仮初の玉座 #37 nine sec
イーギスグランカレッジ剣術科一年のノエルが感じた驚きは一つではなかった。
突如とした降って湧いた様々な疑問が頭の中を駆け巡る。
衝撃のあまり脳内処理に時間を要したが、なんとか目の前の光景を咀嚼し終え、開いたままの口を塞ぐまでは成功した。
あんなにも大きな女は未だかつて見たことがない。
その件には触れないという非常に理知的かつ空気を読んだ選択肢がある中で、ノリと勢いで構成されているノエルの反射神経がそんなものを選べるわけもなく、差し当たり最も目を釘付けにさせられた衝撃的光景への印象がうっかり口から滑り出る。
「で、でっかい?!」
「ノエル、それは禁句よ!」
「ふぇ?」
顔に手を当てて、やっちゃったというフランの声に思わず裏声が出た。
「ご、ごめんなさい、ウリカはもう駄目です」
「…二年になっても世話の焼けるところは同じままなのウリカは?」
三分も持たなかったウリカが背後の木にもたれかかり、この世に存在する全ての不幸を背負い込んだような表情でさめざめと泣きはじめる。
鼻水も垂れているがノエルはそこには突っ込まないことにした。
どうやら自分の失言が原因のようだが、分かったところで気軽に口を差しはさめる雰囲気でもない。
よく分からないが男たちから睨まれており、どうやら自分は折角の緊迫感をぶち壊してしまった張本人でもあるようだ。
「ジャス。それよりこれはどういう状況なの?」
眉尻を下げ呆れて見せたフランが男たちの出方を注視しているジャスの背中に疑問を投げかける。
ほとんど物質化しそうな殺意を漲らせた彼の威圧感を前に黒服の男たちもおいそれと飛び込めないようで、鉄パイプや角材を手に一歩を踏み出せずにいた。
ジャスはそれには直接答えず、状況に追いつけていない背後のノエルに首を巡らせる。口角を小さく上げた表情には冷ややかな笑みが微かに刻まれていた。
「報復だとよお前への」
「はい?報復?あたしが何したって」
フランはジャスの短い言葉にも何か察しがついたようだが、いきなり矛先を向けられたノエルはそうではない。
即座に意味を飲み込めず、おうむ返しに聞き返す。
嫌そうな顔で反応するがフードを目深にかぶった青年は特に気を悪くした様子もなく小さく鼻を鳴らした。
実際のところ、あいにく報復される覚えはない。
何しろマーセルに来て一か月も経っていないし、目立つような行為は極力控えているので、誰かに恨みを買うような真似もしていないはずだ。
納得のいかない顔で黒服の男たちの顔を順に見比べていくと、姿勢の悪いある男の顔でノエルの視線は止まった。
ノエルは目は悪くないしむしろ良い方だが、人覚えが決定的に良くないので名前と顔が一致しないことなどざらにある。
イーギスの人間としてそれはマズいのだが、必死に頑張っても一向に記憶が定着しないので、とっくの昔にノエルはすでに匙を投げている。
相手が悪党なら尚更だ。
「んー?」
「てめえ、あの時の女だな!」
「どこかで見たような…」
すぐに気づいた男と違い、ノエルは顎に手を当て思案顔だ。
「忘れたとはいわせねえぞ!ロフタスパークにいただろ俺たちが!」
「いたっけ?」
「てめえに色々されただろ、思い出せよ!」
「色々?色々って?」
「…くそ、ボコされただろ!」
すぐに思い出さない女に痺れを切らしたからか、完全に忘れ去られていることに憤慨したからか、決死の表情の男だが声にはどことなく悲哀がある。
自分で自尊心を傷つけてしまったからかもしれない。
「あんたよく見ればあの時の猫背!」
「人を見た目で呼ぶんじゃねえ!」
見たままを素直に口にするノエルに男は声を荒げる。
特徴的な風貌をした男を中心にして周りの男たちも口々に騒ぎ始めた。
