歓喜と悲劇のオニオンガール #2 イーギスの洗礼

イーギスグランカレッジ。

通称イーギス。


独立軍事訓練校としての機能を備えたこの大学にノエルはこの度入学することになった。

聖シオンにある第二の州都マーセルは東西南北に敷かれた鉄道路線によって、おおまかに言うとエリアが四つに分割されている。

イーギスは北東エリアに位置し、鉄道が十字に交差する巨大な中央駅から徒歩で三十分と遠くない。

全体的に見て北東エリアにはアカデミックな装いが目立ち、イーギスを筆頭に複数の学校や研究施設、図書館などが存在した。

マーセルという街は人種のるつぼとされている。


異文化を受け入れ続けることで醸成されたこのカオスな雰囲気がこの街を発展させてきたと主張する学者も多い。

人口、経済ともに州都マーセルは首都ではなくとも、名実ともに聖シオンの要であった。

二十四時間エンジンがフル回転しているかのような熱量こそがこの街の最大の特長であり、国際都市としての評価を内外から集める中で、商売気の強い移住希望者は後をたたない。

もっと言えば、聖シオンという国そのものが隣接国間同士の交通中継役を果たしており、近年の産業勃興による鉄道技術が発達するにつれ、往来量はますます右肩上がりだ。

とりわけマーセルの発展は十数年約束されているようなものだった。


しかし、光あるところに影あり。


マーセルの負の側面は誰もが知るところだ。

刑の重軽を問わず、とにかくトラブルが多い。

空前の景況とひきかえに手にしたものは治安の悪さだった。

多人種を抱え込むが故に、様々な思惑が複雑に絡み合い、日々衝突を繰り返す。

そのうえ聖シオンは地政学的な懸念も指摘されている。


西に帝政マクシミリア大公国、東にはゼルリッツ連邦。

この国は不穏な二大国に挟まれ、実に様々な因縁と因果に巻き込まれながら両国の緩衝地としてしたたかにその歴史を重ねてきた。

そんな裏も表も内包するマーセルにあって、イーギスの存在理由はただ一つ。

魔術を駆使した強力な国防である。


多数の使い手を輩出してきた名門校としての実績と戦力はアンチへの牽制にもなっており、学生と言えども治安維持への貢献度合いは計り知れない。

そんな由緒正しきイーギスにノエルは入学した。

田舎暮らしで一生を終えるのではなく、自分も何か国や地域に貢献できる仕事がしたいという純粋な思いが芽生えたのだ。

そのきっかけになったのは、現在イーギスにいる家族ほどに近しい四人の存在だった。


弾む気持ちを抑えつけるのにどれだけ苦労したか。


なんといっても、大好きな三人の兄と一人の姉にやっと再会できるからだ。

教育熱心だった両親がお転婆とはいえ、一人娘のノエルを都会に出すことに了承してくれたのはひとえにその四人の存在が大きい。

小さいころから遊んでもらっていた娘を持つ親にとってみれば、自分の息子娘も同然ということらしかった。


家の中で遊ぶよりも野山で暴れ、もとい走り回ることに無類の楽しみを見出し始めていた幼い頃のノエルは、無理に女の子らしくしなさいだとかもっと勉強しなさいだとか、親にそのようなことを言われた試しはないし何かを強要されたことだって一度もない。

我が両親ながら教育に対する熱心さは人一倍強かったように思うが、いつだって娘の選択は尊重してくれた。


ノエル自身、町の私塾には通っていたので読み書き、算術は人並みにできる。

しかし、机に向かって教科書を読むという行為にただならぬ苦悶の表情を浮かべるノエルを不憫に思ったのか、先生は苦笑を浮かべながら「好きなことをやりなさい、机の上の勉強ばかりが全てじゃないから」と囁いた。

