晴:侵入者

──サヤカの家──

 ドアにいたずらされる音とは違う、けたたましい音で目を覚ました。朝から何やら騒がしい。ドアに近付いて玄関から外の様子を覗いてみると、今まさにいたずらしていたらしい集団が逃げ出して、パトカーがちょうどその横を横切った。何だかわからないが、無性に胸騒ぎがした。ベッドに寝転ぶも寝るに寝られないので、晴さんに電話してみるが、繋がらなかった。心配する心とは裏腹に、体は再び眠りの体制に入った。


──晴の家──

 よろよろと立ち上がった私を、誘拐犯は容赦なく刺しにかかる。この程度の攻撃を受け流すくらいのことは訓練で何百回もやっている。ある程度体が動けば難なく避けられる。ついでに男のスネを踵で蹴ってあげた。すると、男は私を刺そうとした態勢のまま窓に激突した。元から割れていたガラスがさらに粉々に砕け散る。男はうめき声をあげた。この男も、いつぞやの夜中に追いかけまわした時よりはだいぶスピードも落ちてるし、息も荒くなっている。激しく抵抗したのが聞いているようだ。かく言う私も、そんな男の姿を両ひざに手を置きながら見ているのだが。

「くそ。痛えじゃねえか。腕に線が入ったし、足も蹴られた。いい加減にしねえと殺しただけじゃ済まさねえからな」

ガラスの破片で腕をすり切ったようで、その傷跡をわざわざ私に見せてくれた。無駄話は時間を稼ぎたい私にはありがたい。

「こっちは金縛りにあって、首も絞められたっての」

「お互いさまだろうが。俺の車の借りを返しただけだ」

「知らないよ。あんなところに車を放置してる方が悪いでしょうが」

「だからって勝手に人の車を奪っていくなよ」

「そりゃ現に誘拐されて社内に監禁されてる人がいたら証拠として持っていく以外ないでしょうが」

「その時は誰も……」

「いたでしょうが! あの人かなり怯えて震えてたんですけど!」

男のニヤケえくぼが一層大きくなる。ムカつきすぎて時間稼ぎ関係なしに男をぶん殴りそうになったがここは怒りの衝動を抑えるのに成功した。

「そうだった。お勤めご苦労様なことで」

男は急にナイフを構えて突撃してくるが、脚を蹴っておいたおかげか今までと比べてかなり減速している。もう一度蹴ってあげるか。男をかわして蹴ろうとしたところで男が急に立ち止まった。私の足は男の太ももに当たった。ソックスも何も履いてない状態で蹴ったので妙に温かい贅肉を生で感じて鳥肌が立った。腕をさすっている暇もなく男はナイフを振り回してくる。右腕が冷たいものに当たったと思った瞬間、体が自然に腕を男から遠ざけた。

「痛っ!」

右腕がジンジンと痛み、その周りの服が水を含んでひんやりしてくる。暗闇の中、夜に慣れた目と外から入ってくる街灯の明かりだけを頼りに戦っているので、変則的な攻撃をされると非常に避けづらい。一回当たったことを知ってか知らずか、攻撃を止めようとしなかった。一度反撃をしようと思って様子を見ていたが、無理と悟って一旦距離を取った頃には右腕の他にも左手首、左太もも、左肩にもナイフが当たってしまっていた。作戦ミスだ。一歩動くたびにどこかの部分が痛みを走らせて非常に動きにくくなってしまった。

「ハアハア……なんだ、結構当たってたみたいだな」

男は私の血の付いたナイフを口のところへ持っていった。……どうやら、ナイフを舐め回しているようだ。気色悪っ!

「……めちゃくちゃ、ばっちい事やってるように見えるんだけど、楽しいの?」

「ああ? 楽しいもクソもあるか。こうやって、ナイフに付いた標的の血を舐めるのが好きなんだよ。こういう時に舐める血は格段に美味い味がする」

うえー。聞くんじゃなかった。さっきから鳥肌が収まらないぞ。体をちょっと震わせるだけでも軽い痛みを感じるので少しずつ体力が奪われていっているような気がする。こいつ、それを狙ってさっきから変なことばっかり言っているのか。時間稼ぎの無駄話をしている間に、ちゃっかり、ベランダに出る窓のカギを開けておいた。ちょっとこれ以上体力と全身の血を消耗するとかなり危険という脳の信号を受け取って、万が一の時用に開けておくことにした。私と誘拐犯、どっちの体も満身創痍で、勝利の女神がどっちに転がってくるかわかったもんじゃない。

「自分の血でも舐めときなさいよ。そしたら永久機関の出来上がりじゃん」

「あいにくだが、俺の血は全く美味くねえ。やっぱり平和ボケしてノンキにたらふく飯食ってるような奴のじゃなきゃな」

「私もアンタと夜な夜な家を一軒一軒見て回る変な女子高生のおかげで全く平和ボケどころじゃなかったわよ」

「ハハハ、毎晩毎晩忙しそうにパトロールしてたよな。その意味もなく誘拐犯にマンマと侵入されるとはな。お疲れさんでした」

こいつ……! こいつが毎日私をストーキングしてたのが確定したし、逮捕した暁には度重なる誘拐にプラスして私の分の罪もプラスしてねじ込んでやる。ということは、昨日現れた私の家の前で待ち伏せをやっていたマヌケな不審者もこいつだったのだろうか。

