禁忌と規律 #21 魔法語り
眼前に迫りくる凶行から、守る術を何一つ持たない若者たちが救われた。
救ったのは自分ではない。
彼女がいなければ、この学校に来て初めての休日を最悪の一日として胸中に刻んでいたに違いない。
あれは間一髪のタイミングだった
ノエルは改めて魔法の威力を思い知らされた。
人智を超えた奇跡は状況を一変させる力を持つ。
眼前で発動した魔法は
至近距離で目にしたので間違いない。
昔、姉代わりのロキが見せてくれた魔法の一つだ。
ノエルは魔術師になる道を断念して以降、魔法に関する学識を更新したことは一度もない。
だから知らない魔法の方が圧倒的に多い。
だが、ロキが得意とする魔法だったそれを目にする機会は比較的多く、どのような効果を相手にもたらすかをノエルは克明に覚えていた。
足元から這い上がる得体の知れない悪寒が痺れを伴い上半身を徐々に侵食していく。
この魔法の特徴は痛みを伴わず、感覚神経に働きかける点だ。
渋るロキに無茶を承知で威力を絞ってもらい、この魔法を自分の身で体感したりもした。
事前知識がなければ全身を襲う痺れに平常心を保つことは難しい。
まともに歩行することはまず不可能だ。
ライムらしいと思った。
彼女は控えめで思慮深く、相手を思いやる。
相手の痛覚に訴えかける攻撃魔法ではなく、俗に言われる対抗魔法に区分される魔法で相手の動きを封じるなど自分の発想にはなかった。
魔術は、使い手次第で結果が違う。
選択肢は決して一つではないということを知った。
そしてシシリー・マッツ。
第二の州都マーセルに巨大な根を張る最強最大のマフィアだ。
そんな非道の限りを尽くした構成員の無力化はノエルの反撃および制裁で充分だった。
しかし予想外のエルフ乱入は想定を超えたトラブルを生んだ。
当事者となったエルフは複雑になった問題と強烈な印象を残し、忽然と姿を消した。
結局少女の正体は分からず仕舞いだ。
イーギス生の自分と違い、身分不明ゆえ彼女は私闘をしたことになる。
ただの私闘なら警察沙汰になることは少ない。
荒事が日常茶飯事なマーセルでは市民が黙認するからだ。
口で解決できないなら拳で解決するのも一つ。
何百年もの歴史の中で暗黙のルールとなり確立されたこの街ならではの流儀だ。
ただし、何事にも超えるべからざる一線というものがある。
今回のように常軌を逸した反撃の結果、相手がシシリー・マッツとはいえ、”穏便”ではない事態を見て見ぬふりで済ますわけにはいかなかったようだ。
至極、当然である。
ましてや一般人のルゼルが負傷していた。
ノエルは現場に駆け付けた若い警官数人にライムから借りたイーギスナイフで身分照会をした。
これによりノエルの介入はイーギス生としての責を果たしたがゆえの行動として当局に適宜処理され、最低限の反撃は難なく正当化された。
ナイフの持つ証明力に助けられたノエルだが、同様に、警官の状況把握の早さにも助けられた。
そして有難いことに解放も早かった。
ライムの容体を確認した警官が事情聴取を後回しにしてくれたからだ。
イーギス学長のヱテンナは兼ねてから当局側との連携の向上を説いていたのを知っている。
ノエルは彼女の見えない尽力に深く感謝した。
これによって事態は一定の収束を見たが、万事解決ではない。
問題が三つ生じた。
これらは全てイーギス側の問題であり、新参者のノエルが確認と理解を急ぎたいところでもあった。
一つ目は魔法の無断使用について。
二つ目はライムの容態の経過について。
三つ目は相手がシシリー・マッツだったことについて。
自分の足で立っていられないライムを背中におぶり、気が気でない精神状態でイーギスに帰途したノエルはすぐさま医務室に直行した。
魔法を使用したことによる極度の疲弊が彼女をそうさせたのは火を見るより明らかだった。
魔法は強力ゆえ、ついつい詠唱者たる魔術師を無条件で高く見てしまう風潮がある。
それもイーギスの生徒間同士の差別感情を側面から支える要因たり得ているのかもしれない。
圧倒的なステータスになるのも事実だ。
だが、成り手が不足気味なのがなんとなく分かったノエルである。
ノエルのように魔力の才に見初められなかった人間は五万といるだろう。
ただし、イーギスだけを見ても、それでも魔術科の生徒数は武芸科のそれの半分にも満たない。
病床の上のライムを見ればその理由も理解できた。
剣術や拳闘なら怪我をすれば血が流れる。
この上なく単純明快な理屈だ。
だが、魔法はそうではない。
魔法で攻撃されれば血が流れるのは道理としても、ライムはそもそも誰からも攻撃されていない。
だが彼女は倒れ、今はベッドの上で眠っている。
医療機器とライムの白い細腕の間には何本もの管がある。
心を落ち着かせるためにノエルは大きく息を吸いこみ、大きく息を吐いた。
