第二十六話 魔の森 三
調査開始は現地到着の翌日からとなった。夜は何の問題もなく更けていき、翌朝まだ早い時間に目を覚ましたネスは、基地内を散歩している。
夜が明けたばかりの基地内には、まだ起きてくる人が少ないらしく、人影は見当たらない。朝の清廉な空気の中、気分良く歩いていたネスは、基地の端まできていた。
基地の周囲は簡易の柵で囲われている。その柵の向こうに、不自然な程静かな森があった。
この時間でも、動物や鳥がいれば泣き声や移動などの音が聞こえるはずなのに、森からは何も聞こえないのだ。
本当に生物は何もいないのかもしれない。かなり離れているこの場所からでもわかる程、森は濃い魔力で覆われている。
今日これから、あの中に入るのだ。この魔の森に人が入るのは、実に数百年ぶりだそうで、中の状況は誰にもわからないらしい。
どのくらいそうして森を眺めていたのか、不意に背後から声をかけられた。
「早いな」
振り返ると、予想通りドミナード班長の姿ある。
「おはようございます、班長。班長こそ、早いですね」
「おはよう。つい、いつもの習慣でな」
詰め所に来るのも、いつも早い班長だ。習慣だというのも本当なのだろう。
何を話すでもなく、その場で二人並んで森を見ていると、すぐに中央天幕から鐘の音が鳴り響いた。起床時間を知らせるものだ。
基地内にいる者は、決められた時間に起床、就寝する事が義務づけられている。起床、三度の食事、就寝は全て中央天幕からの鐘の音で知らされるのだ。
食堂兼共同休憩所として使われている天幕で朝食を済ませた後、調査の為のミーティングが行われた。
「これからの調査だが、森の中にはロンダを使って入る事になる」
ロンダとは、魔力で地上から浮き上がる簡易の乗り物で、速度は出ないが使い勝手がいいのと、地表の状態が悪くとも楽に移動出来る事から、こうした調査にはよく使われているらしい。
「今回の調査では、一番は結晶の探索になるが、それ以外にも植物の種類とその分布図、また生物の有無も調べる事になった」
通常、こうした調査の場合は高空及び低空飛行の魔導器具を使って事前調査をするのだが、魔の森に関しては高空調査以外は湧出魔力の影響で出来ないそうだ。
つまり、手探りで班員が調べなくてはならないという事だった。
「面倒くせえなあ。上の連中、俺等の事を便利な道具とでも思ってね?」
「ただの嫌がらせじゃね?」
「こういうのこそ、人数の多いおっさんの班でやらせるべきじゃね?」
三馬鹿はいつも通り言いたい放題だが、どうやら最後のディスパスィの一言だけは、他の班員に響いたようだ。
「確かに、ジュンゲル班はうちの十倍近い人数がいるんですから、こういった探索には向いているはずですよね」
「魔の森は何があるかわからないから危険って事なら、うちの班だって条件は変わらないんだし」
「今回の仕事、何か裏はないんでしょうか?」
リーディ、キーリア、ニアの意見に、ドミナード班長は黙っている。ちなみにネスは、皆の言い分を聞いて理解しようとするので手一杯だった。
「班長、今回の仕事に評議会は関わっていないんですよね?」
リーディの発した「評議会」という言葉に、ネスは驚いて目を丸くする。評議会といえば、魔導機構の一番上にある組織だ。何故そんな所が、今回の仕事に関わっているとリーディは思ったのだろうか。
リーディの言葉から数瞬間を置いて、ドミナード班長は口を開いた。
「命令自体はナージ部長から直接来たものだ。ジュンゲルや研究所の連中は、その後に部長にねじ込んだらしい。こちらに到着してから、愚痴混じりの連絡が来た」
「あの部長がですか? ジュンゲル班長達に負けるなんて、らしくないですね」 班長の説明に対するリーディの返答には、信じていない様子がありありと浮かんでいる。
機構は絶対の縦社会であり、命令は上から下へと下される。それを考えれば、ジュンゲル班長達のねじ込みが成功した以上、それはナージ部長の意向を汲んだ結果であるはずだった。
そして、部長の意向にはさらにその上である評議会の存在があるのではないか。リーディが言いたいのはそれだろう。
機構に入って約一年のネスだが、自分が所属する実行部内の関係図は頭に入っている。
魔導学院では、卒業後に機構で即戦力になれるよう、機構内部の組織図を教わる。それだけでなく、学院内にも機構と似た組織を形成し、疑似体験出来るようにしてあるのだ。
そのおかげで、三年も早く卒業する事になったネスも、機構の在り方に慣れるのは早かった。
自分の発言に対する班長の出方を見ているリーディに対し、ドミナード班長の対応は素っ気ない。
「だったとしても、我々が関知するべきではない。今やるべき事は、目の前にある森を調査する事だ。違うか?」
「いえ……差し出がましい事を言いました」
「いい」
わずかな言葉でこの言い合いは終了し、それと同時にミーティングも終了したので、全員で移動する事になった。