この一言が決定打になりノエルの勉強嫌いは拍車がかかることになるのだが、昔から好きなものは依然として変わらない。


剣術。


もともと体を動かすことに喜びを覚えるノエルである。

やんちゃな兄姉たちに遅れをとらないよう後ろに引っ付きながら、ちゃんばらに明け暮れた当時の記憶も懐かしい。

近所の剣術道場に通っていたノエルの上達速度は誰よりも速く、また誰よりも強かった。

自分より年上の男の子と互角以上に打ち合えたことは彼女の自信を大きくした。

生来頑丈だった身体はさらに丈夫になり、女子の身長としては町でも五本の指に入るほどにまで大きく伸びた。

ノエルが十五歳になった夏。


将来を見据えた結果として、たくさんある選択肢の中からノエルは剣術科のある名門イーギスグランカレッジだけに焦点を絞った。

十八になるまでまだ三年もあったが、途中で止まってしまった時間を再び動かすためには、彼女にとってはこれ以外の選択はありえないのである。


「セーフ。ロキ姉まだ来てないよねー?」


時計の針は約束の時間の八時十分前を指している。

これから会う予定のロキは時間にルーズなやつを本当に嫌うので、ほぼ一年ぶりの再会を遅刻で飾ってしまうわけにはいかない。

手紙に書かれていた掛時計はすぐに見つかった。

ノエルはリュックを下ろし、ロキが現れるのを大人しく待つことにした。

あてもなくふわふわ散策していては、先ほどと同じ轍を踏むことになりかねない。


幸い実家から本を数冊持参してきていたので、読んで時間を潰すことにした。

手馴れた動作で鞘をベルトから取り外し柱にたてかける。

何度握ったか分からないほど使い込んできた剣である。

学校支給のものを使うよりも、身体に馴染んだこっちのほうが断然いい。


しおりを挟んだ項に指を入れたその時、先ほど通ってきた正面玄関あたりで誰かが口論してることに気が付いた。

顔を上げれば、四人の男たちが口々に何かをののしり合っているようだった。


「君たちのせいでボクたちがワリを食ってるんだよ。武芸をするしか能のない馬鹿なんだから、イーギスの貴重な財産であるボクたちに迷惑などかけないでもらいたいね」

「なんだと。もういっぺん言ってみろ。舐めてるのか?」

「ああ何度でも言ってやろう。悪目立つするんだよ君たちは。君らの素行の悪さが原因で、あらぬとばっちりを受けてるのはボクたち魔術科だ。因縁をつけられる謂れはないし、むしろ謝ってもらいたいくらいなんだけどね」

「なまっちろい軟弱野郎のくせに偉そうな口をきいてくれるじゃねえか。ろくな魔術もできねえくせによ」


「頭の悪い単細胞と話をすると疲れるな。いいか。魔術の力をなめるなよ。簡単に使えるのなら誰も苦労はしないんだ。そこにすら到達できてない筋肉馬鹿に言われることではない。言わせてもらえれば、武芸など落ちこぼれのやる科目だ」

「てめえ、先輩に向かって自分の言っていることが分かってんのか」

「また、ご自慢の腕力に訴えるのかい?だったら、頭の中まで筋肉でできてるとみなすが構わないか?」

「こいつ、何様なんだよ、ああ!」


「言い返せないからって大きい声を出すな。違うんだよ君らとは。生まれる前から運命は決まってるのさ。魔術が世界に明確な線引きをしていることくらい、いくらおつむが弱い君たちだって、よもや知らないわけじゃないだろう?」

