それは誰がために #46 愛憎入り乱れり

「…アリアンさんに、そんな辛い過去があったなんて」

ノエルの話を聞いてる最中も、緊張気味に周囲の様子を気にしていたライムは小さな声で呟いた。

川に近いせいか空気が澄んでおり、か細く沈んだ声ですらよく通る。


その倉庫街に人気はない。

長年の風雨に腐食され続けたせいか、無機質な鉄製の扉や壁には錆や変色の跡が目立つ。

入口を塞ぐ不愛想なシャッターの至る所に描かれた意味不明な落書きが場の不気味さと陰気さをより強調し、端に積み重ねていたであろう資材は復元を躊躇するほどに無残に崩れ落ちている。

建設当初の原形とは程遠いこの場末な姿見はおよそ会話を楽しめるロケーションとは言い難い。

視線の先は背の高い倉庫に前方を遮られ、頼りない街明かりがいくつか視認できるだけだ。

浮浪者や不良の溜まり場になっていてもおかしくないが、ノエルたちは今夜そういう無作法な手合いと遭遇することはなかった。


一定の間隔で点在する街灯がなければ、文字通り一寸先は闇。

すでに街の賑わいが耳に入る距離でもない。

蛮勇であれ向こう見ずであれ、腕を鳴らしたイーギスの生徒でも夜間ここを単独で通過するのは憚られるだろう。

オレンジ色の光源が四人の影をぼんやりと壁に投影している。

「何かを抱えてるとは思ってたけど、あの子、自分のことはほとんど話さないから。…きっと、想像を絶する修羅場を見てきたんでしょうね」

「身を切られるような体験を何度もして、普通なら立ち上がれませんよ」


フラン、デュオの口調は苦い。

三者三様の第一声は初夏の夜風の中に溶けていく。

話終えたノエルは石造りの階段にゆっくりと腰を下した。

今夜のマーセルの空には雲一つ浮かんでいない。

午後八時も過ぎれば頭上に太陽の輝きはすでになく、煌々と光る星々の吸い込まれるような存在感にノエルはしばし目を奪われた。




過去の記憶の欠片が彼女の肉厚の唇から紡がれる。

それはまるで、雄弁な語り部が過去の逸話を流暢に振り返るかのようだった。

あるいは、吟遊詩人の手による悲しい創作であるかのように、現実感のない昔話でもあった。

褐色の素肌は怒りに支配されておらず、柑子色の双眸は激情を灯していない。

実際、あれから何年も経過している。

しかしノエルは、時の流れが彼女の闇を塵一つ残さず綺麗に洗い流した、とまでは楽観視しなかった。


「まっぴらなんだ、自分の人生を他人に壊されるのは。悲劇のヒロインのままで終わらせるつもりはないよ」

アリアンはその独白を最後に寮に姿を消した。

その言葉が何を意味するのか、過去の重みに口を挟むことができなかったのはノエルだけではない。

赤裸々に自分の身に起きた数々の傷跡を明かし、皆がその独白にただ耳を傾けていた。

それは二日前のことだった。



「アリアンさんが先輩を敵視する理由はこういうことだったんですね。それにしてもお互いここにいることは知らなかったのか…。なんていうか運命の悪戯もここまでくれば、かける言葉も見つからないな」

渋面で唸るデュオにライムは頷く。

「ジャスさんが怒りをぶつけられる相手だったのかな。彼を見た時、抑えてた感情が爆発してつい衝動的になってしまったんだとしたら、わたし分かる気もします、その気持ち」

「うん。話を聞く限りではジャスを相手にするのは筋違いだと思うけど、そんな当たり前のことはあの子もきっと分かってると思うわ。だけどどうしようもない。頭では理解してても心で納得できないことって、結構あるものだからね」


二人と異なり、アリアンと比較的付き合いが長いのがフランだ。

家庭料理研究会という同じクラブに所属し、日頃から話をする機会も多い。

「でも、血が繋がっていたとまでは流石に思いもしなかったわ。どこか訳ありな事情を持ってるのはジャスとそっくりだと思っていたけど」

ノエル達と同じ年次のフランだが、ここにいる誰よりもジャスを知っているのは今年がイーギス二年目だからだ。

誰とでも等しく付き合える彼女は気難しい兄妹二人さえも十分許容範囲であるらしい。


「…ノエル、どうしました?何か気になることでも」

「んん、や、気になるってことでもないんだけど。んー」

緊張を孕んだライムの声を受け、黙ったまま夜空を見つめていたノエルは視線を戻した。

「思わせぶりだね、いつも歯切れのいいノエルには珍しいんじゃない?」

カーディガンを羽織り直し、フランは苦笑した。

夏がすぐそこに来ているとはいえ、緯度の高いこの国の夜は少々肌寒い。



イーギスへの帰途にある四人は今から一時間前に課外活動を終えたばかりだった。

本来は二年生以上に課せられた必須カリキュラムである。

仕事内容は依頼者のオーダーに基づき、その都度行動プランが組まれるが、そのほとんどは施設警備と要人警護の二種類に集約される。

マーセルは聖シオン第二の州都と見なされてはいるが、少数の例外を除き、経済活動と人口数においては同国の他の州都を引き離し、実質的には首都アヴァンテと並び極めて重要な位置付けにある。


