晴:隣人
「待て、お前、明日サヤカちゃんと会う約束してなかったか?」
「? しましたけど」
「自分の体がどうなってるかわかってて言ってるのか?」
「あっ」
なんだろう。サヤカちゃんと話す時だけ痛みがどこかに飛んで行っていたのだろうか。話すのが楽しみで痛みを忘れるという現象があるのかは知らないが、私とサヤカちゃんならありえなくもない気がする。科学どうこうじゃなくオカルトとか精神論的な意味でだが。
「……一応、入院は入院だからな。まだ肌がくっついてないのに無理したらせっかく戻ったケツがまだ3つに割れるぞ」
「なんか軽くバカにされてる気がするんですけど、めちゃくちゃ痛かったんですからね」
「お前こそ気付いてたか知らんが、出血量もかなりやばかったぞ。ベランダ一面血の海になるほどの怪我なんて誰でもその痛さは想像がつく。痛みを感じてなさそうな今のうちにイジってるんだよ」
「あれ、という事は、私って今日は例のサラリーマンの会社に殴り込みに行けないんですか?」
「それなんだよなあ。俺が行ってきてもいいんだが、そのリーマンと話したことがあるのがお前だけだから連れて行きたいしなあ。お医者さんに聞いてみるか」
私達は病室にUターンして、上司は医者に話をつけに行った。私へのお見舞いといってどこかから集めてきたらしい結婚活動の情報冊子過去1年分くらいを病室に置いて行った。ブドウとかメロンとか、無難なもので良かったのに、嫌がらせにもほどがあるだろ。
「このナイフで死んでくれたら俺が結婚してやるよ?」
みたいなことを誘拐犯がほざいていた時に上司と結婚した方がマシ、と心の中で叫んだのを思い出した。今にして思うが、歳の差を考えると誘拐犯の方がどうしても近くなるし、一概にもどっちがマシとも言えないのではないか? 性格は誘拐犯の方が圧倒的に歪んでいるが上司も上司で人の一大事に茶々を入れてくるくらいには負けず劣らずだぞ。もちろんこっちは好意というか違いに信頼している上でやってるのがわかるからいいものの。
「おらー。お医者さんとお話して外出許可貰ってきたぞー」
「自分から乗り込みに行きたいって言っておいて何なんですけど、部下を休ませる気持ちとかないんですか」
「病院の人もドン引きするくらい動けてるみたいだし、お前が行きたいんだったらしょうがないだろ」
「ドン引きって何ですか? この婚活情報誌の山に、とかだったら恨みますよ」
「考えてもみろよ。何本も縫う羽目になってるやつが目が覚めてすぐトコトコ廊下歩いてるんだぞ。化け物みたいな回復力があるんじゃないのか?」
「昔から牛乳をよく飲んでたおかげですかね」
「とりあえず、外出の許可は出た。何を聞くかを先に考えといて、お前の体調が良くなったら早速向かうつもりで」
と、いうことで。私は何のリハビリもすることなく、消息不明の朝平さんが働いている会社へ直接乗り込むことになった。上司に勝負服のトレンチコートを持ってきてもらって、医者からはお尻を外圧から保護するギプスのようなものを貸してもらって、話を聞きに向かった。
車の中、お尻にギプスをつけているせいで座席に座っていると違和感があるが、慣れていくしかないだろう。
「そういえば、お前、胸も刺されかけたってマジか? 俺は見逃してたが、胸にナイフで刺されかけてた跡があって、ベランダに落ちてた分厚い本か何かがナイフで貫かれてたらしいが」
「ああー……」
「あの本、というか、メモなのか? は全ページ破れるか血まみれでもう使い物にならないらしいが、とりあえず病院に置いてきたお前のバッグに入ってるからな」
「ありがとうございます。ちなみにメモです」
そうだ。私が誘拐犯にマウントを取られて刺される、というところで咄嗟に分厚いメモでガードした(実際には狙ってやったわけではないが、腕を犠牲にする覚悟でお腹辺りを防御したらたまたま握っていた本が胸の位置にあったのだと思っている)おかげで、今こうして生きていることができるのだ。高級そうだったから見栄を張って買っただけで、あとはほぼ惰性で日記やら情報やらをまとめていたあのメモには感謝してもしきれない。もう使えないみたいだが、また新しいものを買おう。財布が薄くなるな。
「はは、あんな分厚いメモ、俺も使ってたな」
「え、そうなんですか?」
「あれ、見せたことなかったか? むしろそれに影響されてお前が真似してきたのかと思ったが」
「いつでしたっけ? 覚えはないです」
「いつだったか。確か、……十年前だ」
「そうですか……」
