晴:誘拐犯
──サヤカの家──
目覚ましが鳴る。その音で目が覚めるが、相変わらずあの日から変な夢はさっぱり見なくなった。これは良い兆候なんだろうか。あの夢は間違いなく悪い兆候なんだからその逆は良い兆候でないと困るのだが……。スマートフォンを確認するが、晴さんからの折り返しの電話はかかってきていないようだった。
そういえば彼女、夜中にパトロールをしていると言っていた。それだったら、電話まではいかなくても、何らかのメッセージはあっていいはずだと思う。悪いことは考えだすとキリがない。学校に行かないようにして暇な分、余計に気になってしまう。しつこいようで悪いが、もう一度電話をかけてみることにした。しばらくコール音が鳴ったあと、繋がった。
「もしもし……」
──晴の家──
グシャリ。胸のあたりに振動と少しの痛みを感じて自らの死を悟った。大量出血よりショック死の方が先にきそうなくらい心臓がドクドク動いていた。……心臓が動いている? 今までナイフで思いっきり刺されたことも刺された直後に心臓の音を気にすることもなかったから実際にはどうなのかはわからないが、胸を刺されても心臓は動いているものなんだろうか。恐る恐る目を開けてみる。ナイフは誘拐犯の手から離れて、私の胸に突き刺さっているように見えた。ただ、……胸がいつもより大きい。男は立ち上がってわなわなと私を見ているのをよそに、その大きくなった胸を触ってみた。手には革の感触があった。来ているパジャマはポリエステル繊維100%。その物体の輪郭を指でなぞってみると、ペラペラと紙がめくられる音がした。男がベランダの柵に半ば茫然としながら手を置いた時、私をナイフの刃から守ってくれたのが、毎晩、警察官になってから書き留めていたメモ帳であることを認識した。見栄を張って分厚いものを買っておいて心底よかった。パトカーのサイレンは近付いているが、まだ私の家までは着いていないようだ。男は両手を柵にかけて、疲労困憊ながら腕に力を入れ、体を浮かせようとしているようだ。
(こいつ、逃げる気だ……!)
男はピョンとその場から跳ねた。そのときには私の体は既に動いていた。もはやお尻の強烈な異物感と痛みが脳全体を支配していて、そこ以外の全身の部分は痛いのか痛くないのかわからなくなっている。
「ああああああああああ!」
男に全力のタックルを食らわせる。足をちょっと動かすだけで意識が飛びそうなくらいの痛みがお尻から襲ってくるが、もう半分以上飛んでいると思う。頭は全然回らずに、ただ男を逃してはならないという使命感というか、意志のようなものに準じて動いているだけだった。
「コノ!」
男は私の顔にグーパンチをしたらしい。私は男を押し倒し、その両手を掴んだ。男は足をジタバタさせて暴れる。そんなことはそっちのけで男が逃げられないように、腕をつかんでいる両手に全ての力と体重を入れる。私の手のひらに刺さった細やかなガラスがめり込んでくるがもうどうでもいい。私がしないといけないのは、こいつを絶対に逃がさないこと。
「クソッ! イテエ! ハナセ!」
男が何か叫んでいるが、私には何を言っているのかわからなかった。私の両手がガクガクと揺れる。男も私に握られている両腕をベランダの床から引きはがそうと必死になっているのか、足をバタつかせるのを止め、指や頭をバタつかせるようになった。サイレンが耳をつんざく。もうすぐだ。
「ウオオオオ!」
男が喚く。色んな音が頭の中に入ってきているせいか、聴覚もボンヤリしてきた。私の左手が浮き、男の腕が床から離れたのを目視した瞬間、私は下方向、男の額に向かって頭を振った。お尻の痛みとはまた違った、鈍い痛みが全身に走った瞬間、私の視界はブラックアウトした。夢を見たのかは知らないが、私を呼ぶ上司の声がはっきりと聞こえた気がする。間に合いましたか。私、誘拐犯を捕まえましたよ……。
「起きた! 起きましたよ!」
「残念ながら、かなり深い傷でしたので、勝手ながら20針縫わせてもらいました」
意識が戻ってガバリと起き上がって早々の残酷な宣告に、再び意識が遠のいていきかける。鬼の形相をした上司が病室にズンズン足音を立てて入ってくる。耳を塞ごうとしたが、腕に力が入らなくて塞げなかった。
