歓喜と悲劇のオニオンガール #4 イーギストラブル

「マム、お連れしました」


ロキの凛とした声が部屋に響いた後、リュックを手に抱えなおしノエルは軽く一礼して入室した。

逆光になっているせいか室内がろくに見えなかった。

本当に見えない。

暗すぎて視覚がほとんど頼りにならない状況だった。

あるのは今しがた部屋に入ったという感覚だけだ。


窓の隙間から射し込む朝日が壁際の棚などの輪郭をかろうじて認識させてくれる。

隣にいるロキは果たして誰に向けて語りかけたのだろうか。

窓を背にして誰かがいるのかもしれない。

意識を集中すると正面に微かな息づかいを感じられるが、慣れない緊張感のせいで喉の渇きを感じた。


両親に幼い頃に読み聞かせてもらったおとぎ話をふとノエルは思い出す。

確か本のタイトルは、子どものための神話のお話だった。

デフォルメされた愛らしい天使や強そうな天使長とかがいたが、それによると共通してるのは彼らは光り輝く存在だということ。

とはいえ、実際は見たこともなければ眩しい思いをしたこともない。


児童文学なので子ども受けのする書き方をしてたのだと思うが、もしかすると、ひょっとして、俄に信じがたいが、まさに今のこの特異な状況がそうなのではないだろうか。

ノエルは傍らのロキの顔を盗み見てみたが、暗くてやはり分からなかった。

全くなんてところに案内してくれたのだ。

それならそうと予め教えてくれないと困るではないか。


早くなる動機を感じつつ目を凝らしてみた。

なんとなく二人いるような気がする。

そんな気配がある。

一人は椅子に、もう一人はその傍らに。

じっとこちらを見据えているようだ。

ロキはマムと言ったが、それは天使の名前だろうか。

人間には認識できない唯一無二にして至高の存在。

そんな人に在らざる存在を呼び捨てにするとは、我が姉ながらいい度胸をしている。

怖い者知らずもいいところだ。

ノエルは何か言おうとしたが舌がもつれ言葉にならなかった。

人間、理解を越えた何かを目にした時、頭がうまく動かなくなるのかもしれない。


「マム、もういいのではないですか?」

どこか呆れ返るようなロキの声が聞こえた直後、一気に部屋中が明るくなった。

急激な光の露出を体中に浴び、小さなうめき声を漏らしたノエルが顔の前に手を翳す。


目が慣れるまでには少し時間がかかった。

使い物にならなかった視界が徐々に戻ってくる。

ノエルのブルーの瞳はまず正面の執務机を捉えた。

振り返ったり首を巡らせたりもせず視線をまっすぐ正面に固定する。

色彩豊かな観葉植物が目に入った。

良い香りがする。

緊張していたせいか今まで気づかなかったのだ。


天井に届く勢いでうず高く積まれた書物のせいで机のほぼ半分が見えない。

何かの表紙で腕でもぶつけたら、この絶妙なバランスは一気に崩れてしまうだろう。

見てるこちらがハラハラさせられる。

所々に乱雑に置かれた便箋の束に、場所を考えず手当たり次第に貼り付けられたメモ類、ノエルはなんとなく自分を見ている思いだ。

肝心の机の上は口が裂けても整理整頓が行き届いているとは言い難い惨状である。


そこまで確認できたノエルは、今度こそゆっくりと視線を上げていく。

おぼろげながら輪郭しか視認できずにいた先ほどとまでと違い、ノエルはその光景をハッキリと目に映すことができた。

赤い縁の眼鏡をかけた老齢の女性が椅子に腰かけている。

視線が交錯しなかった。自分を見ていない。

どうやら隣にいる姉を見据えているようだ。


不満げに首を振る彼女の仕草が見て取れた。

「早いわよロキ。まだこれからだというのに」

「話が一向に進まないので、私の独断でつけさせてもらいました」

