禁忌と規律 #25 兄と妹と
出口のない迷路を彷徨うかのような不安と焦燥にかけるべき言葉を失い、茫然自失に苛まれていた。
だが、突然のノックの音は消沈したノエルの顔を持ち上げる効果があったようだ。
その拍子にライムと視線が交わる。
正直今の彼女に正面から向き合うことは自分には無理だと思われた。
「どうぞ」
ノエルの声に微量の緊張が混じる。
とはいえこんな時間に誰だろうか。
医務室の責任者であるトニーオならわざわざノックをしたりしないはずだ。
訪問者の見当もつかなかったが、顔を覗かせたのは果たして今朝会ったオリバーその人だった。
藁にも縋る思いだったノエルにすればこのタイミングでの登場は誰であれ心強い。
長身の男が頭を少し屈めながら入室してくる。
「よう。元気してるか?」
場違いなまでに明るい調子で手を挙げる男にノエルは腰を浮かせかける。
「…オリバーさん」
「あ、そのままでいいぞ。座ってろ」
「どうしてここに?」
オリバーを見つめる。
帽子を被っていないだけで出で立ちは今朝とほぼ変わらない。
日に焼けた黄金色の肌は筋肉に盛り上がり、彫りの深い目に宿る光には一片の曇りもない。
それはノエルが知る精悍な男だった。
「いや、そりゃお見舞いくらい来るだろう」
オリバーはノエルに大仰に肩を竦めた後、顔をベッドの上にいるライムに向けた。
彼女も驚いたのか、焦点の定まらない色違いの瞳で男を見つめている。
しかし当のオリバーには驚いた様子もない。
いつものように冗談を口にすることもなく、しかし意味ありげな笑みを口元に刻む。
「まあ、用事はもう一つあるんだ。お二人さん、入っていいぞ」
扉の外で誰かを待たせていたらしく太い腕で入室を促した。
容態を見に来たトニーオ先生だろうか。オリバーの指示で動くのも変な話だが。
だが、ノエルは遠慮気味に顔を覗かせた男の顔を見た時、今度ばかりは流石に目を剥いた。
「え!?」
全く想像だにしていなかった二人の男女だったが、彼らが誰であるかをノエルは数時間前に知っていたのだ。
現れたのは、マイクを片手に誰よりも輝きを放ち、観衆を熱狂の渦に巻き込み、そして不本意ながら失意の結果を迎えることになった端正な顔立ちの青年だった。
彼の後に、小柄な女性も続いて現れる。
「え、え、ルゼル、さん?」
予期せぬ来訪にノエルは驚きと戸惑いを隠せない。
オリバーは顎鬚に手をやる。
「この男前とおねえちゃんが三十分ほど前に業務課にいてな。まあ、事情を聞けばな、どうやらお前らのことを言っているらしくてよ。ほんなら、一緒に来るかってことで連れ立ってきたわけだ」
そこまで耳にして、思わずノエルはライムに振り向いた。
彼女はすでに両手で目を覆っていた。
ライムの信頼が篤いオリバーがリバウンドのことを知っていたとしても不思議ではないが、招き入れたりして大丈夫なのだろうか。
考えるより先に反射的に口が動いた。
「だからって、民間人は禁止なんじゃ。ましてや医務室だよここ」
「そこはそれ。おれへの信用ってやつだ。業務課にいたトニーオの爺さんには話をつけてるよ」
オリバーはしれっと言い放つ。
相変わらず強引だが今それを言っても仕方がない。
青年が一歩前に出た。
「ご無理を言ってすみません。改めて、ルゼルのヤクト=ノランです」
頬の大きいガーゼが痛々しい。
羽交い絞めにされた状態で殴られたのだ。
頬は腫れているはずだが、声には張りがあり、それ以外は特に問題なさそうだった。
「あ、いえ。あたしはノエルです。どうも、です」
まさかの登場にノエルが言い淀む。
ヤクトは柔和な笑みを見せた後、背後で隠れるようにノエルを見上げている女に声をかけた。
「ほらシューティ」
シューティと呼ばれた女性がおずおずと前に出てくる。
「こっちはシューティ=ノラン。おれの三つ下の妹です。少々人見知りでして」
シューティがぎこちなく頭を下げる。
兄がすぐ側にいるのを意識しているようだった。
大勢の観客の前で堂々と、そして嬉々とベースを弾いていたのをノエルは覚えている。
よく見ればそっくりだった。
三つ下ならヤクトと同年代のノエルより若く、年齢は十五、六だろう。
「幼い頃、列車事故で両親が亡くなって、ショックが大きくそれ以来口が利けないんです」
「それは、…本当にお気の毒でした」
自分の考えや思いを口にできない人生は想像もつかない。
彼女は目が見えない耳が聞こえないのと同種の辛さを何年も味わい、そしてこれから先もそのレールの上を歩くことを余儀なくされているのだ。
このような不幸を味わったことがない自分は健康にそして五体満足で生きてこられた。
ライムの時といい今といい、突きつけられる世の不条理にノエルの舌は激しく乾いた。
オリバーは目を瞑ったまま壁にもたれかかっている。
