禁忌と規律 #24 鏡花水月

予期しないものへの反応は誰でもおおむね似てしまうのかもしれない。

声に詰まる。

それは何通りかある表現の内の一つだった。

室内に流れ込む風がライムの金髪を揺らす。

「…なっ」

思わず声帯が震えた。


自分を見つめているのは、瞳孔が極端に狭まった色違いの瞳だった。


瞬きを忘れ、視線は釘付けになる。

ヒトに非ざる目。

ノエルは息を呑み、ゆっくりと瞼を閉じた。

ただの見間違いだろう。

絶対、そうに違いない。

再度目を開けば、グリーンの目を持つ友人がそこにいるはずだ。

数秒後、ノエルは我が目を疑うことになる。

自分の網膜が写しだす女の目は瞬きする前と何一つ変わっていなかった。

ふいに脳裏をもたげた疑問の尖端がちくりと胸を刺す。

イーギスを辞める?

混乱を覚えた頭ではその言葉の意味をすぐに飲み込むことはできなかった。



「え、ちょっと待ってライム何言っ」

「これは、リバウンドの代償なんです」

数秒後驚きから解き放たれたノエルが椅子から立ち上がる。

ただし言葉がうまく舌に乗らなかった。

ベッドの横で戸惑うノエルをしり目にライムが落ち着き払った調子で返す。

「まずこれを見てください。わたしの目はオッドアイ。極稀に生まれつきこういう虹彩を持った人がいますが、わたしの場合は後天的なものです。でもそれだけなら問題ありません。むしろ問題はこっちです」


左右の瞳の色が違う人間がいることはノエルも知っている。

自分の周りにはいなかったが何かの文献で目にしたことがあった。

開いた口が塞がらないとはまさしくこのことを指すのだと思った。

だが、冷静に自分自身を見つめている自分もいる。

それでもやはり見間違いであればと強く願ったが、現実かどうかは頬をつねるまでもなかった。


ノエルが見下ろすライムの瞳は猫や狐に見られるような縦長の瞳孔をしている。

青と黄のコントラストは番いのようだった。

「わたしの場合、リバウンドは目に現れました。いつなるか分からないんです。もちろんこんな目でも視力はありますから、ノエルの顔だってちゃんと分かります。太い眉の下の目は透き通るような蒼い色をしていて二重まぶた。それからアッシュブラウンのショートカット。行動的で、情熱的で、自信に満ちたボーイッシュな女性。これが今日一日で分かったわたしの目に映るノエルです。…ふふ、でも、嫌ですよねこんな目は誰だって」

ライムが笑顔を無理に作っているのが分かる。


だがあいにく、ノエルはすぐに返す言葉を持ち合わせていなかった。

「…でも、これが辞めようと考えた原因ではありません」

心情を読み取ったかのような台詞にノエルは息を呑む。

「じゃ、じゃあなんで?どうして?!」

自分が激しく取り乱しているのは自覚している。

だがそれを止められない。

脳は落ち着きを要求するが肝心の心がそれを受け入れるのを拒んでいた。


「禁忌を犯した代償が自分に返ってくるだけなら構いません。でも、ノエルも目にしたじゃないですか。あれはヒポセシアではありませんよ。より上位の痺痛魔法でディステシアと呼ばれるものです」

あの時の情景が脳裏でつい今しがた起きた出来事のように再現される。

猫背の男がその場でのたうち回る様はさながら激痛に苦しむ大蛇のようだった。

血を吐いたわけでも手足がおかしな方向に折れ曲がってしまったわけでもない。

ヒポセシアではああはならない。

それは体感した経験を持つノエルが断言できる。

警察の連行時には周りの男たちの手を貸りざるを得なかったほどだ。


「つまり、制御できないんです。わたしもヒポセシアを発現させるために詠唱に入りました。ディステシアの存在を知ってはいても、今のわたしに扱える魔法ではありません。でも実際に出たのはディステシア…。おそらく、あの男の人は今も苦しみの中にいると思います」

魔法への抵抗力があれば威力を減殺できるものの、同じシシリー・マッツでもあの黒服の男たちは見るからに素人同然のチンピラだった。

真正面からノーガードで最大出力を浴びたのだ。

ライムの危惧通りだとすると、警察による取り調べはあれから数時間が経った今でも遅々として進んでいないだろう。


上半身を起こしていることに疲労を感じたのか、ライムは大き目の枕を背中と壁の間に挟んだ。

そして感触を確かめるように、ゆっくりと上半身を背後に倒していく。

「ふぅ…自分が意図した魔法とは違う魔法が現れる。リスクと考えれば、これもリバウンドかもしれません。リバウンドの発生原因は未だ解明されていないから、なぜこんなことが起きてしまうのかは、わたしにも全く分からないんですよ」


