禁忌と規律 #22 ブラッド
リズムを付けた小気味良いノックの音にノエルが姉の顔を見る。
こんな夜に誰だろうか。
しかし心当たりがあるのか、顔をしかめたロキは見るからに重たい足取りで部屋の入口に向かい扉を開けた。
「メニフィス、おかしな叩き方しないでちょうだい。何か用?」
「理由がなきゃ来ちゃだめなの?あなたも学長に呼び出しうけてるから、それを伝えにわざわざ来てやったと言うのにね」
「そんなの内線を使えばいいじゃない。労力の無駄でしょ」
「冷たい言い草。無駄を否定するなんて。人生に余裕を持てないなんて寂しい人ね」
「あらそうなの、誤解してごめんなさい。てっきりどうでもいい自慢話をまた聞かされるのかと」
「あらあ、冷たい友人を持つと悲しい。それと古い友人に向かって言う言葉とも思えないわあ。ホントは顔なんて見たくないのに」
「気が合うわね。でも、それはお互い様ってものよ」
妙齢の女二人による怒涛の軽口の応酬にノエルが口を挟む隙間は一ミリもない。
ロキが自室への入室許可を出す前に華麗な侵入を果たしたその女性はソファに座っているノエルの存在に気付いた。
「あら、フロリアン?ごめんなさい、気がつかなくって。どうしたの、こんな夜更けに?」
夜更けと言ってもまだ八時前だが。
「あ、こんばんわ、ヴェラッティ教官。ちょっとロキ姉に聞きたいことがあって」
「ロキ姉?あ、そっか。ハンナの言ってた幼馴染ってあなたのことだったんだ」
三日月形の瞳が微笑を湛える。
ノエルは立ち上がって一礼した。
「姉がお世話になっています」
「ノエル、あんたがいちいちそんなこと言わなくていいから」
ロキが露骨に顔を曇らせる。
「よしてよ、実際お世話されてるじゃない。フロリアンの言う通りよ。礼儀正しい良い子だよねえ。ほら、こっちにおいで」
「ノエルに触らないで。よく言うわ。まあ、そこに座んなさいよ。珈琲くらいなら恵んであげてもいいわ」
「あ、砂糖もお願い」
うん、この二人はきっと犬猿の仲というやつだ。
お互い牽制しあっているのが物凄く分かる。
だが、そのいきなり対決ムードは何だ。
ノエルは上目遣いにこっそりと二人を盗み見た。
「なるほどお、そういうことがあったんだ」
「珈琲を飲み終わったらとっとと帰ってね」
「言われなくても帰ってあげるわよ。でも、聞いたノエル。この憎たらしい言い方。昔とちっとも変わんない」
「あんたにだけは言われたくないわね」
メニフィス=ヴェラッティは魔術科の教官だが、武芸科の学生に向けて【基礎魔術概論Ⅰ・Ⅱ】を教えている。
受け持ちは一年生だが、途中入学のノエルはまだ彼女の授業を二度しか受講していなかった。
だが、目の前の教官はすでに自分の顔と名前を記憶済みらしい。
決して少ないとは言えない武芸科だけに少々の驚きを伴ってそのことをメニフィスに告げると、
「え?だってあなた目立つじゃない」
という答えを真顔で返された。
それはいったいどういう意味でだ?
