意図した成果は日々の弛まぬ努力の果てに #20 LADY STRIKER

一足飛びに男の懐に飛び込んだエルフは強烈な掌底をみぞおちに突き刺した。

猫背の男はたった今自分の身に起きたことを理解できないばかりか、予測し身構える暇さえ与えられなかったその一瞬を反芻することも叶わないだろう。

稲妻の如し一撃はノエルの目に少女の残像しか残さなかった。


身体を折りたたみ嗚咽を漏らす男の髪を無造作に掴んだエルフが顔面に拳を打ち込む。

鈍い打撃音にノエルは我を取り戻した。

「ちょ、エルフ!」

「一人めー。次ーだれかな?」

負けん気の強そうな顔に悪戯好きな色が映えている。


その表情に八重歯という組み合わせはすばしっこい猫科の動物を連想させた。

そして奇抜な髪型に水色と黄色という色違いのタイツを違和感なく履きこなす様は荒れたこの場に全くそぐわない。

このまま鼻歌でも歌いだそうかという気楽さは生来のものだろうか。

場違いなのは何も愛くるしくも派手な少女の外見だけではなかった。

呆気に取られていた取り巻きの男たちが俄にいきりたつ。


「このガキ、いきなり何やってんだ!」

まずい。

トラブルは避けられそうにないと思っていたが、予想外の展開に完全に目論見が外れた。

まさかのエルフ乱入である。


一般人相手に手を出したのは男たちでこのまま放っておいても警察の尋問は免れない。

道理もなければ筋も通らない理由で暴挙に出た瞬間をノエルは眼前で目の当たりにしたのだ。

しかし、不足する警察が現場に急行してくるのはすぐではないだろう。

だからこそ、問答無用で制圧してよい根拠がある中で、今のこの状況をさらに悪化させないためにノエルが取れる選択肢は明確だった。


一つ面倒があるとすれば、両者とも何者か分からないということだ。

見た目だけでなく動きを見る分にも素人でないのは断言してよさそうだが、残念ながら身分を確定できているわけではない。

この状況だと一般人同士の私闘として扱う必要があり、イーギス生としてノエルに許可されるのは制圧だけだ。


「へへ、逃がさないよー!」

一人目は意表をつけたが、いくらなんでも多勢に無勢だ。

エルフは息巻いているが、あと四人も相手にするつもりなのだろうか。

このままでは双方ともに無事に済みそうにない。

だが、そう考えたノエルの眼前で、また一人男が力なく崩れ落ちた。

「うそ、…エルフ待って!」

頬のこけた黒服が懐からナイフを取り出すのを見たノエルは眉根をひそめた。。


ノエルの存在は今や完全に蚊帳の外で、物騒な男たちは攻撃対象を突然の乱入者に定めたようだった。

「あ、いいの。そんなもん出しちゃって。じゃあこっちも」

エルフがお尻のポケットから取り出したのは黒いメリケンサックだった。

あどけない顔をした少女の顔にはこの状態を心の底から歓迎している節がある。


似合わない酷薄な笑み。


いやそれ以上にこの雰囲気に酔っているようにさえノエルには見受けられた。

前触れなく駆け出したエルフに男たちが一斉に構えるが、突如、少女はあさっての方向に手を振りだした。

「あ、アクセル=ヴァッツァ!こっち、こっちだよ!」

「ヴァッツァさん!?」

ぎょっとしたこけ顔の男が背後を振り返る。

その間に一気に距離を詰めたエルフが鉄で固めた拳を男のわき腹に叩き込んだ。

ひしゃげる鈍い骨音。

アバラを数本いった音に違いなかった。


再度同じ部位に鉄を嵌めた拳を容赦なくぶちこむ。

男は声にならない声を上げ、砂埃を上げながら、地面を舐めていく。

悲鳴を上げ悶絶したくても呼吸がままならず、苦しみを表現することさえできないでいるのだ。

残った男二人がエルフをなじりだす。


「てめえ卑怯だぞ!いねえじゃねえか!」

「ばーか、引っかかってやんの♪でもさ、お兄さん達ー、やっぱシシリー・マッツだったね」

エルフの何気ない発言にノエルは目を見開き、黒服の男たちに向き直る。

シシリー・マッツ?こいつらがあの?

