仮初の玉座 #31 女たちの憂鬱な午後
(これは相当怒ってるな)
ノエルの後をついて廊下を歩くデュオの歩幅はノエルに釣られてかなり大きくならざるをえない。
ほぼ駆け足に近い歩き方でスタスタと歩くノエルの横顔を恐る恐る覗いてみると恐ろしいまでの機嫌の悪さがそこにはあった。
統士長の役割を担うマクシミールの卒のない謝罪のおかげでジェフレン教官から退席を迫られることもなく、講義を最後まで聴講することが出来たのはいいものの、忘れるな借り一だぞと釘を刺されただけではなく、講義終了後にあーだのこーだのここぞとばかりにダメだしの連射を浴びせられたため、デュオはこうして顔を真っ赤にして憤慨しているノエルを見る羽目になっている。
振り上げた拳を下す場所が見つからず、肩で風を千切りながら歩くノエルの背中は完全に話しかけられるのを拒んでおり、デュオが自分の後ろをついてきているのは知っているだろうが、二人の間に会話はなかった。
デュオとしては寝る間を惜しんででもノエルとの時間を有意義に過ごしたいのだが、なかなかどうして今の怒り心頭のノエルに迂闊に声を掛けようものなら、何かとんでもないものが跳ね返ってきそうで怖い。
怒りが静まるまで自分は今何もしないほうがいいかもしれない。
内心で嘆息し顔を上げたデュオは先ほどから気にかかっていたある事に考えを切り替えた。
他の一年生達が明らかにノエルを避けているのだ。
その場に居合わせたわけではないので詳細は伝聞に頼る形だが、ノエルがイーギスに編入した初日にちょっとした騒ぎがあったらしい。
デュオが野次馬気分で駆け付けた時にはすでに事態は収束した後だったのだが、聞く話によると、どうも上級生数人と揉めたようで、ノエルにそのことを聞いた時にはあたしが巻き込まれたんだよという返答が返ってきた。
もちろんデュオは彼女の言葉を全面的に信用している。
そしてその事件から数日後、もはや日常的な光景になりつつある魔術科と武芸科の毎度の騒動を遠巻きに眺めている間に起きたのが学生食堂での一件だ。
休日だったので外出していたデュオは後から事情を教えられたのだが、ノエルは猛者揃いの教官たちからも目を付けられている二年生の男子生徒とまたしても対峙したようなのだ。
男の名はジャス=シシリー。
彼のことは詳しく知らないが、イーギスに入学して二か月余りを過ごしたデュオはマーセルに根を張る最凶最大のマフィア、シシリー・マッツの噂は一般教養の講義を通じてすでに知っている。
そしてそこの跡目であることも。
一応学生の身であるとはいえ、普通の学生ではないイーギス生-自分のような戦闘科なら言うに待たず-ならマフィアと接触することもあり得るだろうが、同級生ならいざ知らず、要注意人物として警戒されている相手と揉め事を起こせば、確かにそれは目立つ行為になるのも無理はないことだと思われた。
これらの出来事が記憶がかすれていく前に立て続けに起きたことで、学内の雰囲気がノエルを震源地にして微妙に変化してきているのはまず間違いなかった。
これまで魔術科と武芸科の衝突を見ない日はなく、デュオは魔術だの武芸だのそうした差別意識とは程遠い国外出身者なので毎日の争いとは一歩引いたところで騒動を傍観していたが、その既存の流れの中にまた別の新しい流れが混ざりつつあるのだ。
だからこそ、巻き込まれたんだよと言うノエルの言葉を信じる者として、なかば不可抗力で騒動の渦中に放り込まれた彼女は気の毒としか言いようがない。
容姿云々ではなく、実際色々な意味で彼女は目立つとデュオ自身思うところがあるが、それでも自分に容赦なく降り注がれる無遠慮な視線には絶対に気付いているはずだし、もしそうならきっと本意ではないだろう。
無関係の自分ですら怪訝に思うのに、本人であるノエルの心中は察して余りある。
この現象は別に今に始まったことではないが、ノエルを意識しだすようになってからというもの第三者の自分にもハッキリと感じられるので、おそらく二つの騒動の後に生まれたのだろう。講義中でもノエルを指さす生徒たちはいた。
(このことノエルさんはどう思ってるんだろう)
考えがまとまらないまま、デュオはなお脇目も振らず黙したまま足を動かしているノエルの後を追う。
途中敵意にも似た険悪な視線をノエルに飛ばしている三人組の女子生徒たちを素通りし、二人は廊下の角を曲がった。
無視して何様のつもり!という聞こえよがしな甲高い声が背中にぶつけられるが、耳に届いていないのかそれとも無視しているのか本人が振り向く様子は一切ない。