「だったらなんだ。そのいけすかねえクソみたいな線引きなんざ知ったことか」

「だから馬鹿と言われるんだ。もっと現実を学ぼうよ」

「てめえは!」

「世間の評価は君たちの態度も含めて作られるんだから大人しくしていろ。こうして同じ空気を吸うのもこっちは苦痛なんだよ。馬鹿が空気感染すると困るからね」

「言わせておけば、ぶっ殺してやる!」


誰かが止めに入る気配は皆無だ。

どこからか集り始めた野次馬たちもこの状況を楽しんでいるようで場は次第にエスカレートしていった。

ただならぬ雰囲気が漂っており、まさに一触即発である。

背の高い禿頭の男子は怒りに震え、もはや殴りかかるのは時間の問題だった。

ノエルは本の世界に没入しかけた意識をすぐに切り替え、本を閉じてすぐに声を張った。

自分の目の届く範囲で起きた喧嘩なら、黙って見過ごすわけにはいかない。


「ちょっとちょっと、何やってんの!」

殺気だった男たちが一様にノエルに振り返る。

「あ、なんだてめえは。邪魔すんなよ」

ノエルも女性にしては身長が大きいほうだが、今目の前にいる禿頭の男は頭一つ分大きかった。

肩幅もあり、あの太い腕でまともに殴られたら骨の一本くらいは覚悟しなくちゃいけないだろう。

しかし、そんな体格差に怯えるほどノエルもやわではないし、荒事も苦手ではない。


だが、ノエルが場に近づくにつれ、ハッキリしだした彼の顔を見たとき意思に反して少し笑ってしまった。

瞳がつぶらなのだ。

同世代かといぶかしむくらいの厳つい顔にこれである。

このアンバランスさを始めて目にして笑みが漏れてしまうのを耐えられようか。

そのことを知ってか、他の男たちもノエルの微妙な表情を見て何かに納得したようだが、そのことについては誰も責めてこなかった。


「人の顔見て何笑ってんだ。どっかいけ!」

「あ、や、ごめん。でも喧嘩でしょこれ?だめだよ」

幸いにも当人は全く気付いていないようだった。

深呼吸をするノエルに周囲の目はどこか生暖かい。

誰も彼にこのことを伝えたことがないのだろう。

人の欠点(と思っているかどうかは知らないが)をあげつらう趣味はノエルにはないので、もやもやした感覚を振り払うために頭を振った。


「てめえ、俺が誰だか知ってんのかコラ」

「知らないよ。それって今重要なの?」

「なめてるんのか、てめえからぶっとばすぞ!」

男のこめかみに青筋が走る。

この程度で癇癪を起こすとは、気の短さにノエルは嘆息した。

「見ての通り、むしゃくしゃしてるんだ。なんならお前からやってやろうか、この野郎」

「野郎って。あたしは女だ!」

「あ?!」

男たちだけでなく周りの野次馬たちもノエルの突然の抗議に目を瞬かせた。


「取り消せ、訂正しなさい!」

「くせえ!てめえニンニクくせえぞ!」

いきり立ったノエルから男たちが鼻を押さえて数歩離れる。

その仕草にノエルははっと何かに気が付いた。

「餃子だな、このにおいは?!ったく朝からんなもん食ってるんじゃねえよ!」

「あ、るっさいわね!あたしが何を食べようとあたしの勝手でしょうが!」

ノエルは口元を押さえ、顔を赤らめるがいかんせん勢いがない。


店主のご好意により、追加でお皿に盛られた二十個の餃子は今や胃袋の中だ。

涙が出るほど美味しい食感とひきかえにノエルに残されたのは、口を開けば全てを退けるほどの破壊力を込めた臭い息だった。

そう言えば、さっきの守衛さんも少し顔をしかめていたような気がする。

どうでもいいが、自分では分からないのが難点である。

「とりあえず離れろ、あっちいけ!」

本当に嫌らしく、自業自得とは言えノエルはかなり傷ついた。


そして死ぬほど恥ずかしい。

オニオンガールという有難くない渾名をつけられ、これから四年間も恥辱に耐えねばいけないのだろうか。

大学デビューにやり直しは利かない。

もう最悪である。

でも女にそこまで言わなくてもいいではないか。

勝手な被害妄想に入りかけたノエルだったが、聞き捨てならない台詞をふいに思い出し、一気に沸騰した。

「あたしは女だ!見てわかんないか!」


「下品な女だな」

「むかっ!」

信じられない者を見るような目でノエルを見ているのは、ノエルと同じ背の男子生徒だった。

先ほどの禿頭とやりあっていた男子生徒だった。

少女と見まがえるほどに整った容姿をした男の肌は透き通るように白い。

その白さに浮き立つのが目元の薄いクマだった。

黒いハットに両耳の赤いピアスと、他の生徒がしてないだけに外見からしていやに目立つ。

極めつけは真っ白な頭髪だ。


薄ら笑いを浮かべたその男はノエルの足元から頭の上まで、ゆっくりとなぞるようにして視線を走らせた。

男の表情から察するに、なんだか自分は何かとても残念な生物として映っているらしい。

「な、なに?そんなやらしい目で見ないでよこの変態!」

わめくノエルの言葉に、ピアスの男は視線を貼り付けたまま口角を吊り上げた。

「ボクに向かって変態とは、ね」

刺し殺すような視線にノエルは目を見開く。

負けじと眉間に皺を寄せて男を睨み付けた。

喧嘩を止めに入ったつもりが、今や完全に立派な乱入者である。

