それは誰がために #45 悪い夢なら早く醒めて

シシリー・マッツ四代目首領ファビオ=シシリーの実の娘として生を受けたアリアンは、一歳年上のジャスとは異母兄妹の関係にあたる。

アリアンの母親の名はアイシャ=カルミア。

本妻であるジャスの母親と違い、美人で気立ての良かった彼女は愛人としての立場ではあったが、離れの別宅を与えられ、衣食住全てにおいて平均的なマーセル市民よりもワンランク上の何不自由のない毎日を愛娘と一緒に過ごしていた。


肝心の本妻との関係は悪くなく、複雑な家庭環境でありながらも、むしろ実の姉妹のような仲睦まじい関係であったらしい。

母親同士の気が合えば、子ども同士も気が合うのは必然であり、ましてや父親は同じ男である。

気難しかったジャスもアイシャには心を許し、日課である厳しい訓練の合間を見つけては、護衛役の若きアクセルを伴い別宅を訪れていた。

母のアイシャが節制倹約を大切にする女性だったので、自由にできるだけの金銭的余裕を与えられてはいたものの、年端もいかない少女が勘違いしかねないような贅沢は決してしなかった。

そうした温かい庇護の下で、何の心配も不安も抱きようがない日々が明日も明後日もずっと続くと思っていたのだ。


叔父であるエデン=シシリーのあの目を見るまでは。



現首領はジャスの実父であるが、組織の舵取りは一周り以上年の離れた彼の実弟が担っていた。

壮年のビジネスマン然とした風貌を持つ男の名はエデン。

三千もの構成員を総べる実質的な権限を握り、唯一の正統な後継者であるジャスが五代目を世襲するまでの間、巨大化した組織の維持運営に努める首領代理。


今から時を遡ること二百年、炭鉱都市レッキンゲンで産声を上げた炭鉱夫たちの家族のような団結は揺るぎなき鉄の結束を生み、他勢力をねじ伏せ、飲み込み、恭順させ、シシリー・マッツは聖シオンに存在する名だたる反社会組織の頂点に君臨することになる。

だが、鏡鷹隊や警察によるマークだけではなく、この指定犯罪組織が国が規定する警戒準備体勢の最上位に位置付けられるほど危険視されるようになったのは、ジャスの父親の代からというのは正確ではない。

四代目の背後にいるエデンという男を語らずして、今日の覇権は存在しえないというのが当局も含めた共通認識である。


何かとヴェールに包まれた男とはいえ、122のグループを束ねる辣腕経営者としての顔、最恐の犯罪組織を牛耳る裏社会の帝王としての顔、その両方を目にした者はいるかもしれない。