十年前。助手席に座っている私と私の隣で車を運転している上司が初めて出会った頃だ。あの頃の女子高生だった私は新米警官だったこの上司を信用しきれずにいたなあ。でも、最終的には、この上司の姿を見て、警察官になることを決意したことは、上司本人には言っていない。まあ、今言ってもからかわれて終わりだろうし。
「まあ、俺があのメモを買ったのは俺の上司が同じのを使ってたからだがな。こうして考えると上司と部下は似るものなのかもな」
「ペットと飼い主みたいな感じですね」
「近いのは近いが、えげつない表現だな」
「はあ。考えたこともなかったですけど、いつか私にも部下ができるんですね」
「死ななかったらな」
「言えてます」
「部下ができたらできたで、今度は誰かがオッサン呼ばわりされてるみたいに、どっかの誰かさんが部下にオバサン呼ばわりされる日が来るんだ。俺がお前くらいだった頃も、自分に部下ができるなんて考えたことなかったな。ましてやお前が部下になるなんてな」
「私が上司になっても、部下のお見舞いに婚活情報誌を置いたりしませんから」
「うわ、お前、根に持ってるのか」
「当たり前じゃないですか! 何か入院する時になったら仕返ししてやりますからね!」
「俺みたいなご老体で入院したらもう長くないだろうしな。その時はありがたく頂戴してやる」
何か、ものすごく負けた気がする。
「これが大人の余裕ってやつだヒヨッコ。ほら、見えてきたぞ、大企業様だ」
上司の方へ顔を向けていたのを正面に向きなおすと、前方にとてつもなく広くて大きい、どこかの大学の研究所のような建物があった。
「うわあ。さすが大企業。大きさが違いますね」
「ワールドでビッグな企業だからな。そこはデカく構えておかないと箔がつかないだろ」
駐車場に車を停め、車から降りて歩き出す。ここで、困ったことがある。時代の変化について行けていると自称する上司がグルグルと目を回しながら呟く。
「……入り口、というか、どこだ? 受付は」
「はい、出社しているようなので呼んでみます。こちらにかけてお待ちください」
結局、30分ほどかけてやっと入り口へたどり着いた。途中で社員と思われる人に怪訝な顔をされながら道案内してもらってなんとか迷子にならずに済んだ。
「大企業はデカデカと偉そうにするな。もっと謙虚になるべきだ」
さっきまでべた褒めしていた上司も、歩き疲れたのか言ってることが真逆になっている。私も、歩いてみて余計にこの建物の大きさが身に染みた。
「やっぱ、このくらいの企業に入社したり商談を持ちかけたりする一流の人はこんな大きい建物でもどこが正しい入り口とかわかるもんなんですかね」
「一流じゃなくて悪かったな」
「私も一流にはなれないってわかりました」
「もうすぐ手が空きそうなのでこちらに向かうとのことです。応接室に案内したしますので、どうぞこちらへ」
受付の人に応接室まで案内された。野暮な話をするのがはばかられるくらいの大きくて真っ白、清潔感しかない部屋だ。
「お前もあの受付の人みたいな、綺麗な話し方ができるようになればいいのに」
「いやいや、私には向いてませんよ」
「それもそうか。突然お前があんな喋り方で俺に接してきたら1日中笑いが止まらなくないそうだし、やめておこう」
「そうですね。机の上もこの部屋くらいに真っ白にしたら色んな資料がどこにあるかわかりやすくていいでしょうね」
「俺の仕事は泥まみれになってナンボだから汚くて上等なんだよ。それに、綺麗にしようとしたってこんなにピカピカになる頃には俺の寿命は尽きてるな」
ドアの外から革靴の音が聞こえた。走るギリギリくらいの早歩きをしているのはコツコツ聞こえる足音で伝わった。
「どうもすみません。お待たせして」
「いえいえ、こちらこそ無理を言ってすいませんでした」
以前会って話をした時にも思ったが、この、ザ・ビジネスパーソンみたいな人と話すと私まで正しい日本語を使えているような気分になる。上司をチラ見すると、私を見ながら若干笑いをこらえているのが見えた。頼みますから、この話が終わるまでは爆笑するのは耐えてくださいよ。
「あと、携帯電話の方に何度も連絡頂いていたみたいなんですけど、ちょっと今まで抱えていた案件が忙しくて今まで気づいてませんでした。本当に申し訳ないです」
「今はその案件というのは大丈夫なんですか?」
「ええ、本当に、今さっき終わりまして。なので、私のことは気にして頂かなくて結構です」
「そうですか。お疲れさまでした。いきなり本題とは外れるんですけど、私と会った日からアパートの方には戻られてないんですか?」
「そうですね。この前言っていた私の隣人の女子高生の部屋の前でたむろって騒いでいる連中がいたので。結局はこの近くに住んでいる同僚の家に泊まらせてもらっていました。結果的に仕事する時間も増やせてちょうど良かったんですけどね」
