晴:金縛り
(ちょっとこれはマズすぎるよね……)
なんで誘拐犯が私の部屋にいるのか。戸締まりはちゃんと確認したのに。そして、私はなぜ動けないんだろう。金縛りのせいなのはわかるが、わざわざこのタイミングで金縛りを初体験する目に遭わなくても。突然の大ピンチに動揺して、状況が把握できなくなってきた。
今のところ体のどの箇所が動けるのか。少しずつ全身の痺れは解け、力が入りやすくなっているが、今目の前にいるこいつがわざわざ金縛りが解けるまで待ってくれる訳がない。誘拐犯がベッドに寝転んでいる私の真横で立ち止まるまでに、辛うじて両腕と両足を動かせるまでに至った。誘拐犯はゴツゴツした手を私の首に伸ばした。私の首に大きな圧力がかけられているのを感じた。
「が……あ……!」
その手を懸命に首から引き剥がそうとするが、力の入らない女性の腕では、何ヵ月も逃げ延びているやり手の誘拐犯の大きな手に歯が立つはずもなかった。
全身を身悶えして抵抗するが、首にかかる圧力は小さくなるどころか、どんどん強くなっていく。
「よくも俺のベースキャンプを奪ってくれたな……!」
それはあんたが誘拐犯だからでしょ。と言いたかったが、そんなことを言えるほどの空気の通り道はなかった。そもそも、こいつ、そんな恨み言を言いながら若干笑顔になってるぞ。抵抗できない人間の首を絞めながら笑うなんてもはや人間じゃない。こんな人間が本当に存在して自分に危害を加えようとしていることも、ここまで死がわが身に近付いているのも生まれて初めてで、頭の頂点に血が溜まっていくのを感じながら、口に入ってきた小さな塩水と一緒に人生最大の恐怖をたった今味わっている。
(とにかく……早くこの手をどかさないと……!)
だんだん視界が歪んでいくのがわかる。ベッドの上に置いてあった携帯電話を投げる。犯人の顔に当たったのはいいものの、なにせ力が入っていない分、ダメージも極めて小さかった。
「痛くねえぞそんなの!」
「っ……!」
首にかかる力がなお増しただけだった。ただ、その間に、足の痺れはかなり収まってきた。幸い、誘拐犯の意識は私の首に集中している。ならば。
「暴れても無駄……ぐおっ!」
私を覆っていた布団ごと誘拐犯の顎目がけて蹴りを放った。これも布団がある分衝撃もあまり大きいものとは言えなかっただろうが、相手は油断していたうえ、私の蹴り自体も悪くなかったので少しスッキリした。男はのけ反って手の力が緩む。すかさず全力でその手を引きはがす。咳が止まらないし、吐き気も催してきている。ベッドから立とうとしたが、うまく力が入らずに、その場で崩れ落ちるように倒れてしまった。男はよろけただけで立ったままなので相変わらず不利な形勢は続いているが、一方的に絞殺されるよりは巻き返しを図るチャンスは多くなった。
(毎日真夜中に死ぬ思いで走り回って筋肉をつけておいて良かったかもしれないな、これは……!)
「この野郎!」
男は私を殴るようだ。だが、そのスピードは上司の本気のパンチよりも速くないと見た。ならばいいさ。一発くらい食らってやろうじゃないか。そのかわりに、机の上に置いてあった目覚まし時計を取る。
「野郎じゃなくてアマって言え!」
その時計を手に持ったまま窓に叩きつける。小気味良い音が聞こえた瞬間、部屋の中はヒンヤリと冷たくなり、どこかの家の洗濯物が風に煽られる音が聞こえた。それを私が認識したくらいに、脇腹あたりに痛みが走った。
(今だ!)