ヤクトは申し訳なさそうに首を振った。
「いえ、ありがとうございます。本当はすぐにでも来たかったんですが、あれから色々あって来るのが遅れてしまいました」
「でも、あなたたちがどうしてここに?」
疑問顔のノエルにヤクトは真剣な面持ちになる。
「決まってます。命を救ってくれた恩人にお礼を伝えにきたんですよ」
「え、お礼?」
「助けてくれて、ありがとうございました!」
意味を咀嚼しきれていないノエルを他所に、ヤクトは深く頭を下げた。
それにならって、シューティも思いっきり頭を下げる。
「いや、当たり前のことをしただけですよ」
「たく、下手糞な謙遜だな」
茶々を入れるオリバーにノエルは舌を見せる。
長いお辞儀の後、顔を上げたヤクトの表情はどこか誇らしげだった。
「でも、そのおかげでおれたちは無事です。また音楽を続けることもできます。メンバーが二人脱退しましたけど、ルゼルがなくなったわけじゃない。おれには妹がいる」
ヤクトの手がシューティの肩にかかる。
ライムの肩が微動したのが目に入った。
あの後ルゼルがどうなったのかをノエルは知らない。
ライムが心配で他のことは完全に忘れていた。
演奏時は確か四人編成だった。
ボーカルのヤクトとベースのシューティを除き、他に二人いたと思う。
だが、ここにはいない。
それが実は辞めたからだと分かれば、当事者の一人だったノエルとしては歯がゆさを禁じ得ない。
色んな偶然が重なった結果に過ぎないにしても、今日ロフタスパークに居合わせなければ、こんな結末は避けられたかもしれないのだ。
だが、ノエルはそこには触れなかった。
それは幾つもある結果論の一つにすぎない。
何よりこれはもうバンド内の問題だ。
「おれだけだったらこいつのことを守ることはできなかった。おれたちには両親がいないのでおれが妹と生活を守らなくちゃいけない。だから本当に、お二人のおかげなんです。ほら、シューティ。いつまでも後ろにいないで隣においで」
「引っ込み思案なところは誰かさんにそっくりだな」
オリバーは大声厳禁の医務室で笑い声をあげる。
それがライムのことを差しているのは明らかだった。
「オリバーさん、その音量だと隣の病室にも響くよ」
「おっと、いけねえ」
慌てた様子で口元を覆うわざとらしさに一同は微笑した。
やや弛緩した雰囲気の中で、今度はノエルから話しかける。
「ライブも良かったですよ。ノリノリで楽しかったです。でも、シューティちゃんって、演奏してる時とは別人みたいなんだね」
ノエルはシューティに白い歯を見せると彼女は頬を赤くした。
分かりやすいくらいの赤面具合に苦笑する。
一心不乱に小柄な体でベースをかき鳴らしていたあの時と今では別人のようだ。
あながちオリバーの指摘も間違いではなかった。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです。な、シューティ」
シューティが上目遣いでノエルを見ながらコクンと頷く。徐々に慣れてきたらしい。
「いい歳になってもおにいちゃん子のようだな」
「オリバーさん黙って」
「シューティ、この人たちのおかげで俺たちはまた生きられたんだ。このご恩はいつか返さないとな」
「…?気にしなくていいですよ、そういうの」
唇を引き絞り、シューティは顔を左右に振る。
そしてもう一度頭を下げた。
たとえ話すことはできなくても、意思表示や感情表現の仕方は明瞭でなにより素直だった。
やおらヤクトの視線がベッドに向く。
青年の視線の先に誰がいるのかは確認するまでもない。
彼の反応を受けて、しばしの間誰も口を開かなかった。
ただもう気まずくはなかった。
ライムと二人きりの時に感じていた手詰まり感や閉塞感はない。
これもひとえに三人のおかげだった。
誰かがいることが心強い。
そう思えるのもノエルにとっては数年ぶりの感触だった。
ふいにカーテンが大きく揺れる。
小雨だった空はいつしか大降りの雨空に変わっていた。
ベッドシーツが濡れないようノエルは壁に移動し、音を立てずに窓を閉める。
戻る際に目を覆ったまま動かないライムが視界に入った。
残念ながらまだ発すべき言葉は見つかっていない。
綺麗な金髪を持つ先輩は顔を覆って泣いているように見えた。
ヤクトが再度視線をノエルに戻す。
「あの良かったら、お名前を教えてもらえませんか?」
「あたし?ノエル=フロリアンです」
「カレッジコード005803のノエルさんですよね。…こちらの方は?」
あの殺伐とした中でよく覚えていたものだ。
ノエルは最初に名乗っていた。
だからこれはライムの名前を聞くためにあえて先に尋ねられただけだとすぐに察しが付いた。
「…」
一言も発することなく、ライムは相変わらず目を覆ったままだが話は聞いているようだった。