どこに向かっているのかも分からないままそのまま進んでいき、そろそろ何かしら声を掛けようかと思った時、白いパーカーを目深に被った男がデュオの視線の先に現れた。
背は自分よりも幾分か低いように見えるが、筋肉に引き締まった体つきは服の上からでも見て取れる。
顔がほとんど隠れているので、最初デュオには彼が誰だか分からなかった。だが同学年の生徒ではないのは間違いない。
戦技訓練を通じて何人か心当たりのある同級生の顔が思い浮かんだが、平時でもここまで圧を感じさせる雰囲気を纏った人間はいなかった。
(…すごい、プレッシャーだ)
視線の先にいる男の表情は伺えなかったが、その視線は自分の前を行く女性を捉えていた。
「おい」
「…」
聞こえているのかいないのか、ノエルは無言で男の脇を過ぎ去ろうとしている。
「おい、無視すんじゃねえ。お前の耳は飾りか?」
微量の苛立ちを孕んだその言い草は明らかにノエルに向けて放たれていた。
足を止め、振り向く前に大げさな溜息を入れたノエルは踵を返し細身の男に向き直る。
「あんた、あたしにはノエル=フロリアンってお母さんにつけてもらった名前があんの。おいなんて呼ばないでちょうだい」
「お前だって俺のことを名前で呼ばねえだろう」
「だからあたしのことを名前で呼ばないって訳?あーやだ。そういうのガキみたい」
ノエルが肩を竦めると男は小馬鹿にするような仕草で薄く笑った。
異国の学校に席を置いて以来およそ二ヵ月あまりを過ごした学生生活の中で、デュオはどこかで彼を見かけたようなそうでもないような感覚に陥るが、それでも本当に彼の素性は分からないでいた。
ただ二つ明確になった。
どうやらノエルの方は男と顔見知りのようで、何故かマクシミールの時以上に苛立っているということだ。
表情を隠した白いパーカー。
その下の陰影が肌の色さえも識別を困難にしているが、この特徴的な風貌といい愛想の全てを削ぎ落としたかのような物言いといい、ノエルにとっては忘れもしない。
忘れもしないが同時に思い出したくもなかったジャス=シシリーが読みづらい表情を浮かべ、壁に背を預け自分を凝視していた。
マクシミールからのダメ出しは服装にまで及び、心がささくれ立っているところにこの男の登場である。
唐突に脳裏に蘇ったのは先日食堂で起きたあの騒動だ。
オリバーの介入で事なきを得たが、あらぬ因縁をつけられた挙句、無関係なとばっちりにまで巻き込まれ、怒りに任せていたとはいえ自分の攻撃が一発も当たらなかった。
自分よりも格上。
ここで相手の力を見誤るほどノエルは楽観的でも能天気でもない。
やつよりも自分が何かに秀でているのなら挑み方を工夫できるが、認めたくないが力の差は誤魔化せない。
剛毅果断なオリバーをして、十回勝負しても勝てるのは一回だけという。
いくらなんでも流石にその勝算は謙遜しすぎじゃないかと思わないでもないが、仮に不意を突けてもその後は続かないだろうなと思うし、やはり勝てる自信もなかった。
傲岸不遜な態度と言動は留まるところを知らず、ライムを必要以上に怯えさえ、自分に向かってきた男子生徒を一切手加減せずことごとく地面に這わせ、オリバー相手に最終的に折れたようだが殺気を隠そうともしないこの男のことがノエルは大嫌いだ。
マフィアの跡目だろうが何だろうが、どうしてこんなやつがイーギスにいるんだと声高に苦情を申し立てたい。
ソフィアは自分を退学させたがっていたが、むしろこのクールぶった問題児を問答無用で退学させた方がいいんじゃないのか。
「ジャスさんにも色々あるのかもしれませんね」
都市公園のロフタスパークに行く前にライムがそう言っていたのを思い出す。
だとしても、この顔を見れば忘れかけていた怒りがふつふつと湧きあがってくるのは止められない。
どうしてこんなところにいるのか知らないが、自分を呼ばわる声には気付いていた。
ただ名前を呼ばない辺りがいかにもわざとらしく、何もなければ堂々と無視を決め込むつもりだったのだが、自分の意図に反して無理やり振り向かせられたことが癪に障る。
あれだけのことをされて許されるなら本当は殴り飛ばしたいくらいなのだ。これでも忍耐力を総動員して必死に我慢しているのである。
「なんとか言ったらどう?」
ポケットに両手を突っ込んだまま、口元を薄く歪めているところが憎たらしいったらない。
様子を楽しんでいる感すらある。
だが言い返してこないことにノエルが勝ち誇った笑みを浮かべようとした時、嘲笑が混じった低い声が放たれた。