しかし、アリアンは他の誰も知らない叔父のもう一つの素顔を知っていた。

それは、自分の前でだけ見せてくれる慈愛に溢れた表情だ。


シシリー・マッツの勢力拡大に全てを捧げるかのように昼夜を問わず働く彼には伴侶がいなかった。

だからか姪にあたるアリアンを特に実の娘のように溺愛していたという。

あり得ないほどの多忙を極める中にあっても、両手に抱えきれないほどのプレゼントを抱えてはアリアン母娘が生活する別宅を訪れ、ユーモアで二人を愉しませた。

アリアンはそんな叔父のことが父親と同じくらい好きだったし、次にいつ来てくれるのか心待ちにしてもいたのだ。


だが、ある日を境に何かが終わりを告げた。


運命の歯車が狂い始めたことを、エデンの瞳が何よりも雄弁に物語っていた。

「あの時見せた冷たい目は今でも覚えている。三白眼って言うのか、あの目には感情がなかった。とんでもなく器用な人だから、顔は笑っていたけどね」

二人を襲う身に覚えのない理不尽と悪意に満ちた迫害。

アリアンが後に述懐する救いのない日々は何の予兆もなく突然物質化したのである。


橋や建物から突き落とされそうになったことや自動車に轢かれそうになったことなど一度や二度ではない。

信じられないことに、食卓に並ぶ料理にガラスの破片が紛れ込んでいたこともあった。

外出に危険が伴うだけではなく、自宅にいても気が休まることはない。

一連の出来事がエデンの差し金であると判明したのはもう少し後になってからだが、苛烈の一途を辿る仕打ちに女一人で敢然と立ち向かえるほど悪意は甘くはなかった。


事情を飲み込めぬ幼い娘の手を引き、アイシャは長年住んでいた別宅を捨てる苦渋の決断を下す。

度重なる身の回りの異変が偶然であるはずがないと分かったところで、どうしようもなかったからだ。

組織の前で門前払いを受け、肝心の夫には取り次いでもらえない。

結婚前に築いていた全てを捨てた彼女にとって、頼れるものは誰もいなくなった。

無理からぬことだった、命の危険をすぐそこに感じてしまうのも。


だが、捨てる神あれば拾う神あり。

八方塞がりの中で母子の窮状を見かね救いの手を差し伸べたのは、関係を自ら断っていたアイシャの弟だった。


聖シオンは重婚を不適法と定め、その一切を認めていない。

それをすれば重罰が下るだけではなく、社会的地位を捨てるも同然である。

警察も下手に手出しができない犯罪組織の首領だから実現できたことであって、一般的な感覚の持ち主がおいそれと成しえることではない。


今更どの面下げて頼ることなどできようか。

家族の猛反対を振り切り、過去を捨てたのは自分である。

ただアイシャにとって予想外だったのは、実弟は何よりも姉思いだったということだ。


札付きとの結婚を望む姉の決意を快諾できるはずがない。

一人の女の幸せを望んでも、それは相手が誰であるかによる。

最終的には誰にも望まれぬ結婚を果たしたアイシャだったが、ファビオの義理の弟になったとはいえ堅気の男にとっては、本来マフィアの首領など一生顔を合わす必要のない存在である。


三十路を迎えぬ丸腰の優男はマフィアの巣窟に単身乗り込み、体にいくつもの殴打傷をこさえながらも首領代理のエデンに取り次がせることに成功した。

しかし、悲しいかな、いくら義憤に駆られているとはいえ、そこは所詮一般人でしかない。

海千山千を地で行く百戦錬磨のエデンでは相手が悪すぎた。

彼は何の収穫も得られぬまま建物から追われ、そして、悪意は見せしめに形を変えた。


デラウフェウ銀行より資金を強引に引き上げられた彼が務める会社は数日を待たずして倒産した。

そこに納得のいく説明は一切ない。

途端に働き口を失った従業員たちは彼を責めたが後の祭りであった。

百以上の傘下を束ねるエデンにすれば、一つを潰したところで痛くも痒くもない。

だが、歯向かった代償はそれだけでは終わらなかった。


それから数日後に起きた二つ目の悲劇は彼から生きる気力を根こそぎ奪い去った。

彼の子どもたちが行方不明になったからだ。

父親に似て聡明な双子の男の子二人と面識のあるアリアンは事態の深刻さに打ち震え、夜も眠れない日々を過ごした。

「やるなら徹底的にやるんだよ。仕事をするときの叔父の口癖だ。まさか自分に返ってくるとはね」


自分の家庭を壊されてなお奮い立てる人間はそうはいないだろう。

耐えがたき苦痛の連続は人の尊厳を毀損せしめる効果があるらしい。

失意に茫然とする彼の目はもはや姉と姪を映していなかった。

「おじさんが今どこで何をしているかは知らない。いや、生きてくれているかどうかもだね。でも生きてくれているなら一度でいい、会いたい。私たち母娘のせいでガライおじさんの家庭を壊してしまった。謝ってすむものじゃないけど、それでも会って、謝りたいんだ」


腹違いの兄であるジャスもまたその事件前から二人の前に姿を見せなくなった。

若きアクセルが隠遁生活を送るアイシャの元を探り当てたのは、恐怖と苦痛に憔悴しきったアリアンを胸に抱え、彼女が途方に暮れていた時だった。

「アイシャ様。詳しい事情は伏せますが、一刻も早くマーセルを離れてください。一刻の猶予もありません。今から私が言う場所に行ってください。そこならあなたたちを助けられるかもしれない」


この時の記憶は判然としていない。

なぜなら彼に示された場所に向かう道中で、過度の恐怖と衰弱によりアリアンは気を失ったからだ。




どれだけ眠ったか分からない。

うっすらと目を開ければ高い天井が見える。

天窓は淡い日の光を受け止め、数羽の小鳥が踊っていた。


汚れ一つない清潔な寝台。

耳に木霊する小鳥の囀り。

遠くに聞こえる子どもたちの声。


最初に視覚が回復し、聴覚が微かな音を拾い始める。

そして。

小さな手のひらに感じる心地良い温もり。


アリアンは誰かに手を握られているのを感じた。

規則正しい寝息を立てながら、アイシャが椅子に座ったままの格好で白いシーツに上半身を伏せている。

朦朧とする意識の中でも置かれている状況はかろうじて把握することができた。

母は眠っている間もずっと傍にいてくれたのかもしれない。


ここはどこだろう。

どれくらい眠っていたんだろう。

ここは安全な場所なのだろうか。


まだぼんやりとする頭に幾つもの疑問が浮かんだが、束の間の意識はたまちま休息という名の睡魔に取って代わられた。

次に目覚めるまでの間、どれだけの時間をベッドの上で過ごしたかは覚えていない。



故郷ではないこの地はヴェルムラント共和国だと教えられた。

喧噪とは程遠い田舎独特の風情は時間の流れも緩やかで。

都会の生活で染みついた性急な時間の流れはここにはなく。


国の南東にある海岸沿いの高台に建てられた孤児院がアリアンの新しい住所になった。

聖シオンより平均気温が五度以上低いこの地での生活に弱っていた身体が慣れるには時間を要したが、そこにいる人たちの献身のおかげで少女は久しぶりの日常というものを味わい、過ごすことができた。