「この馬鹿野郎!」
「すいません、病室内ではお静かに……」
「あれほど無茶はするなと言っておいただろうが!」
「すいません」
「不謹慎だがな、犯人逮捕のためにお前が犠牲になってもそれは解決どころか失敗終わりなんだよコラ!」
「すいませんでした」
「はぁ……ケツと他いろんな部分縫ったとか、もうキズモノみたいなもんじゃねえか……」
「ひどいこと言いますね」
「たりめーだ。こちとら心配すぎてマトモな睡眠時間取れなかったんだぞ……」
「心配をかけました……。で、犯人は……」
「お前の活躍のおかげで無事逮捕だよ、というか、やっぱり覚えてないのか」
「覚えてないです」
「お前、ほぼ白目剥いてたからな。さすがの俺も弁慶の仁王立ちを連想して取り乱しちまったからな。それを見られてないならこっちにとってもラッキーだ」
「え、見たことないんですけど。見てみたいな」
「うるせえ。こんな無謀した罰だ。二度と見せないからな」
……どうにも思いだせないが、どうやら、結局は私が誘拐犯を確保したらしい。覚えているのは、お尻にガラスが刺さったのを踏んずけられてるところまでだ。あの瞬間のことを思いだすと血の気が引いて行って全身の力が抜けていく。ついでに痛みもあるような気がする。
「あんまり褒められた形ではないが、ともかく、これで誘拐犯は逮捕、容疑も大体は認めてるそうだ。よくやった」
こうして上司から褒められると、いろんなところをケガしてまで真夜中の乱闘を開いた価値があるというものだ。もう二度とやりたくはないが。
「大体っていうのは、認めてないことがあると?」
「悪いがこっちから先に質問させてくれ。お前、家の合鍵とか外に放置してなかったか?」
「合鍵ですか? 鍵自体は2本あって、ちゃんと私がいつも持っている方も予備の方も家の中にしまっておいたんですけどね」
そうだ、そもそも、誘拐犯はどうやって私の部屋に侵入したのか。確かに人が入ることができる全ての窓やらドアやらはロックをかけておいたはずだ。それは寝る前に何回も確認した。
「だったら、おかしいな」
「何がですか? あ、窓は自分で割ったんですよ」
「それは現場の状況を見れば大体わかる。おかしいのはそこじゃなくて、今、お前の家の鍵が3本に増えてるんだよ。」
「え?」
「お前が持っているって鍵は2本とも家の中から見つかったんだが、それ以外にもう1本、お前の家のドアが開く鍵が見つかったんだよ。お前の家の庭からな」
「庭から? 1本多いって、合鍵を作られたってことですか?」
「ああ。アイツの指紋はべったり付いていた。使ったことは認めている。ただ、作ったことは認めようとしない。どこまで信じるべきかはわからんがな。もう一回事件を洗い流してみたが、合鍵を作られてまでアイツに誘拐されたって話は聞いた事がないし、車の中から合鍵のようなものも出てこなかった。ましてや潜伏中は俺らも見張っていたし鍵を作る材料すら手に入らなかったはずだ」
「はあ、つまり?」
「要するにだな。昨日のお前のバカげた喧嘩には、アイツ以外にもまだ関係者がいる可能性が高いって話だ」
合鍵が3つあって、一個多いから作られたものだろう。でも、誘拐犯はそれを作る方法がない。つまり、他の誰かが合鍵を作った。……あんな戦いの後の寝起きだからか、頭が働いてないのか? 頭の上でクエスチョンマークが何個もできている。
「寝ぼけ意見で申し訳ないんですけど、だったら、その合鍵を作った人はなんでその時点で私の家に侵入しなかったんでしょうか?」
「知らん。いつ、誰が、何のために、の全部が不明だ。誘拐犯サマは、『拾った』ってよ。心理学者が言うには、鍵を作ったのも含めて嘘はついてないんだとさ」
「……本当に意味不明じゃないですか。作るだけ作って捨てたのか落としたのかはわかりませんけど」
「まあでも、ジジイの勘が言うには、何かは隠しているって感じだった。何かは知らん。そこんところ、殴り合いの最中に聞いてないのか?」
あの時は何を話したんだっけ……? 私の家で待ち伏せしてたのは誘拐犯じゃないって話はした。というか、その話をしている時、『あの”男”の話はどうでもいい』とか言っていなかったか。引っ掛けじゃなければ……男?
