晴:凶器
浮遊感に体が反応して椅子に座ったまま一時的な痙攣を起こした。目を開けてみれば外はもう明るくなっていた。寝てしまっていた。全く。日々の不眠生活がたたってか、いつもより数時間も遅い気象になってしまった。机の上に伏せて寝ていたようで、顔には型がついて、体の節々も微妙に痛い。サヤカちゃんとの約束の時間には何とか間に合いそうな時間だったのが救いだ。距離的には歩いて行けるからよかったものの、どの道走らないと間に合いそうにない。ここ数日で脚に筋肉が付いてきてしまって、自分でも何となく警官としての貫禄が出てきた気分になっている。
サヤカちゃんとの約束には間に合い、汗だくになった私にオレンジジュース出してくれた。ジュースを飲もうとしてむせてしまったサヤカちゃんを見て、かなり心が和んだ。落ち着いて話ができそうだ。
警察署の方で聞けないような細々した話をしていたが、得られた情報はそこそこ大きい気がする。夢の中で話しかけられたこと。隣人は、やっぱり私がこの前の夜中に会ったサラリーマンらしいということ。ビデオの録画に一回失敗していること。こういった話を向こうですると時間の無駄だと怒られることもあるし、何かに繋がりそうな話ができて良かった。これから私とサヤカちゃんでプライベートな話をしようとしたところに上司から電話がかかってきた。今日、サヤカちゃんと話をすると言っておいたはずなのに。空気を読むという言葉は辞書に入っていなかったのか。と思う気持ちはすぐに吹き飛んだ。
「大変だ。女子高生刺殺未遂の凶器が見つかった。血は延子さんのDNAと一致、柄の部分には、サヤカちゃんの指紋が付いていたらしい。発見されたのは……ゴミ捨て場。サヤカちゃんが今朝捨てていたゴミ袋に血の付いた包丁が入ってるって通報から見つかった。こっちじゃサヤカちゃんを逮捕する動きもじわじわ出だしてるぞ。誘拐犯と合わせてどっちも急を要する事件だからな」
「マジですか」
非常事態だ。凶器が見つかったまでは良かったが、その凶器にサヤカちゃんの指紋が付いていた? だとしたら、本当にまずい。私たちはサヤカちゃんの顔と服装をした女子高生が現場から逃げていくのを見ているし、被害者の延子さんもサヤカちゃんがやったと言っている。これはサヤカちゃんが犯人と決めつけられる証拠が揃いすぎている。しかも、サヤカちゃんのアリバイも自分の寝ている姿の録画映像しかない。ここまできたら、そんな証拠もアリバイ工作をしていると判断されてしまうだろう。
「うん。ちょっと急用が入ったから今日はお開きでいいかな?」
「……いいですよ」
サヤカちゃんも、空気が変わったのを察したようだ。焦りが顔に出てしまっていたのだろうか。さっきまでに比べて、かなり控えめな声になっている。
「大丈夫だって! 私と私の上司が何とかしてみせるから!」
何とかなる状況で収まっている望みは薄かったが、そう言うしかなかった。サヤカちゃんも、それには返事をしなかった。急いで警察署に臨時出勤すると、いつも以上に署員が慌ただしく走り回っていた。当たり前だ。毎日メディアを騒がせ、解決を急かされている事件の重要な証拠が見つかって、有力な容疑者が割り出せたのだ。私は今この流れに逆らおうとしている。皆を説得して、新たな真犯人を見つけ、逮捕する。私はサヤカちゃんと約束した。絶対にやり遂げなければならない。
「急に電話して悪かったな。話の途中だっただろうが、こっちを優先するべきだと思ったからな」
「いえ、こっちも早めに伝えてくれて助かりました」
「それで、サヤカちゃんはどうだった? 何か良さげな話は聞けたか?」
「それなりには何かに繋がりそうな話は」
「……起死回生の手がかりはないか。状況が状況だからここから短時間で挽回できるようなものがないと彼女の経歴に傷がついてしまう」
「そうなんですよね。でも」
「それ以外に手はないのも事実だ。これから色々頼みに行かないといけないからな、特に俺らは。ということで手短に頼む」