基地と森を隔てる囲いには、いくつかゲートが設けられている。その一番森に近いゲートの脇に、白い物体が置かれていた。
「これ、何ですか?」
「ネスは見るの初めて? これがロンダよ」
「へー、これが……」
白い円盤に、周囲をぐるりと柵が囲っているだけの、非常に単純な作りだ。これが局の技術の粋を集めて作ってある道具だというのだが、とてもそうは見えない。
このロンダは、魔力を流して起動する。移動も全て魔力便りなので、ネスは乗れそうもないと思っていたのだが。
「え!? 私、班長と乗るんですか!?」
寝耳に水だった。
ロンダで入る魔の森は、一見すると普通の森に見える。だが普通と言えないのは、音が殆どしない事からもわかった。
あの後すぐに局員から腕輪型の魔力阻害装置を受け取り、基地を出発したのだ。
先頭を行くのはキーリアであり、その後ろに三馬鹿が、さらに後ろにドミナード班長と共に乗ったネスが、一番後ろにリーディという編成である。
ネスはロンダの手すりにしがみついている。バランスはロンダの方で自動で取ってくれる設計だからこそ出来る事だった。ちなみに、ニアは医療班に詰めているので、調査には参加していない。
キーリアのロンダには簡易版の調査機器が取り付けられている。これは局の人間が基地で即席に作ったものらしい。
当初予定していたロンダが、レガ以外操作不能だった為の措置だった。そのロンダを用意したレガは、自分も森の中に入るつもりでいたらしい。
さすがにアイドーニを先頭とした局員に説教されて断念したようだが、おそらくはまだ諦めていないだろう。
彼にとって、この森はまさしく宝の山なのだそうだ。ドミナード班を見送る際に未練たらたらで早口にまくし立てていた姿を思い出し、ネスは無意識のうちに溜息をついていた。
「どうかしたか?」
「ひゃい! い、いえ、何でもない、です……」
すぐ後ろにいる班長に、溜息が聞こえたらしい。うかつな事は口に出来ないと、ネスは気を引き締めた。
森に入って既に三十分経っている。基地から見てまっすぐ東に向かって進んでいるが、進行方向に大きな木がある関係で、存外蛇行させられている。そのせいもあって、移動速度はいっこうに上がらない。
「まったく、下草も結構あるし、進みづらい場所ね」
「木なんぞぶっ飛ばしゃいいじゃん」
先頭を行くキーリアの愚痴に、すぐ後ろのヒロムが応じたが、すぐにキーリアに鼻で笑われた。
「本当、あんた達って馬鹿ねー。今回の調査は動植物も含まれるって説明されたでしょ? 調査対象を移動に邪魔だからって破壊する調査隊がどこにいるのよ」
痛いところを突かれたようで、三馬鹿からは非難の声は上がらない。キーリアはそれきり三人に構う事はなく、時折舌打ちをしつつ前進していった。
森に入って約一時間が経過した辺りで、班長からキーリアに止まるよう指示が飛んだ。
「今日はここまでだ」
「え? でも、まだ森の中央にも到達していませんよ?」
「いいんだ。一気に進めず、周辺を探りながらゆっくり中央を目指す。まだ他の方向も探索しなければならないしな」
キーリアの疑問に答えた班長の言葉に、ネスはなるほどと納得していた。ここ数十年誰も入った事がないと言われている場所だ、何が起こるかわからない。慎重に進めようという事なのだろう。
帰りは来た経路をまっすぐ帰るのかと思いきや、別の経路を探りながら戻る事になった。
「行きと帰りで探索の範囲を広げる」
「わかりました。また私が先頭でいいですか?」
「いや、編成を逆にする。リーディ、お前が先頭だ」
「了解しました」
今度はリーディを先頭に、ネスと班長、三馬鹿、キーリアの順で、今の地点から南西を目指す。
帰りの経路でも特に目立った変化はなく、順調に進んでいく。変化は、基地に戻ってから起こった。リーディとヒロムが倒れたのだ。
一瞬、基地内は騒然とした。森の中から未発見の病原菌か寄生生物でも持ち帰ったのかと疑われたらしい。
局員が検査した結果、二人は軽い魔力中毒になっている事がわかった。
「うーん、もう少し装置の設定を強めにしないとだめかなあ?」
簡易診察台に転がされているリーディとヒロムを前に、検査の指揮を執っていたレガは首を傾げながら呟いた。
その姿を目の端で見ながら、ネスは首を傾げる。
「でも、どうしてこの二人だけが中毒になったんですか? 他の人は問題ないのに」
ネスの素朴な疑問に、レガは苦笑しながら答えた。
「問題ないかどうかは、今検査しているからすぐにわかると思うけど」
「え? 皆、検査しているんですか? 私は?」
「いや、君は必要ないでしょう。ネスが今付けている阻害装置、最高強度に設定してあるんだよ?」
つまり、魔力中毒になどなりようがないという事らしい。いい事なのだろうが、何となく釈然としないネスだった。
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