「あんな”男”……」
それを聞いた上司は深く考え込む。私の気になる男と言えば、サヤカちゃんの隣人のサラリーマン朝平さんだ。あれから全く音沙汰がない。いい加減、会社まで乗り込んでやろうか。その許可をもらおうと上司をチラ見すると、目を閉じて、割と本気で集中して考えているらしい。1分くらい見つめていてやっと私の視線に気が付いた。
「……なんだ。危ない橋を渡るなんとやらで俺のこの考える姿がカッコよく見えたか」
「そんなわけないですよ。……どうしたんですか? そんなに考えこんで」
「いや、色々とな。」
上司は言葉を濁した。なんだなんだ。今、絶対、重要な情報を私に隠したな。その証拠に、コロっと話を変えてきた。
「あ、そうだ。もう一つ、お前の部屋のベランダから不審なものが見つかってたんだ」
ベランダ? 言われてみれば、こまめに掃除しているところとしてありえないものが落ちていたな。私のお尻にガラスが刺さる原因になった缶だ。あのときの怒りやら痛みやらを思いだしたらまたお尻がジンジンしてきた。
「あの缶の中に入っていたのがな、なんと、催涙ガス……眠ーくなるというか体が痺れるというか、そんな感じのガスの成分が残ってたらしい。神経ガスとか、そのあたりの致死ガスじゃなく症状は軽め、後遺症もないガスらしいから心配はしなくていいぞ」
「ああ。そういえば、最初、目が覚めたとき、体が痺れて動けませんでした」
「やっぱりか……。通気口も閉めろとか言えば良かったとか言おうにも、普通は考えつかないしな……」
「まさか、そのガスも?」
「ああ、アイツはやってないって言ってる。指紋も何もお前の足跡しか無かったとさ。服の繊維のようなものは付いてたが、アイツの着ていた服の繊維じゃなかった。八方塞がりだ」
「その繊維が、もう一人の関係者のものである可能性はありますね」
「そうだ。それにしてもお前、あんなガス吸いながらよくもまあ殺されずに済んだな」
「まぐれですよ。鍵と缶の話の続きですけど、動機がわからないですね。誘拐犯も、男とは言ってましたけど誰かは知らないって風の話し方でしたし。協力関係じゃないならなおさらですよ」
「だな。それが誰かはともかくとして、動機がわからないのは俺も同じだ」
「心当たり、あるんですか?」
「ないな」
「私はちょっとあるんですけど」
「……誰だ?」
「朝平さんです。ほら、サヤカちゃんの隣人の」
「ああ、結局、昨日も連絡無しなのか? サヤカちゃんと話をしてた時も部屋は見に行ったんだろ?」
「留守番電話とか、ポストに催促の手紙を入れるとかやってみたんですけど、昨日の時点では無かったです。」
「ああ。今携帯持ってなかったんだったな。というかお前の携帯、俺が持ってたんだった」
「私の部屋から持ってきたんですか?」
「俺はサヤカちゃんの電話番号は知らんからな。お前の携帯がないと重要な電話を逃してしまうかもしれないしな」
と、携帯電話を見てみると、複数回、不在着信が入っていた。全てサヤカちゃんからで、その隣人からのものはない。よく見てみると、深夜に電話がかかってきていたようだ。
「まさかとは思うんですけど、サヤカちゃんまで一緒に襲われたりとか、してないんですよね?」
「それは今さっき見に行かせてる。恐いことを言うな」
無事じゃなかったらマズいな……と思ったところで、サヤカちゃんから電話がかかってきた。上司の方を向くと、何とも言えない顔をしている。
「俺らの時代だと、病院での電話って駄目だったんだが」
「……今だと、待合室でだけオッケーだったと思います」
「……警察官として、社会のルールは守らないと駄目だ。待合室まで歩くしかないな。お前が駄目だったら、変わりに俺が出るが」
「後輩にこんな無茶させますか普通。パワハラじゃないんですか」
「ルールはルール。ほら、さっさとしないと電話切れちまうぞ」
「そんなに急かされると私のお尻の糸が切れますよ」
「それもそうだ」
無事に待合室までたどり着いて、サヤカちゃんからの電話に出る。