エルフはニコニコと屈託のない笑顔を見せた。

「ヴァッツにゆっといてよ。今度会ったら絶対に殺すからって」

「…くそガキが、ぶっころしてやる!」

ホルスターからピストルを出した青眼鏡の男が黒い銃口をエルフに向けた。


その光景を受け、聴衆にどよめきが走った。

この期に及んでまだ逃げ出さず、野次馬のように群がる聴衆にため息が漏れる。

高い犯罪率と歴史を共にしてきたマーセルの人間たちにとって慣れた光景なのだとしたら、そもそも神経が太すぎるのかもしれない。

何かに期待しているような素振りさえ見られるのは図太いというか、もはや逞しいの一言に尽きる。

「エルフ!」

当のエルフに動じた様子は微塵もない。

あろうことか舌なめずりをし始めた。


少女にノエルの声は届いていない。

どのようにいたぶり尽くしてやろうか、ただそれだけだ。

男たちも完全に逆上した様子でもはや静止の声は効き目をなさないだろう。

ノエルの中ではギリギリ想定内とはいえ、やはり最悪の事態とも言えた。

一般人相手に発砲するのはご法度だが、それを考慮するような冷静さなど、仲間が次々にやられた焦りで完全に頭から吹き飛んでいるようだった。


しかし、ノエルはこの窮地を”ツイてる”と解釈することにした。

エルフの大立ち回りのおかげで、誰一人ノエルの動向を気にかけていない。

そして男たちは皆ノエルに背を向けている。

「ピンチの中にもチャンスあり」

幼い頃世話になった師範の言葉がふいに思い返される。

この千載一遇の好機をみすみす見過ごせば、さらなる泥沼を覚悟しなくてはいけなくなるだろう。

状況をひっくり返せるかもしれない。

そしてその役目を果たせるのは自分を置いて他にありえなかった。


青眼鏡がトリガーに人差し指をかけたのが見えた。

撃つ!

そう瞬時に察したノエルの両の脚が地面を蹴る。

駆け抜ける一陣の風は飛沫のような土塊を宙に舞わせた。



少女に狙いを定め、後は撃つだけだった。

だがその時、青眼鏡の男は予期しない方向から一気に肉薄してくる影を視界の端に捉えた。

完全に虚を突かれたと言っていい。

銃口を少女から迫りくる影に向ければ、その突進を怯ませることもできたかもしれない。

だが、思考が追いつかなかった。

自分に突っ込んでくる影は、よく見れば先ほど自分たちに生意気な啖呵を切ったあの背の高い女だった。

完全に失念していた。

だがそれが今更分かったところでどうしようもない。

なぜなら女はもうそこまで来ているからだ。

たった数秒前には顧みるだけのまだ幾ばくかの余裕があったはずだが、一気に距離を消された。

手入れに余念はないので、この目で捉えきれないのは眼鏡が曇っているせいではないだろう。

男は潔く諦めた。

ゆっくりと後悔したいが、生憎それさえも許されそうにない。

焦りも驚愕も何もなかった。

視界一杯に広がる女の脚はまるで猛禽類の爪のようで、刹那、鼻先が穿たれるのを痛覚した。



「うおおぉぉぉぉー!」

聴衆が湧く。


それは、凄いモノを見た興奮と胸をすくような喜びがない混ぜになった大きな歓声だった。

「わお!やっぱりすっごいノエル!なに、なに、あの動き方!?」

状況そっちのけで、誰よりも興奮しているのがエルフだった。

ジャンプしたり、小さな体を捻ったり、足を上げたりして、たった今ノエルが取った行動を必死に真似ている。

運動能力の高さゆえか、初見ながら動きはなかなかサマになっているが、今はそれどころではない。


「エルフそれはいいから。あのね。話を聞いて」

「うはー!怖い蹴りもってるんだねー。びっくりしたよ!」

はしゃぎ過ぎた反動か、エルフの首元から緑のスカーフがはらりと落ちる。

当人は喝采を上げることに忙しく気付いていないようだ。

ノエルの視線は少女の細い首元に釘付けになる。

青と赤の線が螺旋をなし喉元で交差したタトゥーが見えた。


「エルフ、その印は?」

「ん?ありゃ、とれちゃってた」

さほど気にした様子もない。

ノエルの質問には答えず、エルフが慣れた手つきでスカーフをもう一度巻き直す。

「てめえら何者なんだ?」

太った男のだみ声が届いた。


先ほどヤクトを羽交い絞めにしていた男だ。

「何者でもいいじゃない別に」

「ただじゃすまさねえぞ、おまえらぁ。シシリーに喧嘩うってんのか?!」

「何言ってんの。あんたらが売ってきた喧嘩を買っただけじゃん。しかもピストルまで見せて。止めない方がどうかしてるでしょ。ああ、もういいよ。あたしはイーギスグランカレッジのノエル。カレッジコードは005803よ」