「天使さま?」

「なに言ってるのあんたも。お願いだから、あんまり残念なところを見せないでちょうだい」

ロキに肘でつつかれた。

なんだか視線も痛い気がする。


「あら、ロキ。私のおふざけに何か問題でもあると言うの?」

「おおありですよマム。何が面白いのか一晩考えてみましたが、やっぱりちっとも理解できませんでした」

ロキが躊躇なくばっさり切り捨てる。

「はあ。上司のおちゃめに少しの理解も示すことも出来ないなんて、弟子に恵まれないと師匠をやるのも大変なのね」

「ヱテンナ、私もロキの意見に同感ですが」

直立不動で隣に立つ白髪の紳士がため息を漏らす。


「あらあら、これが本当の四面楚歌、というやつね。あなたはどう思う?」

「え、あ、あたしですか?」

包み込まれるような笑みで急に矛先を自分に向けられ、ノエルは慌てふためいた。

驚いた拍子で胸の前で抱えていたリュックをバサッと落とす。

「あはは、愉快な子ね。ねえ、愉快続きで私の面白い話を聞いてくだ」

「マム、彼女がノエル=フロリアンです。年の離れた同郷の幼馴染です」


ヱテンナと呼ばれた女性が大袈裟にため息をつくが、ロキは一切取り合わない姿勢を見せた。

丁寧な言葉遣いをしているが、有無を言わさぬ迫力がそこかしこに感じられる。まさか学長の言葉をここまであからさまに遮りにいくとは。

なんだかこの小一時間の間にやけにため息を見る場面に遭遇するノエルである。

「ほら、ノエル。あんたからも」


「えっと、初めまして。あたくしの名前はノエル=フロリアンです。レーンヴァルト出身の十八歳です。えーっと、趣味はジャム作りです!特に苺味が大好きです!そうだ、最近嬉しかったことはですね、えーっと、あ、実家にいるお母さんが懸賞で二等の米俵を連続で三回も当てて、喜ぶ顔を見れたことです!お父さんも幸せそうでした!不束者でございますが、これからよろしくお願いしますっ」


ノエルは息継ぎ二回で一気に言い放った。

気合と根性、あと体育会系のノリには自信がある。

あ、これも言っておいたほうが良かったか。


肩で息をするノエルが正面に目をやると、まだどなたかもあまり分からない二人は息が合った調子で目をぱちくりさせていた。

何故だか分からないが、ロキも驚いているようだった。

そして突如、大爆笑が巻き起こった。

一気に場の空気が弛緩したその変わり様にノエルは冷や汗をかく。


当の本人はなぜみんなして笑っているのか皆目見当がつかない。

ロキはというと、二人を前に大笑いするのを自重しているようだが、小脇に抱えていた書類を口元に持っていき、なんとかバレずに誤魔化そうとしているのが見えた。

綺麗な顔が小刻みに震えている。

「え?え?」

そんなヘンなことを言ったかあたし。


事態を把握できないノエルがいっそう慌てる。

何か不手際をしたかつい今しがたの自己紹介を振り返るが、あいにく心当たりはない。

こんなこともあろうとか思い、一週間前から用意していた会心の出来栄えだったはずだが。

正面の女性はその狼狽ぶりを楽しんでいるようだった。


ただ一応ノエルの意図するものは伝わったらしい。

掛けていた丸メガネを外した女性はずれてしまった椅子を座り直し、柔和な表情を見せた。

「若い子を相手にこれ以上意地悪するのも年甲斐もないわね。改めて、おはようございます、ノエル。わたしはこのイーギスグランカレッジの学長をしているヱテンナ=フランシスです。本当はもっと名前が長いのだけど面倒くさいので割愛しますね。私の趣味はご覧頂いたように、おちゃらけること。最近嬉しかったことは、そうね、あなたのような面白い子がうちを選んで入学してくれたことかしら。こちらこそ、今日から宜しくお願いしますね」