「もしもし」
──サヤカの家──
「あの。晴さん、大丈夫ですか?」
自分から電話しておいて何なんだという話だが、まさか出るとは思っていなくて変なことを口走ってしまった。
「うーん。ギリギリってとこかな」
「なにかわからないんですけど、嫌な予感がして」
「心配してくれたんだ、ありがと。サヤカちゃんの方こそ、何かされてない? 不法侵入とか」
「はい。たぶん大丈夫なはずですけどね。玄関は相変わらずイタズラされ放題ですけど」
「そっか……。今、警察の人が安否確認のためにサヤカちゃんの家に向かってると思うから、出てあげてね」
「わかりました。次のお話は、いつにしましょうか?」
「そうだねー。今日はちょっと忙しくなりそうだし、明日がいいかな」
「じゃあ、明日にしましょう。いいですか?」
「もちろん! 私も話したいことあるし、頑張って今日中に仕事終わらせるよ!」
「ありがとうございます」
「何か気づいたことがあったら、いつでも電話かけてきてね。今日はさっきまで色んな事情で出られなかったけど。特に朝平さんが帰ってきてる様子だったら」
壁に耳をあててみる。物音も独り言もない。留守のようだが、本当に、どこに行ってしまったのか。
「今のところは帰ってきてなさそうですね」
「了解ー。私も仕事があるから、切っていい?」
「大丈夫ですよ」
「それじゃ、また明日!」
電話を終えて、小さくガッツポーズをする。やった。また晴さんとお話ができる。ただ、その気持ちも昨日までとは少し違って、晴さんを信じるべきかどうかもう一度話してみようという、疑いの気持ちも若干出ていた。
チャイムが鳴って、外に警察官の人が2,3人いた。さりげなくゴミ拾いをしてくれた。晴さんが言っていたように、私の安否確認に来たらしい。そういえば、さっき『色んな事情で電話に出られなかった』と言っていたが、何かあったのだろうか。
「あの、晴さん、今日、何かあったんですか?」
「ああー。彼女、昨日の夜中に誘拐犯を逮捕してね。その時にちょっとケガしちゃって、病院に行ってるんだ」
そういう警察官たちの顔が、気持ち悪いものを想像したような顔になる。あれは絶対に痛いだろうな、俺たちは勘弁してくれ、と言いたげな、痛々しい顔だ。……もしかして、晴さん、私が眠っている間にかなり大きい怪我をしたのだろうか。
「大丈夫なんですか?」
「ここだけの話だけど、かなりの大ケガだったみたいでさ……」
「おい、ちょっと喋りすぎ」
「ゴメンね。今のは聞かなかったことにして。大丈夫なのは大丈夫だったからさ」
「そうですか」
晴さんを一瞬でも疑ったのが申し訳なく感じた。そして、夜中に感じた胸騒ぎは当たっていたのかもしれない。やっぱり、私と晴さんの間には、何か特別なもの、赤い糸のような、そんなものがあるような気がしてならなかった。
学校を休んだのはいいが、それはそれでやることがない。イタズラされてゴミが散らかった玄関の掃除を済ませた後は勉強をしていた。事件が解決して無事に学校に通えることになっても、授業について行けなかったら結局は取り残されたという気分になるのは変わりがない。よくよく考えたら、いい加減、進路について考えないといけない時期が近付いているのだ。夢という夢を持ち合わせずに生きてきたせいで進学先も就職先も後回しにして過ごしてきたツケがそろそろ返ってきそうだ。ペンを置いて将来に不安を感じていたら玄関のベルが鳴った。誰が来たかは大体想像がついた。
「サヤカー。起きてるー?」
「起きてるよ。今開けるね」
まあ、未来のことはまだ焦らなくて大丈夫かな。今を楽しむ努力をしなくちゃ。そんな甘えた事を思いながら玄関のドアを開けた。いつも通りの笑顔をした悠佑を部屋の中に招き入れた。今日は何の話をしようか。悠佑とは京成くんの話とかやったことないし、布教してみようかな。
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