今更身分がばれたところで痛くも痒くもない。

遅かれ早かれ明かすつもりだったからだが、最後の一人は誰が見ても分かるほどの狼狽ぶりを見せた。

気にせずノエルは続ける。


「やりすぎなのよ、あんたたちは。この子が出てきたのはあたしもびっくりしたけどさ、こんなんなっちゃた原因作ったのは元はといえばあんたたちじゃん」

「う、うるせえ黙りやがれ!」

ここまで追い詰められてなお、虚勢を張れるほど愚かではないらしい。

男の激しい焦りは容易に感じ取れた。

しかし、ノエルは追及をやめなかった。

ノエルはノエルで相当腹が立っているからだ。


「弁解の余地はないよ。シシリーだか何だか知らないけどさ、追い詰められてそれ言うようじゃ、すごくかっこ悪いよ。大の大人が権威を傘にきた喧嘩しかできないって、あたしならそんな喧嘩の売り方はしない」

「て、てめえ、俺たちをなめてるのか!」

実力の違いを見せ付けた。

反撃不可能なまでに叩きのめした。

仲間の四人は無残な姿で地面に転がっている。

もはや弱弱しく反応することだけが、男にできる精一杯の抵抗なのだろう。

ノエルは手加減せず、追随の手を緩めなかった。


「いや、別になめてないよ。でも、そっちこそさ、あたしがイーギスの人間だってこれで分かったでしょ。イーギスは民間人の安全確保のために動く学校じゃんか。だったら、民間人に危害を加えたあんたたちはイーギスに喧嘩を売ったことになる。で、イーギスのあたしはそれを買った。大体こーゆうことでしょ、違うかな?」

「おお、ノエルかっくいー!あっ、でもあーしはイーギスのヒトじゃないよ」


それはノエルもかなり気になるところだ。

エルフの鮮やかな格闘術を見た限り素人でないのは明らかだった。

詮索したい欲求に駆られるが、今は後回しだ。

「最初のうちに止めてればあたしは出るつもりはなかった。けど、ここまでするあんたたちのせいであたしは出ざるを得なくなったのよ。覚悟しな、後で警察に突き出してあげるわ」

