歓喜と悲劇のオニオンガール #5 泣き虫ノエル

一人では当の昔に退出しているはずの学長室だが、ヱテンナからは引き続き使用許可が下りていた。

もちろんロキがいるからである。

学長秘書という役職がどれほどの権限を持つものなのかノエルには想像もつかない。


ただ、少なくとも主不在の部屋の勝手を自由にさせてもらえる信頼の強さは見て取れる。

秘書だからではなく、学長とロキの間の関係ゆえだろう。

頭の回転が速く、大人顔負けの知識量を誇り、それでいて誰に対しても分け隔てなく接することのできる彼女は、幼い頃から周囲からの信頼が篤かった。

元々有能なのは嫌と言うほど知っていたが、イーギスにいる間にますます磨かれているようだ。


「さっきの話だけどさ、ミロ兄が刑務所にいるってどういうこと?」

学長と事務長はすでに学長室を辞しており、先ほど正門を抜けて街の中に消えていくのを窓ごしに見た。

その時、ヱテンナの隣にルカの姿を発見したノエルは、彼が学長専属のボディーガードをしているという話の流れを思い出し、忘れかけていた疑問を改めて口にしていた。


内容が突飛過ぎて想像することさえ難しい。

一体どういうことなのか、さっきも確認したくてたまらなかったが、学長が語る話の本筋から逸脱する内容のようなのであの場では黙っていたのだ。

「言葉通りよ。今あいつはジェラルド刑務所の監獄の中にいるわ」

「ジェラルドに!?なんで?!」

思わず聞き返したノエルの顔に、今日一番の驚愕が走った。


その刑務所はマーセルから鉄道で移動しても二日はかかる距離にある。

凶悪犯ばかりを収監した悪名高き刑務所だ。

血の繋がりこそないとはいえ、ミロはノエルの大切な兄代わりなのだ。

鉄砲玉みたいな性格をしていた彼だが、一体何をやらかして刑務所などにいるというのか。


気持ちがせくノエルはロキにソファを勧められ腰を落ち着けた。

「まあ落ち着きなさい。別に無期懲役とか死刑とかそんなんじゃないから」

流石にそこまで酷いものを想像していたわけではないが、そんな不穏な言葉を吐かれてはどうにも安心できないノエルである。

ただロキの顔は至って平静だ。

とてもじゃないが、上等なソファの感触を確かめている余裕などない。


「街でちょっとした騒ぎにまきこまれちゃってね。去年の暮れよ。ほら、あんたも知っての通り、誰が相手でもミロって喧嘩上等なところがあるでしょ。私たちが慌てて駆けつけた時には、複数いた相手は全員重症。あの喧嘩っぱやさはどうにかならないものかしら」

「え、でもミロ兄は巻き込まれたんでしょ?だったらなんでミロ兄が刑務所なんかにいるの」

「相手はシシリー・マッツの構成員でね。お互い休戦協定を結んでるのに手を出してしまったのよ。それだけならまだ喧嘩両成敗で済ませられたかもしれないけど、物見遊山に来ていた政府の役人を成り行きで殴り倒してしまったのが、刑務所送りの決定打になってしまったというわけ」


シシリー・マッツはノエルも耳にしたことがある。

マーセルの裏社会を牛耳る最強最大のマフィアだ。

三流のチンピラからインテリまで幅広く、血生臭い悪評ばかりが盛んだった一昔前とは違い、今では様々な合法的な事業を営み、財を成していると聞く。

現在のボスは確か四代目。

新天地をイーギスを選んだ以上、関わり合いを避けては通れない相手になるだろう。

「全くアイツらしいというか」

ロキの呆れは深い。

その時の光景を思い出したのかもしれない。

「あいつを止められる人間はそんなにいないのよね」


ミロは手が出るのが誰よりも早かった。

週一の頻度で派手に喧嘩しては生傷をこさえていた兄の顔が脳裏を掠めていく。気に食わなければ相手が目上であろうが強者であろうが黙っていられない性分なのだ。

おかげで乱暴者のレッテルを貼られがちなミロだが、ノエルはふと思い出す。

まだ小さかったノエルが町のいじめっ子たちにからかわれた時、誰よりも早く駆け付けてくれたのはこの兄だ。


仕返しが過ぎたせいで相手の親から逆に怒られることも珍しくなかったが、そんなことでミロが懲りた試しはない。

その辺りは大人になってもちっとも変わらないらしい。

刑務所にぶちこまれていようがマフィア相手に大立ち回りを演じようが、それでも大好きな兄なのである。

彼がする喧嘩は買う喧嘩だ。

売るところを見たことはない。

今にして思えば、正当な理由で暴れられることにどことなく喜びを感じている節があったが、そう考えれば確かに余計な一発をかましてしまう事態も想像できなくもない。


「なんでまた、政府の人まで殴っちゃったの?」

「さあ、それはミロが言いたがらないから私たちにも分からないのよ。まあ服役は夏までには終わるはずだから、何もなければ、イーギスに戻ってこれるはずよ。そのとき改めて訊いてみるつもりよ」