ノエルはなんて声を掛ければいいのか分からない。

想定を超えすぎる余り、状況を整理するだけで精いっぱいだった。

聞き手不在の独白は続く。

「こんなこと通常は考えられない。導火フレイマであれ、解毒トキシアであれ、固有のコードと術式があるのに、そうならないなんて。どうして…」


ノエルの心はざわめきを抑えられない。

ようやく口から飛び出した言葉は今の心理状態そのものだった。

「でもっ、リバウンドを抑えればこんなことには!」

「もちろんです。でもリバウンドを食い止めるのは難しいことなんですよ。…ノエル、わたしは長年魔法に触れていて確信したことが一つあるんですよ。それは何かというと、わたしの魔法は誰よりもリバウンドが起きやすく、そして誰よりも暴れやすい、ということです」

ロキの私室で交わした会話が思い出される。


リバウンドを抑えるのは並大抵ではなく、途方もないセンスと経験が要求されるということ。

学外での使用を禁じているのは、リバウンドの制御が自分の手に余れば何が起きてもおかしくないからだ。

魔法がそのまま術者本人に跳ね返る例が一番多く報告されているが、大火傷に壊死、骨折に神経痛などと反発の結果は一定ではない。


ましてや見た目を変容させてしまうリバウンドなど聞いたことがなかった。

「自分が危ない目に合う覚悟はできています。仮にもわたしだってイーギスの一人ですから。でも、わたしがこれから魔法を使う度に同じようなことが起きてしまう可能性や、他の誰かを危険に晒してしまう可能性があるとしたら、とてもじゃないですが、わたしは魔術師でいられる覚悟を持てません」

そう言い切ったライムは窓の外に目をやる。

達観とも諦観とも付かぬ表情が沈む横顔から伺えた。


遠くで雨の音が聞こえ、室内に吹き込む風は雨の匂いを運んでくる。

「リバウンドの発生率が高い人間と一緒に行動したいと思うでしょうか?次はどんなリバウンドが現れるかも分からないのに?普通は嫌ですよ。今日だって、無関係の市民の方たちだけでなく、ノエルも傷つけてしまう可能性もあった。魔術師を志すものにとって致命的、そうに決まってますよこんなの…」

ライムはもはや泣き笑いに近い表情でノエルを見つめる。

もはやカラ元気さえも取り繕うことができなくなっているのは明らかだった。

「分かっていただけましたか?だからわたしはイーギスを辞めるんです」


魔法の才に恵まれなかったノエル。

魔法の才に恵まれたライム。

しかし、恵まれてもこれでは…。

守る側が一転して傷つける側に。

そんな悲劇とも言うべき才能に何て声を掛ければいいのか。

変わり果てたライムの風貌が目に焼き付く。

目の前の病衣姿の女は猫のような目を伏せた。


正直リバウンドを甘く見ていた。


自分たちは何のためにイーギスにいるのか。

誰かに守ってもらうためにイーギスにいるのか?

違う。

守るためだ。

だから強くあらねばいけない。

そのために日々厳しい訓練を積んでいる。

剣術科は剣を、

槍術科は槍を、

魔術科は魔法を。

一般科と呼ばれる歴史科も算術科も倫理科も同じだ。

戦闘に特化せずとも貢献できることは無数にある。

魔術科ばかりが目立ちがちだが根底の精神と理念は変わらない。


ノエルは口にしなかった。

イーギスの外で魔法を使わなければいいのでは?