ミロとロキ譲りのノエルの啖呵に太った男は脂肪の付いた顔を大きく歪めた。


「…おいやめろ。イ、イーギスと今コトを、構えるな」

エルフが最初に倒した猫背の男がよろよろと立ち上がる。

大きく腫れ上がった頬でうまく発音できないのか、聞き取りにくい声は力なかった。

「てめえ、本当にイーギスのやつか?証拠見せてみろや」

息も絶え絶えに、怒りに顔を染めた猫背の男が険しい視線を向けてくる。

ただ、そこを付かれると正直痛かった。

途中入学ゆえに申請が遅れ、ノエルはその証明となりえる刻印入りのイーギスナイフを学校側からまだ支給されていない。


ナイフを携帯しているはずの先輩のライムがもしこの場にいればと思うが、生憎彼女の姿をノエルはまだ目にしていない。

これだけの騒ぎが起きれば絶対に気付くと思うのだが、彼女もれっきとしたイーギスの人間とはいえ、そちらも少々心配ではあった。


イーギスを証明できるか否かで、この後のシシリー・マッツの出方が決まる。

事情が事情なので不携帯は致し方ないとはいえ、綺麗に幕を引けないことは実際のところ悔やまれた。

状況を長引かせてもいいことなど何一つない。

「証明したいのはやまやまなんだけどね。今持ってないの」

シラを切り通しても事態が好転するとは思えない。ノエルは事実をありののまま口にする。


すると案の定の怒声が返ってきた。

「てめえ、今更そんな言い分が通用すると思ってんのか!イーギスじゃあねえなら容赦しねえぜ。散々コケにしやがってよ」

面倒この上ない。

太った男が俄然やる気を見せたのは、エルフが倒した男たちが膝に手をやり立ち上がろうとしていたからだ。

ノエルに吹き飛ばされた男とエルフに肋骨を砕かれた男はうつ伏せで倒れたまま起き上がる気配はない。


状況は二対三。

ノエルたちを囲む人垣から、歓声と罵声の両方が飛び交い始めた。

手にナイフを構え、男たちが突進してくる。

「なりふり構わないってわけね」

ノエルはそれをなんなく交わす。

ダメージが蓄積されているのか、動きも緩慢だ。


当たればタダでは済まないが、素人に毛を生やしたようなナイフ捌きにやられるノエルではない。

こちとら血の滲むような剣術漬けの日々を小さい頃からずっと過ごしてきたのだ。

「止める気なし。じゃあ悪いけど反撃するよ」

制圧から反撃へ。

武器は振るうだけでも体力を使う。

だからこのまま交わし続けていれば、勝手に消耗し自滅するはずだ。

そのあと速やかに制圧すればよい。

それが一般人相手ならば。


だが図らずも相対する者があのシシリーだと分かれば、遠慮は無用だ。

イーギスの交戦規定からはみ出ないようこれまで注意深く接してきたつもりだが、ノエルとしては正直じれったいものがあった。

ずっと受け身の対応だったので、それなりに鬱憤も溜まっている。

速攻で終わらせよう。


大上段から振り下ろされたナイフを素早い動作で叩き落としたノエルは金髪男の奥襟を両手で掴み、無防備な腹に膝を叩きこんだ。

そのまま間髪入れず、無駄のない動きで背中に抱え込んだ男の身体を滑車の要領で前方に一気に放り投げる。

成す術なく宙を浮いた男は大きな音を立てて木の幹に激突した。

見よう見まねで今朝のジャスの動きをトレースしてみたが、存外うまくいったらしい。


「自業自得だからね」

ノエルは冷たく言い放つ。


ナイフを持っていない方がまだ動きはマシだったかもしれない。

扱い慣れない凶器など持つから、一撃を狙ってなまじ動きが大味になってしまうのだ。

エルフのほうに目をやると、どうやら同じタイミングで終わったようだ。

男が二人地面に転がっており、少女は仰向けに倒れている太った男の胸の上に腰掛けていた。


「え、ちょっと!」

そして右拳を振りかぶり、一気に振り下ろす。

異様な光景にノエルは息を止めた。

「エルフ、何やってんの!」

急いで詰め寄ったノエルはメリケンサックをつけた拳を何度も何度も顔面に振り下ろすエルフの腕を掴み上げる。

無慈悲な高笑いを響かせながら、黙々と凶器で殴打していられる少女の神経を疑った。

「やりすぎだって!やめなさい!」

ノエルの非難にエルフが肩を震わせる。


少女は無言で立ち上がった。

男の顔面は血だらけでは済まない。

至る所が陥没し腫れ上がり、見るも無残な姿だ。

一般人なら直視に耐えないだろう。

死んではいないだろうが、これでは半殺しだ。

いくら相手が非道を尽くしたとはいえ、自分ならここまで徹底的にはやらない。キレていても理性が働くからだ。


「エルフ、やりすぎよ!ここまでやる必要はない!死んだらどうするの?」

「甘いよノエルは」

膝に付いた砂を払いながら、エルフは出会った当初の人懐っこい笑みを浮かべる。

「何言ってんの。殺す気?いくらなんでも一線越えちゃダメだよ」

「甘いなーノエルは」

「だから何が」


怪訝な表情で聞き返すノエルに応える少女の顔はどこまでも真顔だった。

なぜ怒られるのか理解できない、そんな当惑交じりの表情にも見えた。

短時間の仲に過ぎないが、ノエルはどっちが本当のエルフなのか分からなくなった。


「だってさ、この人たちナイフや銃出したじゃん。その時点であーしたちをヤるつもりだったでしょ。殺気感じたもん。だったら正当防衛だよ。ほらあれだよ、よく言うじゃん。目には目をって」