四方八方に鉄道網を敷く技術大国の聖シオンにおいて、大陸横断鉄道を持つマーセルは諸外国からの外国人旅行者も多く、街の魅力に取りつかれ故郷に戻らなくなった元旅行者も多い。

時の政府が積極的な移民受け入れを開始して早二十四年。

人口増がもたらす勢いは国の発展に強力な推進力を据え付ける一方で、想定通りの負の側面も同時にもたらした。


そうした水面下の危機が顕現するのを未然に防止するのが課外活動であり、近年では捜査のプロである警察にトラブルシューターの鏡鷹隊、そしてイーギスグランカレッジの三者間で請け負った仕事を配分するのが通例となっている。

イーギスにとっては社会に巣立つ前の若者たちに現実を触れさせる経験の場としては申し分ない。

座学や想定内の訓練では得られない貴重な体験は何物にも代えがたい価値があり、喉から手が出るほど欲しいのだ。


近頃街を震撼させている危機の多発を受け、課外活動の一年への導入を提案したノエルの意見は誰の反対に合うこともなく速やかに学長に承認された。

ただ、それはあくまで試験的な措置であって、今日から三日間の実地活動を経た後、導入の可否は来週開催されるシンポジウムの会期を終えた翌日に下される手筈だ。


言い出しっぺのノエルは当然として、デュオが指名されたのは消去法であったが、それは別に選別を担当したロキとメニフィスが彼の能力を疑ったわけではない。

本来なら彼の代わりにマクシミールが選ばれていたはずなのだが、多忙すぎる統士長とうしちょうが時間を捻出できなかったためだ。

先導役を任したい上級生のジャスとウリカは赴く先がすでに決定しており、こちらはこちらで外せないようだった。


両者とも能力に疑いの余地はないのだが、前者はお守り役を嫌い、後者は無難に回避されたという裏事情があり、そこまでノエルは知る由もない。

チームや連携を重視するイーギスで一年間過ごしていながら、いかんせん性格の面にいくらかの難を抱えるため、フランの回復が待たれたわけだが、教官陣の信頼も篤く頭の回転が速い彼女は事情を即座に飲み込み、一も二もなく了承した。

ライムはノエルのゴリ押しである。


これはイーギスを発つ前のフランの言葉だ。

「魔術科二年二人に剣術科一年二人。お互いに妙な対抗意識がない。全員等しく顔見知りではないけど、誰かと誰かが繋がってる。となると、この人選の意図、ロキ先輩の意図も見えてくるわね」

平時であれ戦時であれ、外出時は単独行動を極力避ける通達が出ている以上、イーギスの両科の間に横たわる不和は邪魔以外の何物でもない。

思い付きであれ何であれ、せっかくの妹の提案が白紙になるのは忍びないとロキが考えているのだとしたら、正直少し心が弾んだ。

彼女の想像通り、普段人見知りの激しいライムも素直で癖のないデュオなら目を見て話ができるようでノエルは内心安心していた。




「んー、何て言うか、あれで全部じゃないと思うんだ。多分ね」

考えを纏めるかのように思案していたノエルがふいに襲った寒さに身じろぎした。

パーカーの袖で手を覆い、きもち少し覗かせた指先でフードを被る。

男子一名がその仕草を幸せそうに眺めているが、この時ばかりは流石に誰も気づかなかった。


元々人を寄せ付けない雰囲気がアリアンにはある。

こう言っては何だが目つきが鋭く、表情にはまるで愛想がない。

何も知らない人間が彼女を見れば、褐色の美貌に目を奪われるかもしれないが、三秒後には自分から目を逸らす者も少なくないだろう。

故に付き合いも非常に限定的なようで、彼女が自分とフランを除いて親しげに会話を交わしている光景を見たことはなかった。

それはノエルの知るアリアンではあるが、幼少時の同級生はどうやら今とはあらゆる意味で正反対であったらしい。


「ごめん、あくまであたしの勘だから。ところでデュオさ、《大樹の家》って知ってる?あんたの故郷にあるんだよね?」

「ええ、そうです。戦争や事故で親を亡くした子どもたちを預かる孤児院ですね。僕がいた騎士団の副長を務めていた兄が何度か演習目的でそちら方面に遠征したことがあるみたいですが、確か若い看護婦が一人増えたのと陰のある金髪の少女がいたと言ってましたね。これって今思えば、アリアンさんのことですよね」