好きなルゼルを前にして本当なら興奮したいはずなのだ。
だがライムの場合、異形の目がそれを許さないのだろう。
個人的な感情を懸命に押し殺しているのは間違いなかった。
「おれたちを救ってくれた恩人の名前も知らずに帰ることはできません」
ヤクトは食い下がる。
「どうしても、ダメでしょうか?」
根負けしたのか、とうとうライムは反応した。
「ライム、…ヴァルハラです」
「ありがとうございます。ライムさん。では失礼を承知で言わせてください」
消え入りそうな声だったが青年はそれをしっかりと聞き取ったようだ。
「門外漢のおれには魔法とかリバウンドとか詳しいことは分からない。けど、あなたにはこの学校を辞めてもらいたくありません」
「え?!」
ノエルがぎょっとする。
立て続けに驚いてばかりだ。
「すみません、少々立ち聞きしてしまいました。無礼を許してください。そのつもりはなかったのですが」
「言ったろ。三十分前だと。ここに来るのに五分もかからん。そこからどうしていたかと言うと、トニーオのじいさんに事情を説明して、扉の前にびったりと張り付いてしばらく盗聴していたというわけだ」
真顔で言い放つオリバーにノエルが狼狽える。
「と、盗聴って」
全く気配に気が付かなかった。
自分もかなり気が動転していたし、相手がオリバーなら当然かもしれないが。
「ライムさん。手を下してくれませんか。おれは気にしないし、はやし立てるやつじゃあない」
ノエルがライムの動向を見守る。
腕組みをしたオリバーは再び目を閉じ壁に寄りかかった。
オリバーとヤクトたちの登場以来、あれから自分はライムに向けて一言も発していない。
彼らに任せるしかなかったのだ。
ノエルの中で気まずい空気は一掃されたが、根本的な何かが変化したわけではない。
イーギスを去るというライムの結論自体は彼らが訪問してくる前と何ら変わってはいないのだ。
ライム自身も口を開いたのは名前を名乗った一回だけ。
こんな対面を望んではいなかっただろう。
自分はライムほどルゼルに入れ込んでいるわけではないが、彼女は違う。
だからこそこのタイミングで彼らが訪れたことはライムにとっては衝撃以外の何者でもなかったはずだ。
そして今は目を合わせることすら自分から拒否している。
ヤクトがそれを望んでもライムはそれを望まないだろうと思った。
「…ごめんなさい」
聞き取れないような小さな声をノエルは拾った。
そして病室は再びしんと静まり返る。
「すみません、出すぎた真似をしてしまって。手を振りかえしてもらったファンの素顔をもう一度拝見できればと思ったのですが」
ヤクトの何気ない言葉にライムが肩を震わせた。
「ん、どうした?」
傍らのシューティがヤクトの袖を引っ張っている。
すると彼女は何か書き物をするような仕草をとった。
「あ、そうか。急いで来たからな、置いてきたんだな」
こくんと頷くシューティの頭にぽんと手を置いたヤクトがノエルに向き直る。
「すみません、何か書く物はあるでしょうか?」
「筆談、か」
オリバーが口元に深い笑みを刻む。
「ええ、口が利けないので。手話もできるんですが流石に天下のイーギスでもそこまでは教えていないでしょう?」
編入初日にカリキュラムに目を通してみたノエルだが、少なくとも自分が在籍する武芸科に手話の授業はなかった。
苦笑気味のオリバーを見るに、おそらく他の科でもないのだろう。
ベッドサイドに置いていたメモ用紙とペンをシューティに手渡す。
少女はどことなく顔が上気していた。
目が合うとすぐに顔を俯ける分かりやすい仕草に思わずノエルの頬が緩む。
人の目を見るのが苦手なのだ。
ライムにそっくりなのは自信なさげな雰囲気だけではなかった。
「できた、シューティ?」
猛烈な勢いでペンを走らせていたシューティが紙をヤクトに手渡す。
それに軽く視線を落としたヤクトはサイドテーブルに用紙とペンを置いた。
「なんて書かれてあるの?」
「バカ、そういうのは見なくていいんだ。お前もなかなかだな」
興味津々な様子で覗き込もうとするノエルにオリバーが呆れ顔で釘を刺す。
「む」
内心はふくれっつらだが物分りの良い顔で受け流した。
「長々とすみませんでした。ノエルさん、ライムさん。それじゃこれで俺たちは失礼します。今日のお礼はいつか必ずさせてください。オリバーさん、案内してもらってありがとうございました」
「おう、じゃまたな。雨がすげえ。気を付けて帰れよ」
男同士で握手を交わす。
今なんとなく思ったが二人は初対面ではないのかもしれない。
ノエルが手を振ると、目に笑みを浮かべたシューティが小さな手を振り替えしてきた。
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