「私が気になったのは3つですね。まず、サヤカちゃんは毎日、もう一人の自分が部屋の中に現れる夢を見ていたらしいです。それで、一回だけ、『私は一人では何もできない』という言葉を聞いたとのこと。そして、何より、”サヤカちゃんがその夢の内容を鮮明に覚えていたこと”ですよ。専門家に聞いてみないと正しいかはわかりませんが、これは珍しい現象だと思います」
「数日間に渡る夢をしっかりと覚えていた。夢の内容は大体起きた頃にはすっ飛んでるはずだから、忘れてもおかしくないはずだと。そういう例があるのかは詳しい奴に聞いてみるか」
「2つ目。サヤカちゃんの隣人と私は会った事がありました。この前の夜中のパトロールで歩いていたサラリーマンで間違いなさそうです。サヤカちゃんの家から帰る時に名前を確認してみたら、その時貰った名刺と同じ名前の人が住んでいました。ベルは鳴らしてみたんですが、留守だったので後で電話してみます。それで、その人の話だと、サヤカちゃんが遅刻した日の夜中、ドアを開閉する音が聞こえたらしいです」
「それがサヤカちゃんの部屋だったって確信はあるのか?」
「彼はどうもサヤカちゃんの部屋からの生活音に神経質だったらしく、サヤカちゃんは毎日怒鳴られていたという話です。もしそれが事実だったら、サヤカちゃんは夜中にどこかに出かけていたことになります。あんまり信じたくはないですけど」
「そんなに信じたいんだったら、逆に考えることもできるぞ。”その日の深夜、サヤカちゃんの部屋に誰かが入った”」
「そんな時間にサヤカちゃんの部屋に入って、何をするんですか。……あ」
「そうだ。”彼女の見ていた夢は、実は夢なんかじゃなくて、現実に起きていた”なんてことも、考えられないか?」
「本当だ……!」
「ドッペルゲンガーだか何だか知らないが、幽霊だとか、そんなものを簡単に信じるなって常日頃から言ってるだろ。まあ、これはあくまで推論でしかないがな。続けろ」
「3つ目です。殺害未遂が起きるちょうど一日前も、サヤカちゃんは自分の寝ている様子を撮影しようとしたようですが、なぜか録るのに失敗したみたいです」
「状況がよくわからん。録画ボタンを押すのにでも失敗したのか?」
「それは本人のミスなので詳しくは覚えてないみたいでしたが、録画はしたつもりだったらしいです」
「その日は……例の夢とやらは見ていたのか?」
「その夜に、さっきの『私は一人では何もできない』という言葉を言われたみたいです。……ということは、本当に誰かがその時にサヤカちゃんの部屋に入っていたら……!」
「録画に失敗したんじゃなく、失敗したように操作された」
「ありえますね。ちょっと信じられないですけど」
「まあな。どのみち、サヤカちゃんの姿をした人影はなんだったんだって話にもなる。とりあえず、その高平とかいうサラリーマンにコンタクト取っておけ。俺の滅茶苦茶な推理を推すつもりならサヤカちゃんが見たって夢の内容を詳しく聞いて来る必要があるな。いつ、どこ、誰、何をしたか、全て」
「わかりました」
ノートにペンを爆走させる。今までで一番危機的な状況に置かれているが、一番捜査は進んでいると思う。上司が推理したものを鵜呑みにした上での気のせいかもしれないが。どの道、この勢いのまま突っ走らなければならないのは同じだ。
「それで、昨日の夜中、お前の家で誰かが待ち伏せしてたって奴だな。それは今話題の女子高生とか誘拐犯とかとは違ったのか?」
「違いました。一晩考えてみたんですけど、女子高生は服からして女子、という感じでしたし、誘拐犯にしては背が低かったような気がします。それに、私が外に出るなり飛び上がってスタコラ逃げて行ったのが誘拐犯なら噂に聞いたより不用心すぎます」
「別人の可能性もあると。夜中の徘徊者、どんだけ増えるんだよ」
「本当に。とりあえず話すことはそれだけでしたっけ」
「ああ。指紋とDNA鑑定がマジかどうか追及するとするか」
「いや、さすがにでっち上げるとかはないですよ」
