第19話 消耗する心
「――はっ!」
白い粘着性の物質で、手足を固定されている。上半身は裸にされ、足首と腰のあたりも粘着物質で固定されている。
首は自由に動いた。左右を見回す。またも洞窟の中にいるようだった。岩でできた空間が広がっている。結晶はないが、鬼火がぼんやりとあたりを照らしている。
「先生!
岡留もいた。岩の上に座ったまま、人形のようにぼうっとしている。
『目が覚めたか』
独特のしゃがれた声がした。朱顎王だ。
「
『怒るな、宝よ』
「ざっけんな! 俺はテメェのコレクションになんかならねぇぞ!」
一磨は力の限り抵抗する。粘着物は外れない。強力な樹脂で固められたかのような感覚だ。
「くっそ……!」
冷静になれ。頭脳の片隅が告げる。
(そうだ、冷静に)
独鈷杵はどこへ行った。呼びかければ答えるはずだ。あれは自分と同じものなのだから。
一磨は小声で真言を唱えはじめる。
(オン・ソラソバテイ……)
ゴッ!
「がはっ!」
一磨の胸に朱顎王の拳が落ちた。
「あ……カ……っ」
肺から一気に息が抜ける。思考も止まる。
『不便よなぁ、未熟なる者。言葉にせねば武器にもならず』
朱顎王の言うとおりだ。
「詠唱」という言葉があるように、多くの呪文は発音してこそ意味を持つ。心中での詠唱や極小の音声、または無声で呪を発動する退魔士もいるが、そこに至るには相当の修行と経験が必要だ。
一磨は、まだそこまで至っていない。
『さて……少々無粋をしたが、準備も整うた』
朱顎王が暗闇に向かって四本の腕を広げた。
『これより儀式を執り行う』
鬼火がいくつもともり、輪のように連なって洞窟中を照らす。
一磨が拘束されているのは、平らな岩の上だった。周囲に多くの鬼がひれ伏し、あたかも祭壇を崇める信徒のようであった。
『おお……我ら土蜘蛛の、永き憂いの
朱顎王の演説に、鬼たちが感嘆の叫びを上げる。洞窟内に反響する鬼の声はおぞましく、悲しく、喜びに満ちていた。
『痛むならばわめけ。滲みるならば泣け。恐れるならば叫べ』
朱顎王が一磨の胸に指を伸ばす。三本しかない指の、中央の指を伸ばす。
指からシャキリと爪が伸びた。ナイフのような鋭利な爪だった。
『恨むならば怒れ。悲しむならば祈れ。……痛むならば、わめけ』
挑発の言葉だ。
「誰が……!」
一磨は歯を食いしばった。
「う……ぐ」
朱顎王の爪が、一磨の皮膚に食いこんだ。ズク、ズク、とゆっくり切られていく。
皮膚を斬り裂き、肉まで達する痛み。血があふれ、たちまち一磨の上半身は血で染まった。一磨は悲鳴も上げず、ただ耐えた。
まもなく一磨の胸に刻印があらわれた。「ム」の意匠――
「くう……」
『耐えるか。健気なよなぁ。まるでお前の父のように』
鬼の言葉に、一磨はハッとする。
――一磨、逃げろ。
朱顎王を前にして、父は最後まで抵抗したはずだ。だが、一磨は結末を知らない。
「父さんを……どうした!?」
『殺してやったよなぁ』
朱顎王は当然のように告げた。
一磨は一瞬、意識を失ったかのような錯覚にとらわれた。体中が震える。歯の根が合わず、ガチガチと鳴る。声帯が言葉を忘れる。
「……ころしてやる」
ようやくつぶやく。煮えたつ溶岩のような怒り。そして噴火する。
「殺してやる! 殺してやる!!」
力の限り暴れながら、一磨は怨嗟の叫びを響かせる。
「母さんを! 父さんを! よくも母さんと父さんを殺したな!!」
心臓が破裂しそうなほどの憎しみが一磨をむしばむ。
『そうだ、それだ』