男が私を殴って動きが止まったのを見計らって、窓に叩きつけたまま手放さずにいた時計をもう一度、男の顔面目がけて投げつける。今度は顔ではなく肩に当たってしまった。床に落ちた時計をそこらへんの家具に向かって蹴り飛ばす。寝室には、化粧台、テレビ、ベッド、日記帳と化してきた分厚い警察での活動を記したメモ帳、小さな机と目覚まし時計。先ほど割った窓を開ければガラスまみれのベランダがある。その下は柔らかい土があるので、一応は飛び降りて逃げ出すことはできるが、これは最終手段にしたい。携帯電話とかメモ帳とかに、サヤカちゃんをはじめ色々と重大な個人情報がたっぷり入っているのに、それを放置したままスタコラ逃げてった結果、情報だけ盗られてしまったらそれこそ大問題だ。こんなことなら護身用の武器でも隠しておくべきだったが、今となっては後の祭りだ。現状あるものでどうにかするしかない。そして、寝室のベランダから降りたところの庭に、もう一人、使えそうなものがノコノコやってきた。
「晴ちゃーん! なんか、ガラス割れる音がしたけど、大丈夫なのー!? あんまりカリカリしないでねー!」
(ナイスタイミング!)
そうだ。夜の町を彷徨う近所のおばちゃんだ。このタイミングできてくれたのは嬉しいが、それはそれで何かオカルト的な何かを感じずにはいられない! 何をやったらこんな時間に町を練り歩く必要があるんだこの人は。
「泥棒に侵入されましたー! 今戦ってる最中なんで警察を呼んでくださーい!」
……かなり声が響いた気がする。もともと痺れで声すら出ない状態から首を絞められたので本気で声を出さないと聞こえないかなと思って、腹の底から死力を振り絞って声を出してみたが、これは恥ずかしいことになってしまったな。泥棒に入られた警察官。またおばさま達の噂の種にされるだろう。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。一方では私の生命にかかわる危機だが、もう一方では、この誘拐犯を捕まえる最大のチャンスかもしれない。この言葉を聞いた男が逃げたなら私は死なずに済んでヨシ、逃げなかったならばチャンスが増えてヨシだ。
「泥棒ねー!? わかった! 警察呼ぶわね!」
いちいち声がデカい。ああ、生き恥を晒したぞ……。男の顔を見るが、何の動揺もなくニヤついた顔のままだ。憎たらしい。
「そんなもんで俺がビビってトンズラするとでも思ったか? 安心しろ、今すぐお前を殺して、生き延びてやる」
と言って、男は胸元から折り畳みナイフを取り出した。空中で一振りして、シャキンという音とともに、見るからに鋭そうなナイフの刃が出てきた。持ってたのかよ。
「もともとはお前も誘拐する気で後をつけたり失神させようとしたりしていたがな。こうなれば殺すしかないだろ」
やっぱり、例のサラリーマンが言っていた、私を後ろから監視している人ってのはこいつだったのか。こいつのせいで真夜中やら朝早くやら無駄に走らなければならない羽目にあった。その借りは顎を蹴り飛ばして返せたが。
「それに、警察を呼ぶったって、ここに来るまで何分かかる? お前が今すぐ死んでくれれば、俺はたっぷり時間を使って逃げられるんだがな」
「無理な相談」
「今のが楽に死ねる最後のチャンスだったのにな」
言ってろ。ただ、この男の言うとおりで、実際、警察に通報したところで私の家に来るまでは数十分の時間がある。それまでに生き残ることができるかが問題だ。手錠があったら何とかなったかもしれないが、不幸にも、私にそんな大層なものを持ち歩く権限はない。要するに、あと何十分かはこいつと死闘を繰り広げなければならない。ハンデが大きすぎるが、もう後には引けない。引きたくない。
「危なくなったら逃げろ。出過ぎた真似はするな」
上司の言葉が脳裏をよぎる。
(すいません。私、やっぱり、こういうタチみたいです)
体術を扱える警察官を夢見た頃には格闘技の番組も一回見たことがある。その時は戦うのを楽しみそうにしている選手を見て、この選手たちは何を熱くなってるんだと思っていたが、何となく、その気持ちがわかった気がする。プライドだ。彼らに格闘家としてのプライドがあるように、私にも警察官としてのプライドってのがある。決意も覚悟も決まった。一対一のデスマッチだ。頭の中で金属と金属がぶつかる音がした。
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