そして友人の寝顔を見届けた後、記憶を頼りに、姉の私室へと急いだ。
「ひとまずライムは大丈夫よ。トニーオ先生の指示通り寝てれば問題ないから、これ以上心配はいらないわ」
「良かった。めっちゃ心配したもん」
ノエルの隣でソファに腰かけるロキが長い髪を耳にかけながら顔を向けた。
学長秘書ともなれば専用の個室を与えられているらしく、四人で一部屋の学生寮とは大違いだ。
このソファにしても住んでいる人間の趣味の良さとこだわりが反映されており、ロキが部屋の内装にお金をかけているところは昔と変わらなかった。
ルカほど機能美優先でなければライほど様式美優先でもないロキのバランスの取り方はノエルが羨ましいと思える分野だ。
田舎にある自室は誰かを招ける空間ではない。ロキたちもここだけには入りたがらなかった。
ノエルにとってはどんな部屋も三日あれば雑然とさせられる自信があるが、それをここでもしでかすと女子寮の綺麗な先輩方に白い目で見られかねないので、いつかボロが出ないか気の抜けない日々を過ごしていたりする。
これは絶対にミロの悪影響だとうそぶくノエルだが、部屋の汚さを嘆く母親とロキから人のせいにするなミロは特殊なんだからと何度お小言を言われたか、数えればキリがない。
まあ、その前にその叱り方もミロに失礼じゃないかと思うが。
「魔法について理解を深めなさい。剣術科でも無関係ではないんだよ。ライムの件をただの感想で終わらせるんじゃなく、今後に活かせるレッスンにするために」
「うん」
真剣な顔を見せるロキの前には、無数のお菓子がトレイの上に載っている。
「大丈夫だったから良かったわ。あんたが出るときは不安と隣り合わせだからね。あいつらのせいもあるけど、本当に昔からトラブルを呼び込むタチだから」
あいつらというのは三人の兄のことを指しているのだろう。
真っ先に思い出されるのはノエルが川で危うく溺死しかけた件だ。
そしてその記憶にもれなくセットでついてくるのが、鬼か阿修羅の如き烈火の怒りで三人の兄たちを縮み上がらせた地獄の光景だ。
今でも背筋が凍る恐怖体験である。
「あたしが呼んでるんじゃないよ。巻き込まれるんだよ」
「どっちでも同じことよ。まったくあいつらの悪いところばかり似て」
もはや姉代わりか母親代わりか分からない。
叱ったり怒ったりするのが苦手な温厚な母とは違い、その両方を遠慮なくノエルにできるのがロキだ。
言い返すだけ無駄なので、タルトを一切れ口の中に放り込んだ。
「さっきも言ったけどね、あんたは剣術科だけど魔術科のことも知っておきなさい。なぜだか分かるでしょ?」
言外に知らないなんて言わせないわよ、という無言の圧力がある。
この厳しさは愛情の裏返しだ。ノエルもそれくらい分かっている。
「いやだなー、大丈夫だってば。たとえば、三人一組とかでしょ」
「…じゃあ組む理由は?」
質疑応答はその場で必ず完結させ持ち越させないのがロキ流である。明日出来ることは今日やらないを公言するミロとはこの辺りからして大きく違う。
「ん、バディを組むからだよね」
「だから、どうして組むの?」
カップに口をつけたロキが間髪入れず再度問うてくる。
必ず理由を明確にさせる。答えを知っていても相手に説明できないなら知らないのと同じというのが、教育に対する彼女の持論だ。
部屋に品質の良い紅茶の香りが漂った。開け放しのカーテンの隙間から月明かりが覗く。
ふと時計に視線をやれば、午後七時を少し回ったところだった。
「えーと、武芸科と魔術科の二対一でユニット組んで行動する、から?」
「なんで疑問形なのよ。話聞いてた?それは誰と誰が組むかに対する答えでしょ。私が質問しているのは組む理由」
「うーん、なんだろ。違う科の三人で動いた方がいいから?」
ノエルは腕組みし唸り始める。
自分の回答は的を得ていない。流石に答えながら惨めな気持ちになるが言い訳はしなかった。
この程度でロキが遠慮してくれないのを知っているし、それに理解できるまで何度でも根気よく説明してくれることも知っていた。
「でもそれなら、違う科同士がわざわざ組む理由にはならないわよ」
「あ、そっか」
「もちろん単体でも行動はできる。要人警護ができるほど強力なルカや、隠密行動が得意なライのように突出した技能があればの話だけどね。あいつらは例外中の例外」
姉は自分を高く見せたりはしない。
だが彼女もまた七十二期生の魔術科のエースとして活躍していたのをライムから聞き及んでいる。
仕事の話をする姉の横顔は目鼻立ちがはっきりしていて、そこに大人の女性の姿を見た。
「学生のうちは単独行動は慎んだ方がいいわね。決して平和な街ではないし、イーギス狩りという事件も数年前にあったくらいだから」
「なにその、イーギス狩りって。めちゃくちゃ不安をあおられる響きなんですけど」
ノエルは大げさに嫌な顔をするが、ロキはずっと真剣だ。余計に不安になる。