唐突に話題を切り替えられ、唐突に話の矛先を向けられたデュオだったが、いついかなる時もノエルへの反応は誰よりも迅速なのが彼である。


「十三歳であらゆる痕跡を消して《大樹の家》を離れたそうです。これ以上巻き込みたくないからと。行き先は誰にも告げずに」

二人に向けたデュオの説明の後、素朴な疑問をフランが口にする。

「イーギスに来るまでの間は何をしてたのかしら」

「うーん、彼女はそれは言わなかったですね。最愛の母上を亡くされた後、何をされていたのかは分かりません」

本人が語らなかった以上、その空白の数年間、どこで何をしていたのかは定かではない。

判明しているのはアリアンは世話になった《大樹の家》を離れたという事実だけだ。



そろそろイーギスに戻らないといけない。

四人に課せられた今回の任務内容はヴァレリー&ヴィッカースという名の新興出版会社の警備だったが、特に何の問題もなく無事終えることができた。

フランから先日の顛末を訊かれたのは帰途に就く矢先のことで、ここまで長話をすることになるとは思わなかったが、気心の知れた他ならぬ彼女であるならアリアンも気を悪くはしないだろう。

内容が内容だけに誰とでも共有できる話ではなかったが、イーギス外なら周囲に気を配る必要もなかった。

とはいえmこれ以上道草を食うのは流石に好ましくない。

あくまで担当教官への報告を終えるまでが今課題の任務だ。


「アリーが強くなりたい気持ちが分かった気がする」

短く息を吐き、ノエルはゆっくりと階段から腰を上げた。

三人の視線が自分に集中する。

「アリーってさ、本当まっすぐじゃん?強い人とぶつかりたいから強くなりたいって言ってたし、あたしはそれで納得してたの。けど、本当はそうじゃなかったんだよ。いや、それも本当なんだけど、もっと奥に本心があったっていうか。気も狂うくらい、色んなことがあったわけだし」

上手く言葉にできないもどかしさがあるが、それを間髪置かずに翻訳したのはライムだった。

「…つまり、生きるために強さを求めた、ということでしょうか?」


ノエルが迷わず頷いたのを受け、血色の好いフランの表情に神妙さが増す。

「なるほどね。そう考えれば納得だわ。ただ同時に危うい、気もするな。みんな知っての通り、アリーは家絡みだと突っ走るところがあるでしょ。大抵のことは傍観気味なのに、ここだけは執着心が強いのよ。その理由もようやく腑に落ちたけれど」

「そうなの。おっちょこちょいなあたしが言うのも何だけど、大丈夫かなアリー」

心配でないと言えば嘘になる。

腕組みを崩し、デュオは細い顎に指をやった。

「一人でシシリーマッツに乗り込むほど迂闊ではないと思いますが、普段冷静な人ほどって言いますしね。とにかくそれについては、もう一度彼女がどう考えてるか話を聞くしかないのかもしれませんね」


やや上から目線ながらも凛とした佇まい。

洗練されたマナーやエチケットがごく自然な形で、時折所作に現れていたのを本人は気づいていただろうか。

どれだけ意識しても、片田舎で生まれ片田舎で育ったノエルがやれば、ぎこちなさばかりが目立つだろう。

もしかすると、彼女はどこか有名な家柄の出なのかとずっと思っていた。

同級生であり、同じ剣術科であり、同じ部活に所属するイーギス生としてのアリアン=カルミア。

犯罪組織シシリー・マッツが四代目棟梁との間に産まれた妾の娘としてのアリアン=カルミア。

だが、波乱万丈にして複雑な背景を抱える彼女にとって、今やその家名は愛憎が入り乱れる過去の象徴となっているのかもしれない。



誰となく歩き出し、路地をいくつか通り過ぎた四人の前方に、三つの州都をまたぐ一級河川ヘレナラーケン川が見えてきた。

昼間は船の往来のあるこの場所も太陽が沈めば、裏寂れた雰囲気が一気に漂う。

昼は働き、夜は休む。

マーセルに生きる商人はそれがポリシーであるかのように徹底する。

いっそ心細さを覚えるくらいに静まり返っているが、ライムは倉庫街に足を踏み入れた当初から緊張気味の表情を浮かべており、もはや方向感覚がなくなってきた自分も正しい道順というものが分からなくなってきていた。


途中そんな一行にフランは苦笑気味にこんなことを聞かせてくれた。

「右に左に曲がりたくなる気持ちも分かるけど、結局まっすぐ行くのが一番早いのよ」

頼もしすぎる発言でいくらか安心を得たのか、ライムはそうだよねと力強く相槌を打っていた。

その割にノエルの横をぴったりとついて離れない様は夏の肝試しと何ら変わらない。

微笑ましい表情を浮かべるデュオの視線に気づいたノエルはフランを先導にして、複雑に入り組んだ倉庫街の川沿いをただイーギス方面に歩いていった。

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