何よりもう何かに怯えて暮らす必要がなく、たくさんのものを失った今でも母だけはずっと傍にいてくれる。


《大樹の家》と名付けられたその施設は身寄りのない少年少女を保護する孤児院としての機能と、無医村に存在する診療所としての機能も兼ねており、近隣に住む住民たちは連日ここを訪れ、また多くの人々に必要とされていることはすぐに分かった。

施設を運営するデュナード夫妻に私利私欲の心は毛ほどもない。

大人からは大変尊敬され、子どもからは非常に懐かれる。

表裏のない朴訥とした人柄は訳アリの母娘にも向けられ、夫妻は落ち着くまでここで暮らせばよいとさえ言う。


ほうほうの体で故郷を離れたアイシャにとって、人の善意を拒む理由はどこにも存在しなかったのだろう。

今でもアリアンの記憶には見習い看護婦として働き始めた母親の面影が色濃く残っている。

診療所を訪れる人たちや孤児院の子どもたちに好かれるのはすぐで、常に笑顔を絶やさない彼女の魅力はたちまちにしてたくさんの人を惹きつけた。

働き者で人気者の母親は孤児院を明るくし、デュナード夫妻はそれをいたく喜び、少女はその変化の様子をずっと近くで眺めていた。


過去に起きた悲しみを忘れることはできない。

だが、少しずつでも確実に、それは四季の移ろいとともに。

アリアンの表情は和らいでいき、母親似の笑顔を取り戻していった。



それは、この地で三回目の冬を迎えた時だった。

アイシャは娘に向き合い、ファビオに会いに行くと告げた。

双眸を限界まで見開き、信じがたい目でいつになく神妙な面持ちの母親を見つめる。

アリアンはそれを聞いて分かったと即答できるほど愚かな子どもではないし、快く送りだしてあげられるほど物分かりが良い子どもでもなかった。


何言ってるの母様?

それ本気で言っているの?


追われた故郷に自ら舞い戻って何をするのだ。

それも父親に会うなど正気の沙汰ではない。

むざむざ殺されに行くようなものだ。


そんなこと考えないで、ここで一緒に暮らしていこうよ。


もしかすると、あの時のガライ叔父さんもちょうどこんな心境だったのだろうか。

母親の言葉に納得いこうがいくまいが、最早そんな次元の話ではない。

「お母さんを信じて。別にあなたのお父さんや叔父さんと喧嘩しにいくわけじゃないから、アリーが心配するようなことにはならないわ。必ず戻ってくるから、ね、お母さんを信じて待っていて」

アイシャはそれなら私もついていくと言ってきかない我が娘を強く抱きしめた。


「私のアリー、一生のお願いよ」

悲しげな表情のデュナード夫妻に娘を頼みますと言い残し、降りやまない淡雪に少し先の視界さえ遮られる中、彼女は聖シオン行きの客船に乗った。




「それから一年は戻ってこなかった。毎日が死ぬ思いだったよ。周りの皆は私を励まそうと必死だったけど。そんなある日、部屋の中が寒いと思って、入口を確認しにいったんだ。レーンって名前の二歳下の男の子がいるんだけど、その子が戸締りを忘れることが多くてね。今でも戸締りが気になるのは多分そいつのせいだね。実際、デュナードのお父さんとお母さんも訪問医療で二日前から出てたから、戻ってきたのかなって思った。で、みんなで迎えに行ったのさ。でも、そこにいたのは、いや入口で倒れていたのは私の母様だった」


その日は例年以上の大雪だった。

男なら誰もが振り向くほどの美貌を持つアイシャはひどくやつれており、彼女の中で時計の針が一気に回ったかのようだった。

長旅の疲労や氷点下を下回る極寒のせいではない。

驚愕、焦燥、そして絶句。


戻った彼女に何かが起きたのは明白だった。

生気は失われ、大病を患ったかのような弱り果てた姿は直視に耐えない。

それはかけるべき言葉を失わせるのに十分すぎた。



アリアンの心に憎悪が巣食ったのはその翌年のことだった。

誰の目にも明らかな精神の衰弱は母の健康を食い荒らし、デュナード夫妻の懸命の看護の甲斐もなく、年が明けてすぐにアイシャは静かに息を引き取った。


悔いの残る微笑と頬を伝う一筋の涙。

そして、今際の際に呟かれた最期の言葉。


お母さんね、お父さんに嫌われちゃったみたい。

残念。こんなことなら。

ごめんねアリー、お母さんは先に逝かせてもらうわ。

あなたはお母さんの分まで、胸を張って誇り高く生きて。

さようなら、アリー。





その時、これまで純真無垢だった少女の胸にドス黒い何かが染みだした。

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