第28話 賭け

 二頭の土蜘蛛は水から上がり、哀れな若者を見つめていた。

『どうする? 妃よ』

『鬼にるまでは、好きにさせてあげましょう』

 慈悲深き女神のような微笑をたたえ、絡新婦じょろうぐもが言う。

『短い間だったけど、パートナーだったんですもの。一番近くで見守るといいわ』

 らいらの膝を枕にして、一磨は鬼になろうとしていた。

「一磨さん! 一磨さん!」

 らいらは何度も呼びかける。

 一磨の変化は止まらない。髪がぼさぼさに伸び、額に突起が現れはじめる。

「あ……!」

 らいらは腹を押さえた。

「こんなときに!」

 らいらが目元を歪める。瞳が光を失う。金緑色から黒色へ。

 らいらの背後で戦っていた神虫も姿を消す。

 空腹が、彼女をむしばんでいた。

「ら、いら」

 荒い息の中で、一磨はらいらの手を取った。

「俺も限界だ。鬼に成る。俺を喰え、らいら!」

「いやです」

「頼む!」

「いやです!」

「頼む、らいら。鬼を……倒さ、なければ……」

「いや……!」

 らいらは首を横に振る。

「あなたは食べられない。でも」

 らいらはゆっくり頭を下げる。

「わたし、賭けます」

 ちゅ。

 唇へのキス。血まみれの唇に、やわらかい唇が重なった。

 らいらが、一磨の口中に満ちていた血を、吸う。

 ゆっくり二人の顔が離れる。血まじりの糸が二人の舌を結ぶ。

「おいしく、ないですね」

 糸が消え、らいらはほほえむ。そっと一磨を横たえる。立ち上がる。

「らいら……?」

 何をするつもりなのか。

「おおおおおおおおッ!」

 らいらが絶叫した。声がビリビリと洞窟中に響く。

 戦うつもりだ。あのわずかな血で、神虫を呼び出し戦うつもりだ。

「神虫、鬼を喰らえッ!」

 神虫が現出する。朱顎王しゅがくおうに飛びかかる。

『フンッ!』

 朱顎王が脚を振るう。神虫は地面に倒され、押さえつけられた。

「あ!」

 絡新婦の前脚がらいらを襲う。張り倒され、地面に押さえつけられる。

『特攻とは……健気ねぇ。反吐が出そうなくらい、美しいこと』

「か、ずま、さん」

 らいらが弱々しく手を伸ばす。

「逃げ、て……」

 ――一磨、逃げろ。

 傷ついた父の顔が、らいらに重なる。

「ウオオオオオッ!」

 一磨の全身に、力がみなぎった。背中の独鈷杵を抜く。真言を唱えることも忘れて、一磨は朱顎王に向かっていく。

 朱顎王は簡単に一磨をねじ伏せた。

『これはこれは。我が宝がみずから来たのう』

「ウウッ! くそォッ! 離せッ!」

『いっそすべて宝珠とするか』

 朱顎王がつぶやくと、土中から透明な結晶がせり出してくる。結晶は一磨をくるみ、球状になる。球の中に、液体が湧いてくる。

「な……がぼっ」

 液体はあっという間に球の中を満たした。一磨は息を止め、必死に球を叩く。

『溺死はせぬ。安心せい』

 がばぁ、と一磨の口から空気が吐き出される。空気は液体に溶けて消えた。

「…………」

 一磨の体がゆっくりと丸まっていく。胎児の姿だ。

「そんな……一磨さん……」

『さぁ最早恐れる者はなし! 神虫よ、貴様を血祭りに上げてくれよう!』

「いやああああっ!」

 らいらの叫びがこだました。

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