「まあ、無事であればいいんだけどさ。でもそんなことあったのにロキ姉言ってくれないし、嫌だよそんなの」

不満気な表情を全開にしてノエルは目一杯口を尖らせた。

それが自分にとってどれほど大きなストレスなのかを、この人には知っておいてもらわなければいけない。

「ごめんね。こっちに来る事は分はかっていたし来れば分かることだから」

言下に出たその言葉にノエルはロキの顔を見つめたが、彼女はノエルを見ていなかった。


気にしすぎかもしれない。

ロキとしてはいつもと何ら変わらない返答のつもりだろう。

ただ、そんなにも淡々と抑揚もなく言ってほしくないのだ。

「それっていつのこと?」

「ん?ニヶ月前ね。確か入学式の翌日だったわ」

「手紙の中にはさ、そのこと書いてなかったよね?」

消印がその三日後の手紙がイーギスにいるロキから届いたのだ。

となればロキは敢えてそれを知らせなかったことになる。

うっかり忘れるようなロキではない。

ミロの無事を確認できたのは素直に喜ばしいことだが、ただその気遣いは余計だった。


「うーん。あんたもそっちで忙しかったと思ったのよ。それまでの間に余計な心配はかけたくなかったの」

「でも、もう子どもじゃないよあたしは。心配かけたくないとか、そういうのいらないよ。そういうのは子どもにするものでしょ?」

「ノエル?」

「ずっと一緒にいたんだよ。あたしにも教えてほしいよ」

ノエルは膝を見つめたまま言葉を吐き出す。


自分でも視線が彷徨っているのが分かった。

ロキは今どんな顔をして聞いているのだろう。

毎年暮れには地元に帰省していたロキと違い、三人の兄はついぞ帰省することはなかった。

きっと仕事が忙しいのだと子ども心に無理矢理納得していたがやはり寂しいものは寂しい。

ただ、ルカとライは一年に一度、手紙を寄越してくれてはいたのでまだマシだ。

ミロはそれすらなかった。


だから、彼だけ音信不通状態がもう七年も続いている。

「ロキ姉たちは四人でいられても、あたしは田舎で一人、時々くる手紙をものすごく楽しみにして、七年間も寂しい思いしてたんだからね。今何してるかなーとか今日はいい日だったかなーとかばっかり考えてたんだからね」


いきなりこんなことを言い出してロキは驚いているかもしれない。

なんでミロの話からこんな話になってしまったんだろうか。

自分でもよく分からないでいる。

かろうじて残る冷静な部分がそれを思い出そうとするが、意思に反して次々と口を突いて出てくるのは、誰とも共有できず、ずっと溜め込んできた感情だ。

「ねえロキ姉、あたしがそれ、どれだけイヤか知ってるよね?」

ハッキリ言ってこれは言いたくなかった。

まだ言いたくなかったというほうが正しいかもしれない。


のけ者にされたとか意地悪されたとかは思っていない。

ロキはそんなことはする女性ではないのは自分が一番知っている。

彼女が自分のことを大切にしてくれているのは一緒に過ごした長い月日の中で十分に理解しているし、年に一度はちゃんと自分のところに顔を見せに来てくれたりもした。

四人の兄と姉のことはみんな同じくらい信頼している。

誰が一番でもない。

けれど、同性の繋がりは大きいようで、最も同じ時間を共有してきたのは、たった今自分の目の前にいる年上の女性だった。


だから、本心の吐露を止めることはできなかった。

何か伝えたい事や悩み事があった時、真っ先に聞いてもらっていたのはロキなのだ。

これまでも、そしてこれからもそうだとノエルは思っている。


何かを感じたのか、対面のソファから立ち上がったロキがテーブルを回ってゆっくりとこちらに近づいてくる。

隣に座る気配を感じた。

彼女の香水の匂いにノエルがはたと顔をあげる。


姉のグレーの瞳が自分を見つめていた。

見通すことができないほどの深奥にノエルは吸い込まれそうになる。

しばらくの間ロキは何も語らなかったが、唐突にふっと笑みを見せた。

「分かる?今も香水はレーンヴァルトのものなのよ。こっちで色々試してみたんだけどね、やっぱり地元のローズの匂いは忘れられなくてね。自分が生まれ育った土地だし、なにより、あんたたちと一緒に過ごした思い出の匂いみたいなものだから」


「わたしのこと思い出してくれたかですって?私はあんたのなんだと思ってるの。姉でしょうに。血の繋がりなんてなくても、私はあんたを本当の妹のように思ってるわよ。あの三人も同じ。それはこれからも、これまでと同じように変わらないことよ。悲しかったのよね?ごめんね、ノエル。配慮が足りなかった私を許して」

