についてのちゃんちゃらおかしい説も聞けた。勝手に行くがいい。そして、俺みたいに絶望してしまうといい」

 忌々しいことのように言った古本屋のその行動は九郎には不自然なものに映った。

「ならどうして僕らを誘導するようなことをした?」

 そう聞くと古本屋は「ああ」とも「はあ」とも判然としないうなずきだかため息だかを漏らした。

「それでも誰かが焚書をやめさせられると思ってるんだ。期待してるんだ。そういう人が現れるのを。だけど、あんたらじゃ無理だ。焚書についての認識も間違ってるし、あんたは患者だ。陪審員にはなれない」

 古本屋は言いたいことを言い終えたようだった。ここに至りジャンとラリーもようやく老人の言が本当なのだと感じはじめたのか、それ以上の問いかけはなく誰かが先に行こうと言い出すのを待っているかのように、ただ立っていた。

 九郎が口を開くしかなかった。

「どうもひどいものが待っているらしいが、先に行くしかないな。教会、あるんだろ?」

 ジャンは「この先だ」と先頭に立った。


                   ○


 教会にもいろいろあるが共通しているのは信仰を行う側の都合にあわせて作られていることだ。教会が大きく高く造られるのは信仰対象が偉大であって欲しいからに他ならないが、権威化を拒んだとしても今度は素朴さこそが神聖さの尺度となり穴ぐらに荘厳さを感じるような圧力が生じるだけだ。行う側の欲望をなにより反映してしまうのが教会ということになる。

 そして、ここはそういった欲望とは無縁な場所だった。廃棄された銭湯なのだ。どうすれば多人数が不快さなく身体を洗うことができるかだけを追求されて配置された蛇口とシャワー、多人数の同時入浴と入排水の都合だけを考えられた浴槽。壁面と床は撥水のためのタイル張りで、そこにはペンキで陳腐な風景画が描かれている。いずれも往事の清潔さも湿気もなく、ただ乾燥してひび割れたタイルと白濁したステンレスの金具が寒々しく広がっているだけだ。それでも「教会」とはよく言ったもので、どこか不思議な権威と神聖さが宿っているように見える。色あせたペンキの風景画も四角いタイルで区切られていることで電子的な意匠とも見え、新世紀の宗教画と言われても納得してしまうような雰囲気を持っていた。

「信徒たちはシャワーの前に座り神官は浴槽の中に?」

 九郎はそう言って笑った。

「それでも教会と呼ばれているのはここだけだ」

 ジャンが面白くもなさそうに言った。

 建物自体は複雑な煙突が這ったとんがり屋根で、これも教会を思わせたが、扉だけは簡素なガラスの両開きだった。もちろん今はガラスは割れ、その枠だけが半開きのまま固定されている。脱衣場から浴室まではロッカーがその名残をとどめているだけでほぼ解体済みだった。照明はないが屋根はその半分をすでに取り払われており、南地区奥の名物ともいえる反射式の照明が四角い光で浴室を照らしていた。

 ジャンとラリーが九郎の軽口に乗らなかったのは、この荘厳ともとれる光景にただ一人の登場人物もいなかったからである。

「誰かが待っているんじゃないのか?」

「焚書法廷? そんなものがどこに? 場所を間違ったんじゃないの?」

 ラリーの非難するような口調にジャンが何事か言い返そうとした時、すい、と全員の視界を横切ったものがあった。

 鳥だった。

 それは弾丸のようなシルエットをしていた。三人の前を横切り鋭く旋回すると浴槽の縁にとまった。

 フクロウだった。灰色で小型。目が赤くぎょろりとしていて嘴が小さい。顔は白く、その周囲をけばだった羽毛が丸く取り囲んでいる。

「フクロウ?」

 意味ありげに飛んできたフクロウは、三人の凝視する前で小首をかしげると不思議そうな顔をした。

「三人。いや、二人か。一人は資格がないな」

 声がした。フクロウの嘴が動いていた。まるでしゃべったかのようだ。ジャンもラリーも仕掛けがあるのではないかと周囲をきょろきょろと見回した。すぐにフクロウがそれを否定する。