「…エルフ、あんた一体何者なの?」

「それは内緒」

無邪気な表情で八重歯を見せて笑うエルフに先ほど垣間見た凶暴性は伺えない。

「最悪だわ…」

ノエルは内心頭を抱えた。


うやむやにするわけにも見過ごすわけにもいかない。

目撃者も多数いる。

この男たちがシシリー・マッツの構成員であることは判明した。

だが、だからといって、果たしてこの無残な結果を正当化できるだろうか。

ノエルにはエルフの反応は過剰防衛にしか思えない。

相手がただのチンピラ上がりだっただけに尚更だ。


自分自身は反撃を最小限に押し留め、わりと冷静に状況に対処できたと思う。

ただイーギスの理屈を素性の分からぬエルフに当てはめたところで意味がない。

改めてエルフが手を下した太った男に顔を向ける。

確実に全治数ヶ月は必要と思われる重症だった。

警察への事情説明でこの凄惨な結果をありのまま説明すれば、当然エルフの罪は免れないだろう。


だが本人はどこ吹く風といった表情でノエルの次の言葉を待っている様子だ。

この結果を平然と捉えている節にノエルは信じがたい目を浮かべ微かな苛立ちを覚えた。

イーギスに席を置く者として、こういう時はどうすればいいのだろうか。

言葉に窮するノエルがその後の対応をどうしようか考えあぐねたその時、後方で女の悲鳴が聞こえた。


猫背の男がルゼルに近寄っていく。

血で赤く染まった口元を拭う様子もなく、汚れた長髪を振り乱した様は異様だった。

そして、突如奇声を発しながら男は走り出した。

手にはナイフが握られたままだ。

それは、完全に我を見失った男の最後の足掻きだった。

ヤクトがメンバーを背後に庇い、後のない絶望感から端正な顔を歪めるのが見えた。


鈍器で殴られたような衝撃がノエルの脳裏を襲う。

「やばい!」

血迷った男が取るであろう行動は一つしかない。

自分の殺意を確実にするためにナイフを振り下ろすだろう。

反撃される恐れがない一般人に向けて。

そこにはいかなる躊躇もない。

そして、最悪なことに今回ばかりは彼我の距離が遠すぎた。

男の行動の意味を理解したのか、どよめく聴衆からサイレンのような悲鳴が鳴り響く。

白昼の陽光に照らされたナイフの刀身がギラリと光った。

そして、ついにそれは振り下ろされた。


ダメだ!


そう観念した時、男の動きが突然静止した。

「がぁぁぁっ!」

獣のような絶叫が上がった。

だが、その声には先刻前のそれとは違い、明らかに感情が込められているようにノエルには感じられた。

得体の知れないモノに対する恐怖の反応だ。


男は身体を大きく震わせたかと思うと、次の瞬間膝から崩れ落ち地面を激しくのたうち回る。

誰も男には指一本触れていない。

何より一番早く男を取り押さえられる位置にいるノエルでさえ、あと僅か二秒を必要としていた。

だから尚更、自分の目の前で起きてるこの有様が信じられない。

何かが起きているのは間違いないが、何が起きているのかが分からなかった。

エルフも同じように目を見開き、驚きを隠せないようだった。

惨劇の被害者になりかけたヤクトたちの顔がふいに目に入る。


放心と驚愕。

眼前の男の凶行が未遂に終わったことへの喜び以上に、目の前の現実を処理できないでいるのだ。


「…これって、痺痛ヒポセシア?」

青白い光を放つ紋様が男の足元に現れている。

ノエルは記憶の残滓に残ったその正体を覚えていた。

構築された複雑な模様が別の形に再構築された次の瞬間、淡い光は禍々しい鈍色に変貌を遂げた。


ここにいる誰の仕業でもないとしたら。

「ノエル」

「…ライム?」

人垣の奥に探し求めていた友人の顔を見つけた。

その声はかぼそく、誰もライムの存在に気づいていない。

ただノエルは自分の名前を呼ばれるのを確かに感じた。

ライムは掌を胸の前で重ね合わせた祈り子のようなポーズで立ち尽くしている。

いや、立っているというよりも彫像のように固まっているという表現のほうが適切かもしれない。


どこに行っていたのと今すぐ問いたい気持ちを懸命に押し殺す。

ライムの顔は苦悶で塗り潰されていた。

「間に合ってよかった」

今度は聞こえなかったが、彼女の唇の動きがノエルには読めた。

華奢なライムの細腕がだらりと下を向く。


蝋人形さながらに血の気の失せた表情。

ノエルの全身は総毛立つ。

「ライム!」

絶句することなく声を荒げ、無意識にノエルの身体は突き動かされた。

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