「何年も凶器の分析してる奴なら、凶器に何かしら違和感を持ってるけどそんな事言える空気じゃないから黙っとくなんて事もありえるだろ」
「いえ、これはほぼ間違いなく延子さんの血痕で、ほぼ間違いなくサヤカさんの指紋ですね」
「信じたくはないですけど、ですよね」
「何か気になることはないか? 今まで見てきた凶器と何か違う、とか。サヤカちゃん信じる派の人間は今、どんな小さな情報でも欲しいんだ」
「強いて言えば、刺し傷があんまり大きくないというところですかね。良い解釈をすれば、大の男どころか、高校生でも手を抜いている可能性も否定はできないかもしれませんね。もちろん、犯人が殺意を持ったうえでミスをしたという見方もできますが」
「ありがとうございます。とりあえず、良い解釈のほうで考えてみることにしてみます」
「そうですか。晴さん達も少数派で風当りは厳しいでしょうけど、頑張ってください」
「お、応援してくれるのか。よし、この事件が俺らの納得できるかたちで解決したら、君にも飲み会奢ってやろうか」
「はは、駄目ですよ。良い結果を期待しています」
扉を閉めて頭を掻いた。
「次は、サヤカちゃん逮捕派の説得ですか?」
「そうだな。お前の直観を信じてしまったおかげで俺まで巻き添えで多数派と敵対してしまったからな。全く。失敗したら自主退職かな」
「そうならないように頑張りましょう」
「頑張っても真実は変えられないがな。まあ先の事は真実が明らかになってからでいいや」
乗り込んでみると、あたりにいた警官から少しきつい睨みを利かされた。やっぱり私たち、目の敵にされてるな。決定に反抗しまくって捜査を長引かせてるんだから当然だけど。
「何しに来た?」
「たぶん皆さんが予想したとおりのことです」
それを聞いた人がどんどん険しい顔に変わっていく。でも、残念ながら、数日前の夜中に見た女子高生の無表情を見てからは怖い顔のハードルが高くなっているんだ。その程度じゃ怖気づかないぞ。
「サヤカさんの逮捕、もう少し見送らせてください」
「ふざけるな。誘拐事件もあって、今回の事件だぞ、俺たちがどれだけバッシングを受けてるかくらい、お前にもわかってるだろう」
「だからこそ、慎重に捜査するべきじゃないんですか? 事件を早期解決できても、それが冤罪だったとしたらさらに風当りが強くなると思うんですけど」
「凶器が出てきて彼女が犯人である可能性が高くなっているのは重々承知している。でもな、アリバイの映像についてはどう説明する? 今のところはデータを書き換えたという結果は出てないんだろ? それが出てくるまでは待ったほうがいいんじゃないのか。後々になってこういうのが漏れて出てくるとお前らのキャリアにも影響してくるぞ。隠しても隠さなくてもな。」
「それはそうですけど……」
「とにかく、アリバイの映像が改ざんされていたって痕跡が出てくるまでは待ってくれないか」
「……」
誰も何も言わなくなった。私も言いくるめの言葉は考えていたが、上司の長年生きてきた口の達者ぶりと有無を言わせない圧力には恐れいった。
「ありがとうございました。フォローして頂いて」
「はぁ……これであいつらが上の立場になったとき窓際に追いやられるのが確定したな。とっとと辞めて世俗から離れて隠居の身になるか」
「またそんな事言って」
「まあな。結局あいつらが待ってくれるのかどうかの返事はしなかったし、無駄話もほどほどにだな」
「そうですよ。とりあえず、サヤカちゃんの家に忍び込んだ人を見つけ出したほうがいいですよね」
「学生証も、その時に奪われたっていうのはあり得るしな。そしたら、そいつが犯人の第一候補だ」
「わかりました。目撃情報でも何でも、収集しましょう」
サヤカちゃんの隣の部屋の人──朝平さんがくれた名刺の番号に電話をかけたが、出ることはなかった。そのかわり、別のところから電話がかかってきた。
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