「…私は副学長兼事務長のヨハン=フリートヘルムだ。宜しくお願いするよ」


深すぎるお辞儀にならないよう苦慮しながら、顔だけ正面の二人を上目づかいで見ながら、ノエルは腰を折った。

どうやら自分が天使だとか神様だとか妄想していた人物は学長と副学長だったらしい。

身なりも見た目も雰囲気も大人であり名門イーギスのトップツーである。

自分と同じ人間であることに安心したが、早とちりをした自分を恥じた。


この茶番劇はノエルのために用意されたものらしい。

ロキが種明かしをしてくれた。

新参者のノエルを驚かせるために、部屋の明かりを全て消し出迎えたというのだ。

曰く、どんな反応を示すのか見てみたかったとのこと。

部屋が暗いとか逆光とか苦手な人種だとか色んな状況が重なり合う中、普段の妄想癖もここぞとばかりに発揮されてノエルは見事に騙されてしまった。


学長様はどうやらお茶目な方のようだ。

それも少々ではない、かなりだ。

お戯れを、と言ってみたいところだが、まだあいにくその台詞を吐けるほどノエルは勇者ではなかった。

まあ実害はないのでどうということはないのだが、この一件で確実にノエルがどんな女の子なのか上層部の印象は九割方固まってしまったことだろう。


そう考えると、これからの学生生活に暗澹たる思いを抱かざるを得ない。

その学長は見たところ還暦辺りの年齢ではないかと思う。

おいたが過ぎるが基本的に温厚そうな人だ。そこは本気でほっとする。

どちらかというと入室前に抱いていた先入観は隣の男性の方にこそ当てはまりそうだった。


愛想の好さそうな恰幅の好い学長とは反対に、彼女の執務机の左側に直立している男性は長身の細身で厳かな雰囲気をまとっている。

最近都会で流行の兆しを見せ始めている背広というものだろうか、紳士然とした彼の着こなしは実際似合っていた。

学長よりももう少し歳が上かもしれない。

ノエルは密かに思う、ダンディーだと。


「ノエル、専門は何にしましたか?」

「はい、剣術科です」

いつまでも肩を落としてばかりもいられないので、ノエルは無理矢理気丈を装った。なんとかして失点を挽回しなくてはいけない。

ヱテンナが続ける。

「良かったらそれを選択した理由を聞かせてもらえるかしら?」


「はい、えーと。小さいときに町の剣術道場に通っていたんですけど、大会に出たりしてました。賞を獲ることもできたし、先生や両親もすっごく褒めてくれたので、のめりこんじゃって。もともと、剣術がやりたくなったのは三人の兄の影響です。あたしには剣術以外は特に取り柄もないですし」

無言で頷いたヱテンナが視線で続きを促す。

「でも、イーギスならもっと強くなれると思いました。それがあたしの大事なものを守ることに繋がると思ってます」

肩の力を抜き、ノエルはそうきっぱりと宣言した。

執務机にいる学長をしっかりと見据える。


目の前にいるイーギスの最高権力者は満足そうに頷き、再度ノエルに質問した。

「卒業後はどうしていくおつもりですか?」

「まだ決めたわけではないですけど、鏡鷹隊きょうおうたいにちょっと興味があります」

「あら。でももしそうなると、女性初の隊士になるということね」

「そうなんですか?男性ばかりなのは知っていましたけど」


鏡鷹隊は武芸を志す者にとっては花形の組織である。

主な職務に街の治安活動の維持、犯罪者の取り締まりなどがあり、子どもたちの間でも人気が高い。

治安が決して良いとは言えないマーセルにあっては、特になくてはならない存在である。ノエルは地元で何度か見かけたこともあった。


「ええ、女性隊士の例は過去にはありません。けれどなかなか狭き門のようね。でもイーギスの子達なら、老婆心から高すぎるその敷居に梯子をかけてあげる後押しくらいならできるのだけど。そうね、そこのロキくらいになれば大丈夫ですよ」

必然、入隊するには厳しい諸条件をクリアしなければいけないし何より推薦が必要だった。

各方面に顔が利くであろうイーギス学長の影響力が大きいのは田舎娘のノエルでも容易に想像できる。

彼女の積極的な差配で鏡鷹隊や警察を巻き込み、国の反乱分子を鎮圧せしめた記事を読んだこともある。


「マム、私の適正はここですよ」

感嘆の吐息を漏らすノエルをよそにロキは苦笑した。

「まあ晴れてここに入ったのだ。なら、秋に開催される聖ランスロット儀剣模擬試合を一度見に行ってみるといいだろう。じかに見るのと伝聞では勝手が違うはずだ。君が志す鏡鷹隊の隊士たちも出場するだろうし、色々と参考になるものも多いだろう。最寄の支社を見学に行くのも一つだね」