「最初は驚く。だが、すぐに慣れる。そもそも誰がしゃべっているかに意味は無い。対話は可能なのだから。誰かが隠れてスピーカーでしゃべっているのだとしても恥ずかしがり屋がいるのだ、と考えてもらえればそれでいい。ここでは属人的な会話は必要ないのだ。この焚書法廷においては」

 落ち着いた聞き取りやすい声だった。ジャンはまだきょろきょろとしていたが、ラリーはひとまずはフクロウの説明に納得したようで、居心地悪そうにしながらもフクロウに問いかける。

「あなたを何と呼べば?」

「裁判長でいい。君たちは陪審員……でよいのかな?」

 フクロウはうなずいてから全員を見回した。少なくともフクロウの動きから会話に支障ない程度の感情は読み取れるようだ。ジャンも腹を決めたのか声をあげる。

「陪審員に資格などいるのか?」

「資格はいらないが、あえて言うならここに来たことは資格のひとつだろう。すなわち焚書について否定的な意見を持っているということが」

「それなら充分だと思うけれど。でも、法廷なんでしょ? 焚書に否定的な人間だけだなんて」

「それでいいのだ」

 フクロウはそう言ってから、今度は鳥らしく「ほぅ」と一声鳴いた。この声が消えぬ間に足音が聞こえてきた。複数人が浴室に踏み込んできたのだ。三人は思わず身構えるが、安心しろとでもいうようにフクロウが羽根を広げた。

 やってきたのは赤いローブの男達。いや、男達かどうかは判別できない。フードを深くかぶった彼らの顔は見えず、ローブがその身体すべてを覆っていたからだ。ローブはあの古本屋の店員が着ていたものに似ているが、それよりももっと高級なビロードでできており、不可思議なことにもっと古いものだということが感じ取れた。古代遺跡の王墓より発掘された副葬品のような雰囲気がある。

 赤いローブの者たちは六人でひとつの箱を運んでいた。木箱で表面には刻印がある。もちろん巻物の刻印だ。彼らはその箱をフクロウの前に置き、その左右に三人ずつ分かれて並んだ。

「この箱に焚書される本が入っている。これらを陪審員である君たちが読む」

 フクロウが間違いのないよう確実に一語一語発音した。

「それでいいのか?」

「本当にそれだけ?」

 ジャンとラリーが疑問を口にする。

 フクロウは静かに「その通り。読めばよい。読めば」と言った。

 それからは沈黙があった。この異様な出来事そのものはジャンにもラリーにも気にならなくなったようで、ただ赤いローブの六人が木箱を開けるのを見つめていた。古本屋を幽鬼と感じた以上に彼らはこの世ならぬ存在と思われたが、この場では当然居るべきものと認識されている。しゃべるフクロウもまた同じ。彼らは本の使徒であり、本の前に全員が平等だということなのだろう。

 木箱から厳かに取り出されたのは数冊の本。それは赤いローブの者たちによりジャンとラリーに平等に配布された。二人は光の当たっているシャワー台前に導かれ、そこに座る。簡易な読書台だ。

「患者はその資格がないが、そこで見ていることは許そう。さて陪審員はこれらの本を読んでいただきたい。ここ五年で焚書となるべく集められた本だ」

 フクロウは準備が整ったとばかりに言った。

「読むだけ?」

 とラリーが繰り返したのでフクロウは改めて、しかし準備が整った上でだけ伝えられる言葉を口にした。

「焚書となるべく集められたのは、この五年で書かれた中で読者をひとりも持てなかった本だ」

 びくり、と読書人二人の背筋が震えたのが見えた。

「読者をひとりも……?」

「出版されたもので?」

「出版とは限らないが、少なくともどの本も読まれるべき主旨があると本自身が言っている」

「本自身が?」

「人間の思考は文字に依存すること大だが、本来人間の思考は文字とは独立して存在する。文字列はそれ自体独自の思考を持つ。そして一定以上積み重なった文字列は個性を持つに至る」