我が意を得たり、と朱顎王が笑う。
『その憎悪がぬしを鬼にする!』
朱顎王がおのれの手を強く握る。みずからの爪で傷がつき、血が滲む。
滲んだ血が雫となって向かう先は――一磨の胸の刻印。
ぼたりと、黒い血が落ちた。
「うあああああアアアアアアア――――!!」
絶叫が響いた。
鬼の血が、一磨の胸の傷から体内へ入る。
『耐えよ、同胞。いずれ完全な鬼となる』
朱顎王がささやいたとき――。
洞窟内に轟音が響いた。
『来たか』
朱顎王はその方向を見つめた。
神虫――らいらを乗せた、鬼の天敵が立っていた。
らいらは満身創痍だった。ぼろぼろに焼け焦げた寝巻。袖や裾は邪魔になるからと、無理矢理ちぎり取ったのだろう。
「神虫!」
らいらは神虫の背から飛び降りた。
神虫が洞窟内を周回するように暴れ回る。尾のトゲで小鬼を突き刺し、八本の腕でつかみとり、引き裂く。真紅の口で鬼を喰らう。
『ムウ……』
朱顎王は岡留を抱え、後方に下がった。
「一磨さん!」
らいらは祭壇に駆けよる。
神虫が威嚇のうなりを上げ、鬼たちを牽制する。
一磨の胸に「ム」の刻印。赤黒い刻印が煙を上げている。
「まさか、呪印!?」
らいらはためらわなかった。一磨の胸に、呪印に吸いついた。ジュウウ……と白煙が上がる。らいらの唇のすきまから、煙が漂う。らいらは眉をしかめたが、唇は離さない。さら強く吸いつく。鬼の血を吸い出すように。傷を癒やすように刻印を舐める。
「らいら……」
一磨がわずかに意識を取り戻す。
『まるで
「黙りなさいッ! 下賤なる妖怪め!」
らいの金緑色に輝く瞳が、朱顎王を睨みつけた。
「
虫を殺す神代の細布。らいは生き残るためみずからとともに比礼を焼いた。
『もったいなきことよなぁ、神虫の小娘』
朱顎王はたいしてショックも受けていないようだ。
「もったいぶってわたしを殺さなかったのが、あなたの誤算です!」
らいらは言い放ち、構えた。時間を稼ぐつもりだ。
彼女のうしろで、神虫が一磨の拘束を解こうと四苦八苦している。
「さあ、岡留先生を返してください!」
『神虫以外の武器も持たず、我と戦うつもりか?』
朱顎王がせせら笑う。
らいらは素手、裸足。体も傷だらけだ。だが構えは解かない。
「わたしも退魔士です。体も知識も、すべて武器!」
『フフ、クク……。ならば退魔士に敬意を払い、我が宝を見せようぞ』
透明な球体の中に、一磨の独鈷杵が閉じこめられていた。
「なんてこと……!」
如意宝珠を秘めた独鈷杵だ。奪われたというのか。
「うぐ……!」
ようやく、一磨の拘束がすべて解けた。
「う……ああ……アア……ガ……!」
一磨がうめきを上げる。
「一磨さん!」
「痛い……熱い……!」
一磨の全身を苦痛がさいなむ。筋肉がボコボコと脈打つ。汗がにじむ。痛みが、精神を混濁させる。体の内側から、一磨を引きずりこむ闇が噴き出す。行ってはいけない領域が鎌首をもたげ、一磨の心を睨んでいる。
「一磨さん、気をたしかに持ってください! 鬼になっちゃ駄目です!」
「ら……いら……」
らいらの声が、一磨を引き戻す。わずかに目を開け、らいらの瞳を見つめる。
『鬼性を喰らう者か。やっかいな……。これでは時間がかかってしまうではないか』
「どういうこと!?」
『貴様が呪印を吸ったせいで、我が宝は鬼となるに無駄な時を過ごさねばならぬ』
らいらの神虫としての体質が、呪印の力を弱めた。呪いは続いているが、一磨が鬼になるにはまだ時間がかかるということだ。