罵声や野次の中には下品な言葉も混ざっており、フランは露骨に顔を顰めるがそれで鳴り止むことはない。
「え、だってあんたの名前知らないんだからそうするしかないじゃん」
あれだけの猫背に薄汚れた長髪だ。
完璧に思い出したノエルだが、いかんせん肝心の名前を知らないのだから、確かにそう呼ぶしかない。
別に仲良しでもないのでどう呼ぼうが基本的に自由である。
だが、男の方はやはりそれでは納得できなかったようだ。
「はっ、冥土の土産に教えてやってもいいぜ」
「いや、いい。興味ないもん」
ノエルのつれない返事に男は顔を真っ赤に染め、唇を怒りに震わせた。
ただ言われてみれば確かに取り巻きの男たちの何人かも、記憶の残滓にかろうじて掠るか掠らないか程度に残ってはいた。
「でも、あんたたち警察に引き渡されたはずよね」
「一度はなあ、へははは!」
「なにえばってんのよ。それに一度はってどういう意味よ」
「お前に教えてやる義理はねえよ」
ノエルの問いを猫背の男が切って捨てる。
さっきまでお通夜のように沈んでいたくせに、怒ったり嘆きだしたりと忙しい男の口ぶりに少し引っかかるものを覚えるが、嫌気が強すぎるせいでいかんせん問いただす気にならない。
隣にいるフラン同様に露骨に顔を歪めたノエルは面倒くさそうに口を開いた。
「…もしかしてさ、もしかしなくても、仕返しってやつ?」
「おい、コラ。そのガキみたいな言葉のチョイスはやめろ!報復とか復讐といえ!だが、ようやく見つけたぜ、ここで会ったが百年目ってな!」
いきり立つ拍子に油脂でギラつく男の長髪がバサッと揺れた。
高価そうな服を着ている割に不潔な奴だとは思っていたが、それは望まぬ再会を果たした今でも変わらないらしい。
「さっきから聞いてれば、下っぱの悪党に限ってそういう陳腐なセリフを吐くんだよ。独創性の欠片もない」
言い直しを迫る猫背の男にアリアンが手厳しい評価を下す。
「だよねー。ほんとしつこいったら、何しに来たのよ」
「知れたことよ。だから、てめえを殺しにきたんだよ!ついでにあの金髪のチビの女もな」
「ていうかあれって自業自得でしょうが」
ノエルにすれば逆恨みも同然である。
好き勝手暴れて一般人に迷惑と被害をもたらした馬鹿どもにイーギスを名乗る人間としてお灸をすえたに過ぎない。
途中可愛らしくも凶暴な乱入者が現れる想定外もあったが、あの件はノエルの中では完全に終わったものだった。
だが、殺気だった雰囲気を隠そうともしない様子を見るとどうやら相手の男たちはそうではないらしく、煩わしいったらない。
「やめとけ、言っても無駄だ。それで大人しくなるか」
相変わらずの冷えた声の主にノエルが眉根を寄せる。
顔を顰めさせる奴はここにもいる。
背中を向けたままなので表情は見えないが、これはある意味不幸中の幸いだ。
顔を見れば不意打ちでも無い感情に青い瞳が揺れている。
「なんでここにあんたもいんのよ?」
「実地の帰りだ」
四日前からライムもそれに励んでいるのは知っていた。
要請があるならどこにでも赴かされ、遠方であれば一週間は帰ってこないこともあるイーギスの外部研修だが、幸い金髪の友人に与えられた指示はマーセル市内で完結するもので、依頼内容も一日置きに違うようだった。
何か吹っ切れたような晴れた顔で研修に向かった童顔の友人が脳裏をよぎる。
「そうなんだ」
以前のように因縁をつけられに来たわけでも待ち伏せされたわけでもないのが分かり、いささか拍子抜けした気分でふと首を巡らせると、傍らに立つ褐色肌の友人がジャスを睨んでいた。
彼女がジャスを殴りつけたのはつい昨日の話だ。
滾るような目には殺気こそないものの、形容しがたい感情に青い瞳が揺れている。
「あんた、また私の前に出てくるとはいい度胸じゃないか」