授業内容が理解しやすく好評で学生たちの受けはいい。
特に男子学生などは絶対に彼女のコマだけは休まないというまことしやかな噂がイーギスにはあるのだが、彼女の美貌を見れば確かに頷けた。
肩にかかる栗色の髪は適度な空気感を持って女性らしい丸みをアピールし、大きな瞳は優しげな藍色を湛え、舌たらずな甘い言葉遣いに男連中は前のめりだ。
もっともそれに嫌らしさを感じないのは、けれんみのない彼女の人格と持って生まれた清潔感のおかげだろう。
姉のロキも十二分に美人だがこの教官も決して引けを取らない。
羨むほどの小顔に長い手足と大人の色気、そんなスタイル抜群のスーパーレディ二人を前に同性のノエルはなんだか居心地が悪くなってきた。
「どうしたの、ノエル?」
「あ、いえ。あの、昔って?」
「わたしたちはここの同じ七十二期生なの。同じ魔術科。女子寮は隣の部屋。カレッジコードは一つ違いで、好きになった男も同じ」
「与太話する女に出す珈琲はないわ。今すぐ出てってちょうだい」
珈琲を差し出す手を止め、ロキが微笑を浮かべるメニフィスに険のある視線を飛ばす。
両者の間に火花が散っているように見えるのは気のせいだろうか。
「冗談よ冗談。ほらすぐにムキになっちゃって大人げない」
「猫かぶりの面をずる剥けに引っぺがされたいの?一言多いのよあんたは」
「おお、怖い怖い」
大げさに怯えてみせるメニフィスにロキが苛立たしげな溜息を漏らす。
埒が明かないのでノエルは勇気を振り絞った。
「…あのー、ロキ姉と教官が同級生なのは分かりましたけど、あたしがいるのをお忘れなく」
「あらあらごめんね、ノエル。みっともない真似しちゃって」
メニフィスはコロコロと笑った。
「バディを組む理由で中断したわね。まだ時間があるようだし、話を再開するわよ」
学長に呼ばれ、二人は八時半頃にはこの部屋を出ないといけないらしい。
学生たちは休日でも大人たちは別のようだ。
ましてやロキはヱテンナ学長の専属秘書なので、時間の過ごし方が自分とは根本的に違うのだろう。
どんな用事か尋ねたくなったが、すでに自分のためにわざわざ時間を割いてくれている多忙な姉にさらに違う質問を重ねるのは流石に憚られた。
ロキがはらりと眉に垂れた一房の髪を耳に掛ける
「魔術科一人に武芸科二人の組み合わせが基本形ね。結論から言うと、バディで動く理由は魔法で先手を取りたいからよ。一旦魔法の詠唱に入れば発現までに時間がかかるのはノエルも知ってるわね。その間、魔術師は無防備になるわ。それを守るための武芸科よ。一枚では足りないから二枚。一対二がイーギスでの基本ユニットよ」
「極論姿を見られた時点で魔術師はリスクなの。だからその不安要素を少しでも消すために、ここ数年で魔術科にも肉弾戦の授業を組み込みはじめているけれどね」
言いながら次々と角砂糖を黒い液体の中に落としていくメニフィスの白い指にノエルの視線は釘付けだ。
あと何個溶かし込むつもりだろうか。
「…メニフィス、あんたは授業で散々話をしているでしょう?今はわたしがノエルに魔法の話をしているの。口を挟まないで」
「わたしは補足してるだけよ。でも、ハンナの説明の仕方が十分だったら、わたしもこうしてしゃしゃり出る真似、しないですむんだけどなあ」
メニフィスが涼しい顔で受け流す。
「やっぱりもう帰って。あんたと話す言葉はないわ」
「やあねえ、ムキになって子供みたい。じゃあね、ノエル。来週の授業でまた会いましょう」
腰を浮かせた美女がロキには一瞥もくれず、ノエルに手を振り扉の向こうに消える。
後には口のつけられていない珈琲だけが所在なげにポツンと残された。
感情を見せた姉を見るのは久しぶりだった。
「えーと、ロキ姉?」
ノエルはおそるおそるロキの顔色を窺う。
青筋でも浮いて見えるのではないかと思ったが、不安に反して、彼女の横顔は普段と変わらなかった。
「悪いわね、みっともないとこ見せちゃって。さ、続けるわよ」
最初から何事もなかったように再開する。
一時的な感情の発露も瞬時になかったことにできる思考の切り替えはノエルには到底できない芸当だ。
「一人で戦えばよかった今までと違って、これからはより実践的な戦い方を身に着ける必要があるわ。あんたが慣れてる一対一なんてそうそうないし、自分たちにとって都合のいい現場だってまずないわ。相手が複数で来ることを常に想定し、自分の身を守るだけでなく、守るべき対象を守り、速やかに対象の制圧にかかる」
「それをより確実にするための魔術師ってこと?さっきの一対二の一のほう」