「二年前にあった事件でね、死傷者が出たのよ。ちょうどあんたくらいの年若いイーギス生が何度か襲撃されたわ。相手はいまだに不明」
「それってシシリー・マッツ?」
「彼らではないことは判明してるわ。因縁浅からぬ関係だけど、停戦協定は絶対だから」
猫背の男がイーギスと事を構えるなと言っていたのを思い出す。
その時は何のことか見当も付かなかったが、このことを言っているのかもしれない。だとすれば、早まった事態は生まれないと思えた。
末端の彼らでさえ協定に敏感なら、不吉なイーギス狩りとやらが彼らの仕業ではないと納得できるものがある。
「シシリー側からの提案なのよ。真意は謎だけど」
「因縁て?なんかあったの?」
「二十年以上前に、ある粗暴な生徒がイーギスにいたのよ。熟練の教官でさえ手を焼くほどの。勢力拡大にいそしむシシリーがそれを聞きつけ、手練手管でその生徒を引き抜きにかかった。要はリクルートね。当然こちらは黙っちゃいない。当時の学長や教官たちが一斉にけしからん!ということで両者の対立ムードが一気に醸成されたわ。それ以来の関係よ。現在の両者の関係が形作られた発端とも言うべき事件ね」
「とんでもないことするわね。見境ないわー」
ノエルは顔をしかめる。
「自前で用意しろってのよ」
「そう言う問題でもないでしょ」
たしなめるロキがノエルの頭を小突いてくる。
「だから、ジャス君の在学中はおかしな騒ぎは起こらないんじゃないかしら。下手をすれば、彼の面子にも関わることになるからね」
ロキの口に上った男の名前にノエルは先ほどよりも露骨に反応する。
姉には何の気もないとしても、今もっとも耳に入れたくない名だ。
「あのムカつくやつね」
「なによ、いきなり」
今度はロキが怪訝な顔を見せる番だ。
ノエルは口を尖らせた。
「いや、今朝あいつに因縁つけられてさ、オリバーさんが出てきて事なきを得たけど、ライムが怯えてたし。思い出しただけでムカつくー!」
一触即発の空気が漂う中、彼の物騒な雰囲気をこらえるのは精神的にかなり疲れた。
だからその後のロフタスパークで過ごした時間がさらに心地良く感じられたわけだが、そこでも渦中のシシリー・マッツとの遭遇を余儀なくされたわけで、なんだか踏んだり蹴ったりな思いがするノエルである。
午後の直接の関係者ではないとはいえ、一年先輩でもある組織の跡目に猛烈に腹が立ってきた。
「あー、嫌だわあいつ。いつか絶対にしばいてやるから」
「今のあんたじゃ勝負にならないわよ」
「分かってるよそんくらい。いつかって言ったじゃん」
相変わらず遠慮がない。
表現を包むことなど一切せず痛いところを突いてくるロキに分かるように、ノエルは鼻を鳴らした。
「シシリー・マッツの跡取りだけど、一般人並の分別はあるからあの子。誤解されやすいだけで、別にあんたに喧嘩ふっかけに行ったわけじゃないわよ」
「だといいけど。あ、でも今日やった相手ってそいつんとこなんだよね」
ノエルも切り替えは早い。
一瞬驚いた顔をしたロキだが、少し逡巡を見せただけですぐにいつもの表情に戻った。
「それを早く言いなさいよ。まあ、こちらとしては問題にするつもりはないわ。停戦協定を自ら破棄するほど相手もバカじゃないなら、おかしな真似はしてこないでしょう。でも何かあったら私たちで対応するから、あんたは気にせずイーギス生として普通に振舞っていなさい。それだけでいいわ」
「はーい」
警察もシシリー・マッツの動向には神経を尖らせているのだろう。
ノエルより幾つか年上と思しき警官が騒ぎの張本人たちを前に息巻く様子が印象的だった。
目撃者多数なので証言には事欠かないだろう。
心配の種も呆気なくこれで二つが解消した。
「話が大きく脱線したわね。そうそうバディの話だわ」
はらりと眉にかかった前髪を耳にかけ直すロキの仕草を見ながら、ノエルが口にチョコを二個いっぺんに放り投げる。
「よろしくー。って痛ったい!」
「なにくつろいでんの!」
でこぴんが炸裂したのだ。
「欠伸でもしてたら拳骨じゃすまないところよ。その緊張感のなさは何。あんたのために話してるのにその態度はないでしょ。お菓子を食べるのはいいけど、真面目な話をしてるんだから、真面目に話を聞きなさい!」
「…は~い」
「返事は短くはいっ!追い出されたいの?」
「はいっ!」
拳骨一発で済めば儲けものである。説教などされた日には悪夢で眠れない夜を過ごすことになるだろう。
そう言えば姉はなぜ自分の隣に座っているのだろう。
正面の方が話をしやすいのに。
もしかして、でこぴんしやすいからだろうか。
だとすれば、彼女が隣に座った時は発言に気を付けた方が良さそうだ。
場違いながら、ノエルはそう強く思った。
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