これまで女性三人の会話を静観していたヨハンの助言に、ノエルは力強く頷いた。


確かにそれはありだ。

聖ランスロット儀剣模擬試合は遥か昔の聖シオンで活躍した剣聖ランスロットの加護をお祈りするお祭りだ。

彼に関する正確な文献は現在あまり残されていないとされる。

剣に生き剣に倒れたランスロットの一生涯は教科書でもかなりの頁を割くほどで、いくら勉強嫌いのノエルでもそれくらいは知っている。

何を隠そう、名前の格好良さから覚えたクチである。


地元のレーンヴァルトでも腕に覚えがある男たちが毎年何人か出場していたのをふいに思い出した。

「そういえば、ロキ姉は今何してるの?」

「マムの秘書よ。言ってなかったっけ?」

「初耳だよ。すごいんだね。ルカ兄たちは?」

「ルカはマム専属のボディガード。ライは遊撃の密偵。ミロはね、今、刑務所の中よ。理由は後で話すわ」

「…え、うん」


「マム、ノエルの言うルカ兄というのは、マムお付のルカのことです。私と彼、それからライとミロの四人は同郷組ですが、私たちが地元を離れるまでの間、ノエルとは家族のように接してきました」

「あら、やっぱり。なんとなく、そうなんじゃないのかと思っていましたけど」

途中遮ってでも質問したい気持ちが渦巻いたが、ロキはノエルに口を挟ませることなく早い口調でエテンナに説明した。

「面白いわ。遠く離れたレーンヴァルトという土地から将来を嘱望される剣の使い手がまた一人、新たに入学してきたというわけですね」


嘱望と言う言葉の意味は理解できなかったが、好意的に見られているのはなんとなく分かった。

「いえ、そんな。まだまだですあたしは」

謙遜するノエルにヱテンナは落ち着いた表情で笑みを返してくる。

「ここで鍛錬を積めば、あなたもきっとそうなれると思いますよ。ここにはあなたを成長させてくれる環境があります。姉と慕う人、兄と慕う人もいます。これからたくさんの出会いがあなたを待っているでしょう。でも、イーギスにいることに安心しないで。あなたの未来は今のあなたのがんばりで決まります。応援していますよ」