「そうよ。都合の悪い状況や後手からのスタートがほとんどなの。それをひっくり返すための戦力が魔法を使える人材ってわけね」
それはすでに今日の午後の一件で身に染みた。
魔法を使えるライムがいなかったらと思うとゾッとする。のんきに珈琲など飲んでいられる場合ではなかっただろう。
「ノエル。魔法も武器も扱う人間次第でもたらされる結果が違ってくるわ。肝に銘じておきなさい」
「うん、分かったよ」
「もう一回基礎から理解しとこうか。ノエルが私に説明してみなさい。分かるようにね」
脚を組んだロキがカップを口元に運ぶ。
「えーと。まず魔法を使うことが許されているのは学内においてのみ。学校の外は禁止。だよね?」
まずはあちこちにちらばった記憶の断片を集め直す作業からだ。
「別に間違ってないわよ。じゃあなぜ学外で使用を認められないの?理由を教えて、全部」
ロキの問いかけは早い。
「うん。まず一個目、
「誰が?」
「あたしたち学生が」
「主語がないわよ。じゃあなぜ学生には対処できないの?」
「まだ力がないから。慣れてないから?」
「アバウトね。もう少し詳しい説明がほしいわ」
自分から話をするのではなく相手に答えさせるやり方を好むロキのスタイルには慣れている。
これをするには自分の予習が大前提になるのだが、教官が前で話をする講義形式よりもノエルにはこちらのほうがあり難い。
実際じっと聞いているだけだとノエルはすぐに眠くなる。
地元では退屈な授業はほとんど寝てやり過ごしていたほどだ。
自分は飲み込みが決して早いほうではないし、頭の回転も速くない。
だからこそ、学習ペースを自分で管理しやすいこちらの方法のほうが物事を頭に定着させやすかった。
これは幼かったノエルにどのようにすれば理解を促せるか試行錯誤した後のロキの指導方法だが、もちろんノエルがそれを知る由もない。
「えーと。リバウンドを押さえ込む制御知識と錬度がないからだよね。なんかあった時対処できないし」
「まあそんなとこね。今は難しいことは後回しでいいから、おおまかなとこから掴んでいけばいいわ。リバウンドはそうそう起きるものではないけど、起きたときの対処の仕方一つでは取り返しの付かないことにもなるの。特に学びたての一年生にはまだ早い。だから、監視の目が届かない学外での使用は当然認められないわけよ」
「うーん。じゃあそれってさ、いつになったら対処できるようになるの」
「当人の努力とセンス次第よ。時期は無関係。早い子は早いし。ただ、少なくとも最初からうまく対処できた学生は見たことがないわ。ここはやっぱり経験がモノを言う世界だからね。魔術科の教官にイーギス出が多いのはそうした理由からきてるわ」
「それって、つまりリバウンドの押さえ込み方をちゃんと知ってるからってこと?」
「そうよ」
「言い換えれば、イーギスの魔術を習うならイーギス卒業生の教官が一番ってことかな?」
明らかに集中力が増しているノエルにロキは目を丸くし小さく笑った。
「あんたってホント時々理解が早くなるわね。まあ、そこまで厳密ではないけれど、例えるなら、自動車が故障したら製造元に修理を依頼したほうがいいのは分かる?それと同じ理屈よ」
「ごめん、あたし自動車乗ったことがないからちょっとわかんない」
「車でも汽車でも同じことよ。隣国にも魔術はある。けど、わたしには細かいことまで分からないわ。なぜならそれはイーギスの魔法ではないから」
頭の中で自動車を汽車に置き換えたら話はすんなり理解できたが、言われてみれば確かにそうだ。
他国が羨む聖シオンの鉄道技術だが、何も国土の全てに張り巡らされているわけではない。
ノエルの地元には線路が二本敷かれているが、平均的な市民にとっての移動手段はもっぱら馬か徒歩である。
自動車などは一部の金持ちの家にしかない。それが一般的なのだ。
ノエルがマーセルに来て驚いたことはたくさんある。
その内の一つが自動車の多さだ。
大通りに出れば車が行き交い、路地裏では駐停車中のそれを目にしないことはない。聖シオン随一と言われる経済力の一端を垣間見た気分だ。
「なるほどお。本家から分派した流派みたいもんね」
「ま、そんな感じの捉え方でもいいわ」
独特の表現の仕方にもロキは難なく付いてくる。
「免許は警察、鏡鷹隊に行くなら必須だからね」
「ロキ姉は免許持ってるの?」
「ええ、三年前に取ったわ」
唇からさらりと零れ落ちる言葉に少しショックを受けた。
まだ一緒に地元にいた時、乗り物に興味すら示さなかった姉がこうして今では車を語っている。