「俺がガキならお前はさしずめ幼児だな」
やっぱり殴ろう。
この場で、今すぐに。
あたしのために。
考える前に脊髄反射で体が動いた。
しかし大きく振りかぶったノエルの右をジャスは事も無げに交わす。
そして余裕を見せ付けるかのように肩を竦めた。
「進歩がないな、そういう瞬間湯沸し気みたいなところは」
「ふん、おあいにくさま。この拳が誰かさんを殴りたくってしょうがないの。どうせ当らないなら思いっきりぶん殴らせろ!」
「ノエルさん?!」
背後にデュオの声が聞こえたが、悪いがいつものように返事している場合ではない。
今はコイツをぶっ飛ばすほうが遥かに重要だ。
右に左と打ち出すノエルの本気を少しの体重移動だけで綺麗にいなされ、それはさながら経験豊富な王者に挑むプロ志願のアマチュアボクサーのようだった。
その褐色の表情はどこまでも涼しい。
以前女性は殴らないだの偉そうにポリシーをのたまっていたが、そんなことはノエルからすればどうでもよいことだ。
殴られたら殴り返すだけだし、ここまでコケにされて黙っていられるわけがないのが彼女の性分である。
とはいえ、繰り出す拳は空を切るばかりで当る気配がまるでない。
ジャスは奥の手である頭突きが二度も通用するような間抜けではないだろう。
あんなのはたまたまだ。
いっそ奥襟を掴んで投げ飛ばしてやろうか。
いや、その前に自分の身体が宙を舞いそうだ。
どうすればこいつをギャフンと言わせられるのか。
打つだけでも疲労が溜まるのにここまで当たらないと苛立ちを通り越してなんかもう笑えてくる。だがもちろんそんな感情は億尾にも出さない。
「大人しく殴られろー!一発でいいから!」
「阿呆が、無茶言うな」
ジャスが言い捨てたその時、ノエルは突然背後から肩を掴まれた。
「ノエル、待ちな。わたしに代われ」
その硬質な声にノエルは振り向く。
言葉遣いこそ素っ気なく男らしいが、その声音には鋭さの中にも女性らしい艶があった。
「え、アリー?」
ジャスの白いフードとは対照的に真逆の色のフードを被っているが、それが講義前までフランと一緒に外れの調理室で語らっていたアリアンであることはすぐに分かった。
感情を押し殺したような表情のアリアンが半ばノエルを押しのけるようにして数歩前に出る。
(わたしに代われ?え、それってどういう?)
ノエルは戸惑うが答えが返ってくるわけでもなく。
褐色肌の同級生の金髪が目の前を舞った。
勢いでフードがはだけ、鋭い目を浮かべたアリアンの素顔が露になるが、咄嗟すぎて表情の全てを読み取ることは出来なかった。
言うなれば長年探し求めていた不倶戴天の獲物をようやく見つけ、湧き上がる憎悪を必死に押し殺し平静に努めようとする表情に通ずるものがあった。
要は尋常ではなかったのである。
「ど、どうしたのよ急に?」
ノエルは当惑する。
ただその当惑が衝撃に取って変わられたのは一瞬だった。
「ええ?!」
女の左ストレートがジャスを捉えたのである。
と、いうよりも正確に言うとジャスが最後まで動かなかったのだ。
直情的なところが行動に出がちな自分と違い、しなやかな肉食動物のような彼女の動きには一切の無駄がなかった。
限界まで引き絞られた弦から解き放たれた矢のような左拳がノエルの目にかろうじて残像を残し、男の頬を派手に打ち抜く。
吹き飛ばされることこそなかったが、ジャスが膝を付く光景にノエルは衝撃を隠せない。見ればデュオも口を開けて呆然としていた。
「ノ、ノエルさん、彼女は?」
「アリアンって言うの。同級生、あたしたちの。といってもあたしも今日初めて会ったんだけど」
簡潔に説明するが、視線はアリアンに注がれたままだ。
度重なる連打も掠ることさえなかったのに、いくら不意を付かれたとはいえ、ここまで綺麗な一発が見事に決まるとは。
目が覚めるような一撃とはまさにこういうのを言うのだろう。
自分を見つめる視線に気付いたらしく、アリアンが衝撃と当惑をない混ぜにした複雑な表情を浮かべるノエルに振り返る。
「このおぼっちゃんはあたしに殴られても文句は言えないはずだよ」
そして、足元で血のついた唇を拭うジャスを冷めた目つきでアリアンが睥睨した。
「立ちなよ、ジャス=シシリー。あたしが今までどれだけの苦労をしてきたか教えてやる」
アリアンのつきたてた中指を見るのは今日で二回目だ。
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