イーギスの中なら熟練の魔術師がいるのだから。

不確かなリバウンドへの対処もきっとできるに違いない。


けれど。

もし自分がライムだとして、そんなことを言われたらどんな気持ちになるだろう。

それは二流、三流と同意だ。

口に出していいはずがない。

誰かに面倒を見てもらわなければ何もできない魔術師を誰が頼りにできるだろう。

浅薄な同情ほどタチの悪いものはないと、ノエルはこの時はじめて知った。


何かが試されているような気がした。

だが、それが何なのかはノエルには分からない。


何か言わなくては。


焦りばかりが募る。

「ロキ姉に相談してみようよ!ロキ姉なら何かわかるかもしれないっ」

魔術の才子と呼ばれてきたロキなら何かしてくれるのではないかという期待。

聖シオン指折りの魔術学校の側面を持つイーギスにおいて、数々の実績を残してきた彼女ならライムの苦悩を和らげる奇跡を起こせるのではないか。

真っ先に思い浮かんだのは幼い頃から一緒に過ごしてきた姉の顔だった。

だが、ライムは力なく首を振る。


「ロキ先輩はこのことを知ってます。真っ先に相談に行きましたから。ミロ先輩にも」

「二人は何て?!」

そして、思いのほかライムの返答は早かった。

「原因が分からない以上、バディを組ませることはできない、と」

「…そんなっ」

「お二人には全て話しています。当然この目のことも」

ライムの細いため息が頭に響く。

外部活動時のユニットは基本的にバディ制を取る。ゆえに少数の例外事例を除き、単独行動は許されない。


とりわけ魔術科がそうだった。

まず魔法を使うには相手を視界に入れるところから始まる。近づかねばせっかくの効果が届かないためだ。

だが、肉弾戦を念頭に日々厳しい訓練を積む武芸科と違い、彼ら彼女らは自衛戦や接近戦に長けていない。


さらに詠唱中は無防備になるため一撃が致命傷になる。

この決定的な短所を補うべく、近年は魔術科でも直接戦闘の訓練がカリキュラムに組まれているが、一年間のハードワークを乗り越えた上級生ならともかく、一年生は良くて一般市民より動ける程度に過ぎない。

訓練に費やした時間の差は現場の動きに如実に表れる。

それが生死を左右するのだ。


出会ってまだたったの一日だ。

ノエルにとってはイーギスで初めてできた友人なのだ。

これで、もう終わり…?

自分は彼女についてまだほとんど知らない。

これからの時間の中で彼女との距離をもっと詰めていけると思っていた。


口を開いても肝心の言葉が出てこない。

何も出来なくなったノエルを見たライムは手にしたままのカップをサイドテーブルに置いた。

自分の手の中にも同じものがあることに気づく。

中身はまだほとんど減っていない。

芳しい匂いを放っていた熱い珈琲も今ではもうすっかり冷めてしまっていた。

「変えられるかもしれないと思ったから転籍したんです。一年間歴史科にいましたが、魔術科の講義や実技を眺めているうちに、あらためてレベルの高さに驚きましたよ。一度は諦めていたけど、最後にもう一回だけやってみようって思えたから」

この瞬間だけはライムの顔に力強さが戻ったように見えた。


「でも結果はご覧の通り。自分の中で今日、区切りもつきました」

「区切り…?」

思いもよらない単語にノエルは戸惑いがちに反応する。

「軽蔑されても仕方がないんですが、実は最初からあの場にいたんです」

その言葉を受けて、ノエルの脳裏で再びあの時の光景が蘇る。


ざわめく観衆。

響き渡る罵声と怒声。

立ち込める険悪な雰囲気。


「近い場所にいたので、すぐに気が付きました。ノエルに伝えようと思って探していたんですが、見つけられなくて。この時点でもうパニックです。そうこうしてるうちにヤクトさんが殴られ、ノエルが現れた。そしてあの子も…。でもわたしは怖くて前に出られなかった。ノエルに加勢しなくちゃと思っても、足がすくんで、結局最後に帳尻合わせをするように見当外れの魔法を使っただけで」

ライムは俯く。

そして自虐的な笑みが微かに口元を結ぶ。


「ふふ、笑っちゃいますよね。わたしはね、ノエル。たとえ魔術が使えなくても、剣が持てなくても、イーギスにいる者として示さなければいけないものがあると思ってます。わたしがこれを言うのも変ですけど、それはああいう場で勇気を出せるかどうか、要は気持ちの強さだと思うんです。そう、あの時のノエルのように」

「あたしは、ただいつも通りしただけで…」


ライムの言いたいことがなんとなく分かってきた。

ただただ当たり障りのない返答しかできない自分にいら立ちを覚える。

が、それでなんとかなるわけでもなかった。

「それですよ。だってそれがノエルの強さじゃないですか。でもわたしはイーギスに必要なものを何一つ持ていない。誰が見てもやっぱり使い道がないですよ。そんな臆病なわたしがここにいていいわけがないでしょう?」

「でもっ。これから変われるかもしれないじゃん!」

「そうですね。そうかもしれない。でも、ごめんなさいノエル、わたしはもう自信を持てないんです」

ノエルから血の気が失われる。

最後通告のように宣言するライムの目に涙が光った。


その時ノックの音がした。

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