 その説明は到底信じがたいものだったが、この状況を前にしてはその言葉を頭から信じ込む以外にできることはない。

「個性を持つに至った本は著者とは別に存在し、その主旨を読まれることを待っている。本の主旨とは著者にも理解できないことがある。そうなった本は読者を求める。しかし、果たせない本もある。販売されなかったもの、買われたが読まれなかったもの、そして読まれたが“読まれなかった”もの」

 フクロウの言葉をそのまま信じれば焚書とは三人がそれまで考えていたものとはまるで違う意味となる。

「それじゃあ、ここにある本を読めというのは、まさか」

「“読まれた”場合、焚書は免れる。そうでなかった場合、本は自らの用を為さなかったと恥じて消えていく。我らは文字列が出現してより焚書を忍びなく思っていた。そこでこのような法廷を開いている。焚書を禁じたいと思う人間の力が必要なのだ」

「じゃあ人間が行った焚書というのは何だったの?」

「意味があるものか。焼かれて滅んだ本などない。隠され、記憶され、再生される。長年生き残った本の書物としての存在数はそもそも驚くほど少ないものだ」

「そういうことなら、これは誰にも読まれなかった本なのね……」

 ラリーは息をのんでいた。書いた当人にも意味が分からず、その後誰の目にもとまらなかった本ということになる。それがまともな本ならば間違いなく自身の小説の糧となる、とでも考えているのだろう。

 一方のジャンも息をのんでいた。こちらはこちらで自らの小説愛と知識を試されているような気になっているのだろう。緊張しつつ簡素な製本の一冊を見つめている。

「読んでくれ。いずれ本自身が読まれたか否かを判断するだろう」

 フクロウが告げた。

 二人は一方は堂々と、他方はおずおずと本を開いた。

 やがて彼女らは読書没頭者に特有の沈黙と、奇妙な熱気混じりの呼気に包まれていった。

 もちろん赤いローブの者たちも命を失ったかのように硬直していた。どこを眺めたものかと視線をさまよわせはじめた九郎に、フクロウが一瞥をくれた。

「退屈なら本を読む権利をやろう」

 偉そうに、とは言わずにおいたが、陪審員でない九郎には少なくとも畏怖を感じるいわれはない。だが、本には興味があった。

「僕が読んでもどうにもならないんだろう?」

「権利がないからな。だが、それだけだ。害があるわけじゃない」

 あくまでクールにフクロウは言った。

 九郎は本を一冊取り上げ、頁を開いた。

 私家版だろう。装丁は緑色に着色された革でなかなかに凝っている。だが中身は日記なのか詩集なのか散文なのかはっきりとしない文字の羅列だ。美辞麗句ばかりが並び、感覚が五感ばらばらに列挙され、主観的な感想が感嘆符とともにずらずらと並べられている。おそらくは恋人に向けられたものなのか、特定の誰かを想起させるような描写がそこかしこにあるが、それも美の女神だか女神に祝福された天使だかの凡庸だが焦点の定まらぬ比喩に埋もれてしまい、誰が誰を賞賛しているのかすらわからぬ始末だ。「こんなものには到底読者はつくまい」とフクロウの顔を見やると、この知的な鳥類は首をくるりと逆さまに回転させ、器用なことに嘴の端を歪めて「よく読めよ」と言わんばかりに微笑んでいた。妙な悔しさから再読にかかると、どうにかこうにか著者の顔が見えてきた。怜悧さも剛胆さも持ち合わせていないが、ただ純朴なお調子者の姿がある。この本も当時の彼女にプレゼントされるべく調子に乗って書かれたが、それは渡されずに終わったか、あるいは渡された女性が不実で読まれなかったのだろう。もちろん個人の事情は九郎どころかどの読者にも関係のない話だから世間的にこの本の価値もゼロだろう。だが、フクロウの言っていた主旨となると話は違ってくる。文字列は意味を成さず奔放を通り越して分裂症めいているが、それでも各文はひとつの塊となって踊り、それ自身をもって完全燃焼していた。語句は語句の意味を使い尽くし、文となって無意味と化していた。読者に何を考えさせるでもなく、感じさせるでもなく、読後には何も残さない。だが、読み取れたとしても、九郎にはそこまでだった。