「アンタ、昨日も私の家に入ろうとしてトンズラしてたでしょ」

「へへ、それは俺じゃねえな」

この男、ニヤニヤしながら話しているせいで本当のことを言っているのか嘘ついているのかわからない。本当だったとしたらじゃあ誰だよっていう話になるが。

「知るか。俺には関係ない奴だろうな」

もういいや。事実を究明するのは逮捕してからでいい。今は仲間が来るまでひたすら時間稼ぎするしかない。時計を壊してしまったせいでおばちゃんに助けを呼んでからどれくらい時間が経ったのかわからない。これだけやってまだ数分しか経っていなかったら絶望する以外ない。

「もちろん、その時も私のことは観察してたんでしょ?」

「当たり前だ」

「だったら、顔とか見てないの? こっちは突然過ぎて何も見えなかったんだけど、アンタなら見えてたんじゃないの」

「お前にしか興味がなかったし、そもそも答える義理もないわな」

「なにそれ、『お前にしか興味ない』なんて、愛の告白みたい」

正直、言われてドキッとしてしまったのが本音だが、言うまでもなく、こんな男と付き合うくらいなら私の上司で妥協したほうが数万倍マシなのは男性経験の乏しい私でもそこは間違いなくわかる。

「そういや、お前、恋人いないんだってな。かわいそうに。このナイフで死んでくれたら俺が結婚してやるよ?」

「死んでも嫌だよ。そもそも死なないし」

「だろうな。まあ、あんな男の話なんかどうでもいい。このナイフに当たったらパレード開こうぜ!」

男は走ってきた、と思ったら、走りながらナイフを投げてきた。

「っ!?」

火事場の馬鹿力を言わんばかりの勢いで姿勢を低くして、なんとかナイフを避けられて、ナイフはベランダの柵に当たって、ベランダで転がっているようだ。そのまま地上に落ちてくれれば良かったのに、これだと下手をすればまた男の手に渡ってしまう。下手こいたことに、ナイフを避けた時、手を窓にかけていたせいで手に傷が入って、ついでに窓も開いてベランダが解放されてしまった。男は立ち止まることなく私に向かって走ってくる。とっさに、机の上に置いてあった分厚いメモで男を殴ったが、男はそんなことお構いなしにベランダまで私を押し出した。柵があったおかげで地上まで真っ逆さまになることもなく、ナイフを避けて男を殴ろうとしてできた、集合写真を撮るときの真ん中の列の人みたいな中途半端な姿勢から立て直せた。男は容赦なく私の顔を殴りにかかってきた。腕で無理やりガードする。ナイフの傷もあってさっきまで殴られていたより痛みが倍増している。思わずうめき声をあげてしまう。

「これでも乙女なんだから、顔殴るのは少しくらい遠慮しなさいよ!」

「うるせえ! 俺と結婚するわけでもないし、死んでしまえばそんなもん関係ねえ!」

殴りかかってくる男の下半身ががら空きだったので、今の言葉とさっきまでのずっとムカついていた分、思いっきり腹に前蹴りを食らわせた。

「うグォっ!」

渾身のカウンターを食らった男は後ろ向きに倒れ、無言で腹を抱えてうずくまる。私も私で蹴った時の反動で、先ほどナイフで切られた左太ももに激痛が走ってその痛みで顔を歪ませていた。ええい、警察はまだ来ないのか!

「……てめぇ……!」

さっきまで挑発し続けてきたツケがここで回ってきたんだ。実にいい気分になる。こんな時に思うことではないが、私、実はSの気があるのかもしれないとか余裕綽々なことを考えていた。遠くからパトカーの音が聞こえてきた。もうすぐだ。もうすぐでこのストレス全開の戦いから解放される。

 と、意識を遠のかせながら男から距離を取ろうと横にステップを踏んだ。踏もうとした。カランカラン。さっきから痛いという信号を絶え間なく送り続けてくる左足は地面に着くことなく、踏みつけた円柱状の物が私の左足もろともベランダの床を滑ったことで、私は大きくバランスを崩し、勢いよく尻もちをついた。

「いっ!」

ガラスの破片がお尻と手のひらに刺さった。手のひらに関しては右手は分厚いメモが下敷きになって外傷はないし、左も細かいもので済んでいるようだが、お尻の方にかなり大きい破片が刺さったようで、反射的に体がはねてしまう。男はその間にナイフを拾い、私の上に乗っかってマウントを取った。不幸なことに、男は私の足の付け根の辺りに勢いよく乗っかってきたせいで、破片がどんどん食い込んで、声にならない声を上げるほかなかった。

「眠たそうだったぞ。眠くても足元注意ってやつだ。片付けは日ごろからやっとくべきだったなあ……!」

視界が白黒している私の頭の近くで転がっているのは缶だった。なんでこんなものが。さては誰かポイ捨てしていきやがったか。いくら私でも、少なくとも人様から見えるベランダくらいはキレイにしてるわ。誰だよこんな時にこんなとこへ缶を投げ捨てた奴は。パトカーの音がもうすぐそこまで近づいている中、男はナイフを振りかぶった。

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