「…後にしろ」
流石にこの状況下で手を出すほど愚かではないらしく、決して振り向かないジャスは何かを押し殺している風でもある。
予想通り、二人の間には第三者には窺い知れない何か複雑な事情が存在するのかもしれなかった。
「よし、あたしも」
「待ってノエル、丸腰なのにどうするのよ」
飛び出そうとしたノエルの腕をフランが掴む。
「馬鹿野郎が。銃練受けてないやつが丸腰で前に出るな」
「う、ご、ごめん。いや、あんたに指図される覚えはないんですけど!」
最もだが頭ごなしに言われ、ノエルは憤った。
以前ロフタスパークで決着をつけられたのは男たちの不意を付けたからだ。
エルフの乱入など様々な要因が重なり、ルゼルのボーカルを務めるヤクトの負傷を除けばさして大きな被害を出すこともなく事態を解決できたが、前回のように素手で格闘を挑めるほど今回は相手も油断していないはずで、喉の奥から唸り声が漏れた。
見れば鉄パイプや金属バットを所持しているようだが、そんなものではノエルも後れは取らない。
ただそこは裏だけでなく表でも成り上がったシシリー・マッツと言うべきか、高額とされる銃を全員が携帯しているようではあった。
確かに銃撃演習も受けていないので、ろくな防具も身に着けず迂闊に飛び込めば無傷ではいられないだろう。
あの時は自分がやらなければという危機感と使命感に後押しされたが、ジャスに言われたことは釈然としないが言われてみれば今は自分から動くきっかけは見当たらなかった。
何よりも目の前にいるジャスが自分一人でカタをつけそうな雰囲気を出しているし、なにせここは自分たちのホームグラウンド、場所は人気のない裏庭だが天下のイーギスである。
わざわざイーギスまで暴れに来たようだが、よくよく考えてみれば無事で済まないのはむしろ男たちの方なのだ。
だから特に不利だとも感じなかった。
いち早くこの場に駆けつけられたのは部室が銃声がした場所と近いからだが、しばらくすれば異変に気付いた教官たちも到着するはずだろう。
そうなればこの状況は一瞬で終わる。
「即席だがバディシステムを組め」
仏頂面のノエルにジャスの命令口調が炸裂する。
「…それもまだ受けてない」
苦々しい小声にジャスが聞こえるように苛立たしげに舌打ちした。
イーギスの基本陣形であるバディシステムの訓練は来週からとマルコ教官に聞かされていたが、中身を知らない以上はどうしようもない。
アリアンは黙って事態を静観している。
「使えねえやつだな。じゃあせめて邪魔するな、すっこんでろ」
「あ、あんたはどうなのよ!」
「俺は特別だからいいんだ」
「何よそれ!」
「ぐちゃぐちゃ言う前に自分の心配でもしてろ、阿呆が」
「な、何を偉そうにー!」
ジャスの言い分も冷静に考えれば支離滅裂だが、頭に血が上ったノエルはそれには気づかない。
ただこの問答を明らかに面倒臭がっている様子が見て取れたのがとても気に食わなかった。
大抵のことは我慢できるが、初対面時の印象の悪さから、この男に言われたことはどれだけ正しくても素直になれないのがノエルである。
繰り広げられる二人のやり取りにフランは脱力気味に肩を落とした。
「ノエルもジャスも今そんなことしてる場合じゃないって」
フランはジャスと所属科こそ違えど去年同じ一年間を過ごしている。
彼の尖った性格を知っているとはいえ、正論かもしれないがいちいち人の神経を逆なでにする物言いのジャスも、それにいちいち過敏に反応し噛みつきまくるエプロン姿のノエルも、フランからすればどっちもどっちであった。
「シシリー・マッツでしょあれ。どうするのよ」
冷静な彼女の指摘にジャスは鼻を鳴らす。
「…フラン。ウリカが使い物にならねえ。ヘルプ頼んだ」
無視か!と叫ぶノエルの叫びに耳を貸さず、ジャスが下していた刀を構え直す。