 これが焚書されるべき本なのかどうかはわからない、と思いつつ顔をあげると、不意にふたつの悲鳴があがった。そちらに目をやると、ラリーとジャンが驚愕の表情のままに硬直していた。

「駄目か」

 フクロウが言った。その声と同時に二人の持っていた本がぞわりと波打った。

 文字が

 ふわりと

 本から離れ

 浮  き 

      あ が っ

             た


 二人の抱えていた本から次々と文字が離れていく。インクの染みに過ぎぬはずのそれが風に舞うように中空に漂い、風化するかのように消えていく。

 ラリーとジャンはそれをとどめようと本を閉じ、手で頁を押さえつけるが、文字は指の間をすり抜けていく。わずか数秒で一冊の本がこの世から消えた。

「ど……どうなってるんだ!」

「ほ、本の内容も忘れてる! 読んだばかりなのに!」

 絶望の声をあげる二人にフクロウは冷淡に告げた。

「読めなかったか」

 ジャンは返す言葉を失っていた。顔色を青くし、ただ目を見開いていた。

 ラリーは「く、くだらない本だった……わよね?」と質問口調で言って周囲を見回したが、もちろんそれに答える者も、答えられる者もいなかった。

「これが焚書だ。では次」

 フクロウが読書を促した。

 ジャンは顔を汗まみれにし、ラリーは唇を震わせていたが、もう目の前に積まれた本を読むしかないのだ。

「本を焼くのは人を焼くのと同じと言っていたが、こいつは意地が悪いな」

 九郎はフクロウに言った。

「意地が悪いものか。最後の救済なのだ、本にとっては。わざわざここに来る者は読書家と自負している人間ばかりだが、結局のところ本より人間が偉いと思っている。人間が本を殺すという現実がここでも反復されているだけさ。本を読めている人間なんてそう多くはない。確実に何人かはいるのだが」

 フクロウは笑わなかった。

「これまで焚書を免れた本は?」

「千五百回ほど法廷は開かれているが、二冊程度さ」

「……本当に世の中に流通している本はきちんと読まれているのか?」

 九郎は不安になって聞いた。

「知らない方がいい」


                   ○


 最後の一冊がその文字を虚空に解き放った。

 すると、本そのものも消え、赤いローブの者たちも消え、フクロウはまるで言葉を最初からしゃべれなかったかのごとくに飛び去った。

 ジャンは立ち上がらず、ラリーはいらいらと浴槽の前を往復していた。

「何もなかったと思えばいいさ。結局、憶えてないんだろう?」

 九郎が言うと、ジャンはほとんど錯乱した状態でわめきはじめた。

「本が……! 俺が本が読めない、読めてないってどういうことなんだ! 内容を理解した! 精読した! 文学理論も知ってる! それでなぜ……!」

 ジャンはもう本を書くことはできないだろうし、普通に読むことも困難になるだろう。そしてラリーも筆を折ることは間違いないだろう。

「落ち着けよ。日が暮れたら厄介だ。食事もしてない。帰るまでにあまり時間がないぜ」

 九郎はなんとか落ち着かせようと言った。

 するとラリーが「うん!」と気合いを入れて足を一回踏みならした。

「全部忘れちゃったけど、五年後にもう一回来ればいいのね! それまで読者に読書の大切さを啓蒙しないと!」

 九郎は奇っ怪な生物を見る目をラリーに向けた。今度は自分が冷静になるためパイプを取り出さなければならなかった。これを報告すれば、おそらく港の老人だけは笑ってくれるだろうと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『ふたたびカークブライド・ホテルより』 水城正太郎/金澤慎太郎 @S_Mizuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