「ちなみに、昨日と一昨日の夜はどうされてましたか?」
「どっちも日付が変わる頃まで残業して、同僚の家で3時から6時くらいまで仮眠を取ってましたね。同僚に聞けば同じことを証言してもらえると思いますが」
「わかりました。それと、失礼な質問で申し訳ないのですが、身長はどれくらいありますか?」
「身長ですか? 今年の身体測定では、確か……178センチだったように覚えています。正しい結果が知りたければ今測定してみてもいいんですけどね」
「いえ、大体の大きさがわかれば大丈夫なので」
うーん。どうだろう。と思ったところで応接室のドアからノック音がする。
「どうぞ」
「すいません、先ほどの案件について、ちょっとお話があるらしいのですが……」
「はぁ!? あれ以上何を話せってんだバカ野……あ」
サラリーマンはハッとして口を押さえたが、もう遅い。突如をして怒鳴り散らすサラリーマンに私と上司はドン引きするのを禁じえなかった。顔が真っ赤っかになっている。そういえば、サヤカちゃんもよく壁越しに怒鳴られてたって言ってたな……。
「い、行ってきていいですか? あれほど余裕かました上で申し訳ないんですけど……」
「ど、どうぞ」
そそくさと出て行った。その後、私と上司は顔を見合わせた。上司は顔面全体を手で隠し、肩を震わせている。
「強烈でしたね」
「商談先か何かに呼ばれただけであんなにキレるなんて……もう俺は集中できなくなったぞ……!」
「まあ、それは置いといて、私が襲われた件に関わってる感じは今のところなさそうですよね」
「ああ……誘拐犯の身長は170センチ前半だったからな……。それに……あんな……」
「もう! 笑いすぎですよ!」
「とりあえず、お前の件には関係なさそうだから、サヤカちゃん関係で聞いていこう。俺はもうギブアップだからお前に任せる」
「はあ……」
サラリーマンは駆け足で帰ってきた。その顔は湿っている。顔を洗ってきて態勢を立て直したな。そこはできるサラリーマンってとこだな、と思い出し笑いをしそうになる。
「ええ。先ほどは失礼しました。突然、大声を出してしまったりして」
「いえ、驚きましたが、お気になさらず」
「すいません。お話の続きをどうぞ」
「では、そろそろ本題に入りますね。あの日の夜中、あなたの隣人のドアが開閉する音が聞こえたとのことですが、それに関連して気になったことはありませんでしたか? 話し声がするとか」
「そうですね……。はっきりと断言はできないですけど、確か、ドアが開く音がする前に、鍵を開ける音がしていたような覚えもあります。夜中に鍵をかけることくらい当然と言えば当然なんですけど、元から鍵が開いていて、泥棒か何かが侵入したという見方もできますしね」
「つまり、誰かが部屋から出たか、鍵を持っている人が部屋に入ったと」
「ああ、それなんですけどね。たぶん、外に出たというよりは、中に入ったほうがあり得ますね」
「どうしてですか?」
「全く足音が聞こえてこなかったんですよ。彼女が部屋を出て外の廊下を歩く音はしばしば聞こえるんですが、その日は聞いた覚えはありません。ましてや深夜なので、それでも聞こえなかったとすれば、そうとう足音に気を遣ってたんでしょう」
「ちなみに、その時以外で足音が聞こえたりはしなかったんですか?」
「聞こえませんでした。鍵をガチャガチャしてる音か扉の開閉の音のどちらかで目を覚まして、その後は耳栓をしてしまいましたから」
「ということは、それ以降については?」
「あんまり力になれずに申し訳ないです。正直、さっき言ったことも寝起きの状態で聞いたことなので、あんまり信用しないほうがいいかもしれませんが……」
「いえいえ、ちょっとした情報から何かが見つかるってこともありますから」
「あ」
「? 何か思いだしましたか?」
「水道水です。流しで水を流す音が聞こえました。わざわざ耳栓をした後でも聞こえたのが頭に来て、その時に壁を殴ったのでこれは間違いないです」
「水か……」
「水ですか」
「とりあえず、今思い出せそうな出来事はそんなところですね。おそらく、これ以上は出てこないと思いますが」
「わかりました。ありがとうございました」
「どういたしまして。結局、私もまたしばらく帰れそうにないので、なんでしたら、私の部屋の鍵を貸しましょうか? 彼女が事件の重要人物なら、できるだけ近い場所にいてあげたほうがいいんじゃないですか」
「え、お気持ちはありがたいんですけど、いいんですか?」
上司の顔色を窺ってみると、神妙そうな顔をしている。そりゃあ、警察官が事件にあまり関わりのない一般人の部屋を借りるのはレアケースなんだろう。