「分かったけど、こっちには寄こさないでよ?」
「無論だ」
直後発砲された銃弾はジャスの一薙ぎで地面に深くめり込んだ。
「二人とも、防衛を張るわ。じっとしててね」
ノエルとアリアンの肩に手をかけたフランが小声で何かを口走る。
その一字一句をノエルは聞き取れなかったが、自分とアリアンのフルネームを間に挟むフランの呟きを聞き逃さなかった。
二人が見守る中、目を狭めたフランが片手で複雑な印を刻み始めるとノエルの眼前に乳液色の膜が浮いて現れた。
クラゲのような見た目にノエルが驚く。
「見た目はちょっと気持ち悪いけど、これは
「流石だな。防衛魔術を使えるようになるのは三年からと聞いたが」
膜が自分の胸に染み込んでいく様にアリアンは感嘆した。
「ありがと。でも言っておくけど、完璧じゃないよ。あくまで攻撃を通りにくくするだけ。打撃を受ければ痛むし、弾丸を受ければ血も出るわ。深手や致命傷にならないようにしただけ。だから、せいぜい気休め程度と思ってね」
ふーと大きな息を吐いたフランは頼もしい笑みを見せた後、何か言いたげなノエルの目線に気づいた。
「どうかした?」
「ん、フランってあいつと何となく息合ってるなと思ってさ」
「あー、まあね。去年バディを組むことが多かったからかな」
ターバンバンドを巻いた同級生のウインクは自信に満ち溢れ、イーギスで過ごした去年一年間の確かな積み上げをノエルに感じさせた。
魔法を唱えるフランを背後に、ジャスは下段に構えていた刀の切っ先を男たちにまっすぐに向ける。
「待たせたな。わざわざイーギスまで見合わない襲撃にきたお前らの無謀を讃えてやりたいが、すぐに檻の中に逆戻りになるならその必要もねえか」
その言葉が終わるや否や、銃は通じないと思ったのか、鉄パイプを片手に短髪の男が突進してきた。
ジャスは半身で待ち構える。
その直線的な動きには何の工夫もなかった。
余裕で対峙したジャスが刀で受け流し、体勢が崩れてがら空きになったみぞおちに向けて右手の鉄甲を打ち上げる。
弾丸すら弾く一撃に男の足は地面から離れた。
宙を舞った男は顔を苦痛に染めつつもジャスの肩に手を掛けようとしたが、刀を持った左手に邪魔される。
結局短髪の男はジャスに一度も触ることなく地面を舐めることになった。
男の着地と同時にジャスが鉄甲を眉間に突き刺したからだ。
割れた眉間から血しぶきが舞い、地面を赤く濡らす。
間髪置かず、ジャスの背後をもう一人の鉄パイプが襲った。
唸りを上げたその一撃はこの戦いを見るもの全員に隙を突いたと思わせ、事実ノエルも息を呑んだ。
いくら戦闘慣れしているジャスとて、あれを無防備な後頭部に食らえばタダでは済まないのは誰の目にも明らかだった。
だが膝を地面についたジャスは難なくその凶暴な一撃を頭上でやり過ごす。最初からこうなるのを織り込んだかのような滑らかな動きだった。
男の膝に直角に蹴りを叩き込む。
何かがひしゃげる鈍い音に男の絶叫が重なった。
瞬きをすれば絶対に見逃していただろう。
おかしな角度に折れ曲がった膝が足の振りの速さに相当の威力が込められていた何よりの証拠だ。
「悪いがお前ら程度に俺の死角は見えねえよ」
一瞬の間に二人を破壊され、残った男たちがにわかに浮足立つ。
抜刀してはいるが、ジャスはまだ一度もそれを振るっていない。
ジャスがフードを脱ぐ。
目つきの鋭い浅黒い顔が露わになった。
憎たらしいまでの涼しげな顔にどこか嬉々とした感情の高ぶりが垣間見える。
ノエルは一つ年上のこの青年が見せた圧倒的な瞬殺劇に内心身震いを抑えずにはいられなかった。
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