ルカ、ライ、ミロはやはり男の子というか、村長の車を前にした時の盛り上がり方は今でも記憶に新しい。
「ふーん、分かった。考えとく。お金もいるし」
ソファに深く沈み込んだノエルは、ふうと息を吐き天井を見上げた。
「そうしなさい。で、リバウンドについては理解できたかしら?」
「いつ発動するか予測できないリバウンドを適切に抑え込むのは難しい。だから、教官の目が届かない学外で使うのは認められないってことね。オッケーだよ」
我ながら”らしく”ない窮屈な言葉遣いをしたと思ったが、当のロキは満足そうな表情を見せ、やおら立ち上がりキッチンに向かった。
姉の長い金髪が背中に流れる。
「まだ飲むんでしょ?」
どうやらポットにお湯を足しているらしい。
ノエルのカップの中は先ほど空っぽになったばかりだ。
機嫌がいい時のロキはびっくりするくらいの優しさと気前の良さを発揮してくれる。
そして彼女が淹れてくれる珈琲がノエルは好きだ。
自分でも淹れたりするが根本的に何かが違うらしい。
ロキが振り向く前に、細い背中に向けてノエルは声をかけた。
「うん。あと一杯くらいは。ロキ姉も経験あるの、リバウンド」
「あるわよ」
振り返る様子もなく返答がくる。
「ミロ兄は?」
ルカとライはノエルと同じように剣に生きているので、魔法を使うのはロキとミロだけだ。
「あいつは一回だけかな。講義の中だから故意だけど。だから実質ゼロね、私が知る限りでは」
「ふーん。それって例えるならどれくらいすごい?」
振り返ったロキの顔には苦笑が浮かんでいた。手には湯気が立つポットが握られている。
「あんたそれ好きよね。そうねえ、ルカが煩悩の塊になって、ミロがストイックになるくらい?」
「なにそれ!?ありえない!」
「リバウンドを起こさないのはつまりそういうことなのよ。あいつは規格外でしょ昔から。話を戻すよ。学内でしか使えない他の理由は?」
「えーと」
おいてけぼりを食らったノエルが考え込む。
その間にソファに戻ったロキはポットを傾けた。芳醇な香りを伴った黒い液体がノエルのカップを静かに満たしていく。
「えーとが多いわね」
「ちょっと待って。あっ、思い出した!てかそもそも許可制だった」
「その理由は?」
「…あ、でもごめん、このへんちょっと微妙かも」
ロキは特段気にする様子もなく説明に入る。
「許可がなければ、やたらと試したがる子達が出てくる。それではダメなのよ。家柄や出自のように魔術を使えるということが一種のステータスにもなってる今では、その傾向はリスクなの。何かあってからでは遅いし、辛い思いをするのは他の誰でもない自分なんだから」
「規律を守れないとどうなるの?」
「遵法意識の低い生徒には当然警告が下るわ。最悪退学だってありえる」
「警察や鏡鷹隊もいやがるかな」
ノエルが漠然と考えている卒業後の進路先だ。
「当然ね」
警察や鏡鷹隊を市民が頼りにする理由は能力的な要素ももちろんだが、厳格に定められた規則の下に運用されているという確固たる事実があるゆえだ。
ルール違反を繰り返す人間を信用できる人間などいない。
それは民間人も同じだが、とりわけ市民の安全を守るという大義を掲げる彼らであれば尚更だ。
進んで市民の模範になれないようでは存在意義などないに等しい。
「一回でも違反したらどうなるの」
「回数が問題なんじゃないの。わたしも学生の時には二、三回やってるわ。大事なのは違反した理由とその後に当人が取る行動よ」
「色々あるんだね。ルールが多くて大変そう、魔術科は」
ノエルは思案顔で再度ソファに大きく沈み込む。
究極的には体を動かせてなんぼの武芸科と違い、こちらの科はやれ遵法意識だの規律だのと窮屈この上ない。
ただ、魔法は強大かつ特別な力を持つゆえ枷が多いのは、十分に理解できる話ではある。
「最後にもう一つ、重要な理由が残ってるわよ」
神妙な趣を宿したロキの視線を受け、ノエルは居住まいを正した。
ノエルはその答えとなる最後の理由を熟知している。
なぜなら何年も前に魔法を彼女から教わった時に一番最初に聞かされた言葉だからだ。
そこにはとても切実で、重苦しい響きがあった。
過去のトラウマとともに思い返されるそれを再現するのは今度は自分の番だった。
「…血の消失」
姉の細く短い眉が小さく動く。
その下で輝くアンバーの瞳には唇を引き絞る自分の姿が映っていた。
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