「はい、ありがとうございます!」

今のノエルに当初の緊張はなく、木漏れ日で明るい室内に朗らかな声を響かせた。

学長の激励の声に気分が高揚する。

隣のヨハンも峻厳な顔に薄い笑みを浮かべていた。



話はこれで終わりかと思ったが、学長はノエルの顔をじっと見つめたまま視線を外そうとしなかった。

まるで今までのは全て前置きで、本題はこれからだとでも言わんばかりの顔つきである。

確かにお互いに挨拶を交わした程度にすぎない。

よくよく考えてみれば、分刻みのスケジュールを過ごす多忙な学長ともあろう人が、わざわざ自分のようなどこにでもいる普通の一学生に貴重な時間を割いてくれるだろうか。

そう言えば、この場をセッティングしたロキの真意も聞いていなかった。


「エントランスで騒ぎがあったみたいね。入学していきなりのことで、流石に面食らったのではないかしら」

いきなり口を開いたヱテンナにノエルは背筋を伸ばした。

「そうですね、少し、びっくりしました」

情報はもう耳に届いていた。ロキと連れ立ってここまで来たので、他の誰かが伝令したのだろう。


そこでヱテンナは少し間を置いた。

次の話をどう切り出そうか考えているのかもしれない。

ヨハンとロキも最高権力者である彼女の言葉を待っているようだ。

何か重大なことなのだろうか。

ノエルはきもち身構えた。

「ノエル、これから言うことを心して聞いて欲しいのだけど」

声音を落とし改まるヱテンナにノエルは神妙に頷いた。

「恥ずかしい話、今年になってからああしたことは頻発しているのよ」

「喧嘩が、ですか?」

「週に一回二回はね。小さな小競り合いまで含めると実際はもっと多いのかもしれないけれど」

ヱテンナは見て取れるか取れない程度の自嘲気味な笑みを見せた。


「今回の一件、あなたに落ち度はありませんよノエル。聞けば手を出したのは相手で、あなたは自分を守ったに過ぎないのだから。事実関係は明白です」

それを聞いてようやくノエルは安心することができた。

ロキはああ言ってくれたが、相手のリンが腕一本やってしまったのはいささかやり過ぎたかと後悔も少なからずあったからだ。

完全復帰には確実に数か月要するだろう。

顔を合わせることはしばらくの間ないだろうが、なかなか気まずい関係になってしまったのは否めない。


「君に絡んできたリンという男子生徒は以前からその素行に問題があった。相手に怪我をさせることもしばしばでね。君もさぞかし不愉快な思いをしたことだろう。自業自得だとは言わないが、これで少しは態度が改まると我々の悩みの種も減るというものだ」

ストレートな表現をするのは副学長だ。

「早い話が、魔術科と武芸科の間には決して無視できない軋轢が横たわっているのです。私達は生徒たちが抱えるそうした問題に有効な解決策を打てていません。本学で対応せねばいけない学外の問題以上に、学内の問題は対処が難しい。ノエルには嫌なところを見せてしまいましたね」

都合の悪い現実を見定めた時、おのれのプライドが邪魔し物事の本質が霞んで見えてしまうのはよくあることなのかもしれない。


しかしイーギス学長としてのヱテンナはそれをしなかった。

一学生に対してまで、至らなさを吐露する率直な姿勢にノエルは好感を覚える。

「近々今回のような件をまたどこかで目撃するかもしれないし、それにまた巻き込まれてしまうことになるかもしれません。先の一件ちょうどいいと言ってしまうと語弊があるけれど、百聞は一見に如かずです。この問題の根深さを事前に知っておいてもらうのはこれから四年間をここで過ごすことになるあなたにとって、決して意味のないことではないと思います。ロキ」


「はい、マム」

話の続きを受け取ったロキが真剣な面持ちでノエルに向き直った。

「細かいことは後からいくらでも聞いてちょうだい。単刀直入に説明するわよ」

沈黙を守るノエルの反応を見て取ったロキは一呼吸置いてゆっくりと話し始めた。

「武芸と魔術、両科の間には差別意識があるわ。それが軋轢の正体。さっきのは氷山の一角よ。イーギスが設立して来年でちょうど八十周年を迎える今となっても、昔から延々続く両者の溝の深さに変化はない。むしろ今が最高潮ね」


「ロキ姉の時から?」

「そうよ。学内の雰囲気は常にピリピリしていたわ。だからね。申し訳ない気持ちもあるのよ。何も解決できないまま、あんたの代にまで引き継いでしまっていることに」

事態はノエルが思う以上に複雑に込み入っているらしい。

淡々と簡潔に語るロキだが、この説明をするのもどこか慣れているようだ。


平気で無茶をする兄たちに面白がって文字通り体当たりで付いていったノエルはロキに止めはされなかったものの、親以上に心配されているのは分かっていた。

女の子なんだからもっと大事に扱いなさい!とやんちゃな少年たちを咎める少女はその頃からどこか大人びたところがあったように思う。

時に厳しいがロキの気遣いは今も変わらない。


「ううん、わたしは大丈夫だよ。ありがとう。そういえば、さっきの人たち、魔術が世界に明確な線引きをしてるとか何とか言ってたけど、あれってどういうこと?そもそもなんで差別してるの?」

「あんたも知っての通り、魔術は誰もが使えるわけじゃないわ。生まれ持った才能がそれを分けるのね。あんたは好きじゃないだろうけど、完全に努力が実らない世界よ。彼らが言っていたのはまさにそこなのよ。俺たちは選ばれ、お前たちは選ばれなかった。生まれついての勝者と敗者。平たく言うと、こういうことね」