「ええ。私は重要なもの以外は持たない主義なので。重要なものは全てこっちに持ってきてますし。なので、お気になさらず」
「はあ。では、お言葉に甘えて」
気まずそうにする私とは裏腹に、彼はあっさりと鍵を渡してくれた。嬉しさ半分、しぶしぶ半分、鍵を受け取った。まあ、貰ったからには有効利用させてもらうが、なんか、私たちとの余裕の差を感じた。ここで働いている人は皆こんな感じなのだろうか。
「はは、よく変わり者とは言われるんですよ、私」
「そうじゃないと困りますよ。自分の部屋を貸す人は珍しいですよ」
「まあ、部屋を貸してあげる代わりに、お願いがあるんですけどね」
「それ、今言いますか」
「これが僕のやり方ですよ。とは言っても、簡単なものなんで安心してください」
「なんですか? 場合によっては返しますけど」
「いや、私、部屋で野菜を育てているんですけど、もうすぐ容器の水が尽きるはずです。なので、それに新たに水をやってほしいんです。一度帰った時に注いでおけばよかったんですが、予定が少し崩れまして……」
「もしかして、新規の案件が入ったとか……」
「恥ずかしながら。帰る余裕もなく、頼む相手もいないんです。どうか、引き受けてくださいませんか」
「仕方ないですね。いいですよ」
「ありがとうございます」
「それで、まだ話すことはありますか?」
「いえ、とりあえずは以上ですね」
「でしたら、そろそろ失礼していいですか? 先ほども言ったとおり、忙しくなりそうなので」
「はい。突然押しかけてすいませんでした」
「こちらこそ連絡してもらったのに。できるだけ携帯電話を確認するようにしますので、また何かあればそちらにお願いします」
「わかりました。お時間を割いていただいて、ありがとうございました」
「どうですか?」
「うーーん。やっぱり、治りが早いなあ。若さってのは流石だなあ」
医者の話によると、明日には退院できるらしい。まあ、しばらくは安静にしていないといけないらしいが。病室に入ると、上司が婚活情報誌の山を崩して、その一部をペラペラめくっていた。
「今更結婚したくなりましたか」
「減らず口を。暇つぶしに読んでるに決まってるだろ」
そう言う上司の手は、『いいカレの条件!』とかいう見出しのページを開いたまま止まっていた。独身のオジサンは優良物件! なんて書いてあるし。何言ってんだ。少なくともこのページを読んでる上司は潰れかけのアパートだぞ。
「はあ。私も早く結婚して幸せな家庭を築きたいな」
と言ったら、上司は焦ったようにページをめくりだした。一通りめくり終えると、適当に本を閉じた。
「いや、オジサンが優良物件ってのは言いすぎじゃないですか」
「何だよ。見てたのか」
本を山に放り投げる。
「心配しなくても、私にいつか良い彼氏ができるみたいに、いいお嫁さんが見つかりますって」
「はは、今ので嫁さんが見つからなくなったな。俺がお前と同じだったら女運も何もないぞ」
「失礼。絶対、結婚相手見つけてやりますから」
「どっちが早く結婚できるか競争でもするか」
「何か賭けますか」
「賭けは駄目に決まってるだろ。強いて言えば優越感だ」
「いいですね。乗りますよ」
「とは言っても、この事件が解決してからな。捜査の間に相手を見つけるのはルール違反だぞ」
「当たり前じゃないですか」
「よし。だったら、この事件の真犯人もとっとと見つけてハッピーエンドを迎えるぞ」
「ずいぶん余裕ですね」
「お前は知らないだろうが、お前が誘拐犯を取っ捕まえてくれてこっちの事件に人員を割けるようになったし、お前の評価も上がったからサヤカちゃんの逮捕を遅らせようって話も出てきてるんだ。お前のおかげで俺たちに追い風が吹いて来てるんだ。感謝するよ」
「どういたしまして。これから、どうするんですか?」
「お前は病室で休んでろ。俺は……ちょっと気になることがあってな」
「何ですか?」
「いや、まだ内緒だ。ジジイの長年培ってきた勘の思う通りに動いてみようと思ってな。それに若いモンを巻き込むワケにはいかん」
「えー」
「とにかく、お前は早くケツが治るように寝るなり食うなりやっとけ。もしかしたら、また鬼ごっこをやることになるかもしれないからな」
「もう勘弁してくださいよ」
「じゃあな。何かあったら連絡してくれ」
「はーい……」
上司は病室を後にした。気になることって何だろう? どうせやることもないし、私の中でももう一度事件の情報を整理してみることにした。
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