『地獄のごとき苦しみよ。貴様は修羅の苦痛を与えたのだ。罪深きことよなぁ、小娘!』
朱顎王は哄笑した。
らいらが青ざめる。
『我が望みは成就する! 宴は終いぞ!』
生き残った鬼が一斉に闇に消えていく。
朱顎王も岡留を抱えたまま闇に解けていく。
「ま……待ちなさい!」
朱顎王が手を突き出した。闇の中を、無数の白い針が飛ぶ。
「――!」
針はすべて神虫が受けた。一磨とらいをかばうように。
オオ~~~~……。
神虫が叫ぶ。苦痛の声だ。
「神虫!」
座りこむ神虫に、らいらがすがる。
朱顎王の手がさらに動いた。白銀の杭が放たれる。
「きゃああ!」
杭はらいらの左肩を削った。深く肉が削がれ、血があふれ出す。
「……神虫!」
かろうじてらいらは一磨とともに神虫の背に乗った。朦朧とする一磨の体をらいらが支える。
神虫は走り出した。鬼の巣から遠ざかっていく。
「く……そ……」
弱々しく一磨は腕を伸ばした。
「一磨さん、今は、退きます」
優しい声だった。ぎゅうと抱きしめられる。
一磨は意識を失った。
気がついたとき、二人は林の中の墓場にいた。
神虫の姿もない。らいらが一磨のそばでへたりこんでいた。
「らいら!」
一磨はらいらに詰め寄った。彼女の襟元を両手でつかみ、吊り上げるように引きよせる。
「なぜ、なぜ先生を助けなかった!」
怒鳴る。
岡留もまた鬼にとらえられていた。らいらも気づいていたはずだ。
「で……できませんでした」
らいらの答えは弱々しかった。
一磨はいっそう苛立つ。
「……ケンカしたからか」
自分の声ではないと錯覚するほど、低い声だった。
「ケンカしたからか!? 助けなかったのは!」
強く揺さぶりながら怒鳴った。
「違います!」
らいらは振り絞るような声で答えた。
「わたしの力じゃ、あれが……あれが精一杯だったんです……」
「…………」
「あなたを、助けて……」
らいらの瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。弱々しく嗚咽し、彼女はもう言葉を紡ぐことができなかった。
一磨は手の力を抜いた。
らいらは地面に崩れ落ちた。肩の傷から血が流れている。
「信じて、ください」
しゃくりあげながら、らいらはかろうじてそう言った。
一磨は答えなかった。彼女から顔をそらす。
(俺は……)
自分の弱さを棚に上げて、彼女を責めた。八つ当たりだ。
だが彼女は神虫だ。鬼の天敵だ。あの時、鬼の攻撃をかいくぐり、岡留も救出できたのではないか。本当にできなかったのか。
――なぜ。
(なぜだ)
なぜ鬼は宝物を求める。なぜ俺を宝物といって求める。
自己嫌悪、疑念、憎悪。おのれの心を嫌い、相棒を疑い、鬼を恨む。
――生まれたこの世界さえ呪いたかった。
「ぐ……!」
突如、胸の痛みを感じて、一磨は地面に膝をついた。
「あ、ガ……!」
「一磨さん!」
らいらが一磨にすがる。
「一磨さん、一磨さん!」
ああ、もう。呼ばないでくれ。俺を楽にしてくれ。
一磨は遠ざかる意識に、おのれをゆだねた。
「いたぞ! あそこだ!」
声がする。いくつもの光が筋となって、一磨たちを照らす。懐中電灯の光だ。
「助けて! 助けてください!」
らいらが声を張りあげる。
(ああ……助けが来たのか……)
もうどうでもいい。疲れた。
一磨は意識を失った。
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