「なにそれー!ちっさ。おかしいよそんなのって」

ロキの説明にノエルは憤慨した。


「ちっさかろうと何だろうと、こういうことが現に起きているのよ。わたしたちのこのイーギスで」

「でも魔術が全てじゃないでしょ」

「あんたの言う通りだけど、彼らに言わせればその主張は敗者のする主張らしいわ」

その言葉にノエルは押し黙る。


「疑問を持つことはできてもそこで何ができるかは別物です。イーギスは頭の好い子が多いので自分の便益に叶う側につくのです。それが分断をより大きくする。正しい行動を取るために、毎回理屈が必要とは限りません。良くないことは良くないと素直に声を挙げられるイーギスにしたい。私が理想とするのは健全な感情論。それがまだ出来ていないのは私の不徳の致すところなのですが」

「マム、この子はただ感情的なだけです。それは私が保障します」

それは褒めてくれてるのかそうじゃないのかどっちだ。

非常に分かりづらいが、ノエルはとりあえず黙っておくことにした。


二人の会話を見守っていたヱテンナが口を開く。

「今から八年前に元々別だった魔術と武芸の大学同士が合併し、現在のイーギスが生まれました。燻っていた火種が危険なものになることが予想されていた上での強行合併です。なんとかしないといけないという現場の思いとは裏腹に、素晴らしきこの実験的な試みの結果は、魔術は人を選抜するという絶対的な真理を前に、これまでも、そしてこれからも決して看過してはならない我が校最大の懸案事項となっているのです。これはイーギスでなければ顕在化しない問題でしょう」

言葉を選ぶようにして紡がれたヱテンナの言葉にずしりと重石を感じた。

レーンヴァルトという長閑な土地で育ったノエルにとっては、この対立関係は正直理解しがたいところがある。

すぐに咀嚼できるものではない。


隣人もそのまた隣人も家族同然の付き合いがあり、そうした絆の上に、今のロキとの関係がある。

喧嘩やいさかいこそあれ、次の日には笑って許せるようなそんな懐の深さがあるのだ。

この現実に我が身を置く不運を呪いはしない。

ただ、垣間見せられた現実は実際かなり衝撃だった。


「差別意識は不健全な競争をも生みます。それは学校がハイレベルを維持できている要因にもなっていますが、一方では魔術と武芸の穏やかならざる事態にも繋がっているのですよ」

とにかくと言い、椅子の上で深く座り直した学長はノエルを見据えた。

「抜本的な解決方法が見えない現状ですが、そういった根深い問題が存在することを知っておいてもらいたかったのです。理由も分からず過ごすことは、何よりあなたのためになりませんからね」

「お気遣いありがとうございます」

これを知ってもらうために、おそらくロキはノエルをここに案内したのだろう。

落ち着き払った学長から苦悩の皺が消えた。


学長の隣に付き従うように立つヨハンがおもむろに口を開く。

話がひと段落ついたのだろう。

「エテンナ、そろそろお時間です」

ノエルが壁の時計に目をやると、入室してから一時間はゆうに経過していた。


「あら、もうそんな時間。ごめんなさい、ノエル。もう少しお話したかったのですが、今からでかけなくてはいけないの。私はこれで失礼しますね」

「あ、はい。分かりました。お気をつけて」

肩を落とし心底嫌そうな表情を浮かべる学長にノエルは笑って応えた。

「私は若い人ともっとお話がしたかったのだけれど、学長なんてやってると、つまらない雑事が勝手に予定に組み込まれてしまうから切なくなるわね」


「学長、つまらない集まりとはなんですか。メテオラ対策として今後の警備を話し合う必要があるのです。ブレーズ殿も此度の計画に参画されるのに、あなたが欠席では釣り合いが取れないでしょう。そうでなくても、あなたは警備委員長として期待されている身なのですから。それでありながら、あろうことか雑事とは」

先ほどまでの凛としたヱテンナとのギャップにノエルは苦笑気味の戸惑いを覚えるが、いつものことなのかヨハンは毅然としていた。


学長は忙しいわねーなどと口にしながら支度を整えているが、身振り手振りを交えてくどくどと説教する事務長には耳を貸さないと心に決めているかのようだった。

紳士だが気の毒な事務長に案外お茶目なところがある学長。

その対比に自然ノエルの顔はほころんだ。

「マム、いってらっしゃい」

そう言ってロキが開けた部屋の扉を通る時、上品な装いに意地悪な笑顔を浮かべ、ぺろっと下を出した学長をノエルは見逃さなかった。

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