それを聞いて涙が目に溜まった。

口をへの字に曲げて、泣くまいと堪えたが無理だった。

ロキに抱きしめられたからだ。

「そうよね。あんたが一番怖いことなんだよね」

とうとう嗚咽を漏らし、声をあげて泣いてしまった。

「…家族じゃん。家族はいつも一緒だよ」


ロキのふくやかな胸元に顔を埋める。

ノエルの癖だ。

泣く時はロキの腕の中と決めていた。

服を自分の涙と鼻水で汚してしまっても、ロキが気にする様子はない。

懐かしいローズの香りは昔と変わらぬロキの匂いだった。


四人は卒業後も地元に戻らずに揃ってイーギスに残ると聞かされた時にはひどく動揺したが、同時にひとつスッキリするものもあった。

自分もイーギスに行けばいいのだ。

待つのは疲れる。

待つだけで辛い思いをするよりも、いっそのこと自分から会いに行けばいい。

そこなら毎日顔を合わせることができるのだ。


田舎から都会へ。


これまでの人生の中で間違いなく最も大きな決断になろう。

将来どうするかについて色々悩みが出始めた時期だったが、その報せがもたらしのは傷心ではなく、未来だった。

おかげさまで悩みは一瞬で消え去った。

以来それがノエルの強烈なモチベーションになったのは言うまでもない。

ノエルの頭を優しく撫でるロキが唐突に口に開く。

「来週にはライがエッシャーから戻ってくるわ」

「ライ兄が?」

「仕事帰りにジェラルドに寄ってくるって言ってたから、あんたにとってちょうどいい土産話を持って帰ってきてくるんじゃないかしら。昔からライはあんたを喜ばせることにはかけては超一流だからね」


聖シオン最大の一級河川が通る風光明媚なエッシャーと、ここマーセルとのちょうど中間地点にジェラルド刑務所はある。

先ほどの簡潔な説明ではライが何をしているのかいまいち分からないが、それはあえて口に出さなかった。

聞きたいことは本人に直接聞けばいいのだから。

久しぶりの再会に心踊るとはいえ、ここで駄々をこねて、これ以上ロキを困らせたくはない。

ついさっき、自分は子どもじゃないと宣言したばかりなのだから。


そんなノエルを余所に、予期せぬタイミングでロキは次の吉事を落としてきた。

「その時に、ミロはいないけど、わたしたち三人と食事でもどう?」

「え、ほんとに!」

ソファから身を乗り出したノエルの声が弾んだ。

あれだけ落ちていたのに、パッと顔を輝かせられるのは我ながら節操がない。

しかし構わない。


改めて、下がるのも上がるのも結局は全て四人が絡んだことばかりなのに気づかされる。

いかに自分の人生がロキを始めとした四人から影響を受けているか。

もちろん、そんな嬉しいことを言われて断るわけがない。

一緒に食事をするのは実に七年ぶりだし、何より成長した自分を見てもらいたかった。

本当は泣くほど嬉しいのだが、今度はなんとか耐えれそうだった。


「ライもあなたと久しぶりになるのよね」

「そうだよ。ライ兄は元気してる?何か変わった?」

「ライが落ち込んだりするところなんて見たことないわ。ノエルを大切にする気持ちと、そうねえ、あの身長だけはちっとも変わらないわよ」

からかうような口ぶりにノエルは濡れた目尻を拭き取り、歯を見せて微笑んだ。

背の低さを気にする兄はロキよりも低い。


ノエルも通っていた剣術道場でルカと拮抗した実力を持つ彼だが、中身と見た目がはっきりと相反している。

見た目が童顔で猫っ毛なので、少女に見間違えられることも度々あった。

傑作なのはノエルがライと町を歩いていると仲睦まじい姉妹に見られることだ。この場合の姉役はもちろんノエルである。

思い出し笑いをしたノエルがそのことをロキに伝えると、思った通りロキが破顔した。


「わたしからまた連絡するから。その時まで、イーギスの生活に慣れていなさいね。そうでなくても、ここではやることがたくさんあるんだから、それに追われてせっかくの食事会に参加できないって、あんたイヤでしょう?」

「うん、イヤ!わかった!」

話はこれで終わりだ。

長旅の疲れと色んな話に頭の中はすでにパンパンだ。

腹を満たしにノエルは食堂に行こうとソファから腰を上げる。

まだお昼前だから、今晩眠りにつくまでの間にやっておかねばいけないことはたくさんある。

ノエルにとっては入学初日なのだ。

ただ、餃子だけはやめておこう。

部屋から退去しようとするノエルをロキが引き留めた。


「ちなみに噂のシシリー・マッツのボスのご子息もこの学校に在籍してるから。あんたは色んな意味で目立つからね。今朝みたいなことに下手に巻き込まれないよう注意しなよ?」

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