頭に血が上っているせいで冷静な判断など望みようもない。


「とにかく!喧嘩やんならよそでやってよね」

男の耳元でピアスが揺れた。

何を得心したのか知らないが、何度か小さく頷いたからだ。

微笑を浮かべる男は何かを考えているように見える。

右手でハットの位置を直した男は視線はノエルに貼り付けたままやおら声を上げた。

「リン、この下品な闖入者のおかげでこちらは興が覚めてしまった。やるなら君一人でやれ。それじゃあ」

「クロエ、待ちやがれ!」

「待ってもいいが、これ以上ボクを怒らせるな。あの時のように、ひどい目に会いたくなければね」

冷たく吐かれた言葉に何かを思い出したのか、リンと呼ばれた生徒は歯噛みし燃えるような目でクロエを睨み付ける。

満足そうに笑みを浮かべた青年は軽い足取りでその場を立ち去っていった。


「なにアイツ。人を小馬鹿にして」

立ち去る背中が遠ざかっていく。

拍子抜けするような退場にノエルは鼻を鳴らし、リンに向き直った。

「あんたも何かあったのね」

「関係ねえやつはすっこんでろ!」

大柄な男は声をがなりあげ、ノエルを遠ざけようとするようにして、わずらわしそうに手を払った。

「何その言い方。人が心配してるのに。それにさ、さっき止めてなきゃ殴ってたでしょうよ」

「しるか。どっかいけ」


全員の注目は今やノエルの一挙手一投足に移っている。

それはただ注目しているというよりも、どちらかというと、次は何をしでかすのかという興味本位に近い。

じろじろ見られるのは好きではないが、登場の仕方が仕方なだけに、ノエルは甘んじて受け入れることにした。

反対の立場なら自分もきっと同じことをするだろう。

とはいえ、これで一件落着と済ませられるほど楽天的ではない。

立ち去ろうとしないノエルにリンが業を煮やしたのか距離を取りながらも顔を凄ませた。


「誰だお前は。見ない顔だな」

そうだよな?とリンが周りに確認している。

ざわつく野次馬たちも首を捻っているが、そりゃそうだ。

ノエルはさっき来たばかりなのだから。

自分のことを知っている人間はもうすぐここに姿を見せるはずのロキしかいない。

これは一応自己紹介はしておいたほうがいいかもしれない。

色々あったがそれは一旦水に流そう。

これ以上ない失態を引きずって念願の学生生活を出だしから躓いてはいけない。

そう思い咳払いしたノエルだったが、口を開くより先にリンが質問を被せてきた。


「てめえ、制服はどうした」

なんだてめえって。

一瞬イラっとしたがノエルは懸命に怒りを抑える。

全員が臙脂のパンツに白のシャツという指定の制服を着用しているのに対し、ノエルは田舎から出てきたままなので私服だった。

もちろんイーギスの制服はまだ支給されていない。

それを生徒課で受け取ることも含めてロキと待ち合わせしているのだが、肝心の彼女はまだ現れる気配がなかった。

野次馬の一人から誰だとまた聞かれる。

ノエルは居住まいを正し、全員に向けてハッキリと答えた。


「今日からここの生徒なの。制服はまだもらってなくて。私はノエル。みんなよろしくお願いします!」

全員がにっこり笑ったノエルの顔をじっと見つめる。

リンが胡散臭げな視線を投げてきた。

「てことは一年か?」

「あ、一年だよ。十八になったばかり」

「…ノエル、一年?」

ノエルを覗き込むようにして、リンは禿頭を撫でて眉を顰める。

その円らな目でまっすぐ見つめられると正直辛い。

ノエルはハムスターのように頬を膨らませなんとか耐えた。

相対するリンの顔が不審に染まる。


「やっぱしらねえな。お前ら、そんな連絡聞いたか?」

「いや、しらねぇ」

「告知するの業務課が忘れたんじゃないのか」

野次馬の中から次々に声があがった。

「イーギスの入学式は二ヶ月前に終わったはずだが、今更なんだ」

「いや、それにはちょっと事情があってさ。途中入学なの」

ノエルは幾分かバツの悪い顔で口ごもる。

そこはあまり触れてほしくない。


リンはノエルの正面に立ち、物凄い形相で胸倉をえぐるようにして掴んだ。

「んなことどうだっていいんだよ。おいお前。イライラしてるのに、さっきから女のくせにでしゃばってきてるんじゃねえぞ」

「なにその男尊女卑みたいなの。女とか全然関係ないと思うんだけど」

こいつ、嫌いなやつに認定。

あまりの暴言にノエルの反応も自然つっけどんになる。


「あるんだよ。てめえ、マジでぶっとばされてえのか」

先ほどのクロエという男にしてもあの辛らつな物言いはどうかと思ったが、こいつもこいつだ。

「はー!?なんでわたしが巻き込まれなきゃいけないのよ」

全くもって意味が分からない。

掴まれた胸元に手をかけノエルは力を込める。

一向に離そうとしないリンをぐっと睨み、両手で腕を掴んでみたが生憎ビクともしなかった。


ノエルも決して非力ではない。

鍛えてきた自負がある。

しかし、今に限って言えば、単にリンの腕力はノエルの腕二本よりも強かったということだ。

力と力がぶつかれば当然強い方が勝つ。

「諦めろ。俺にたてつかなきゃ、こんなことにはなってなかったのになあ」

「なによ!何であたしがこんな目にあわなきゃいけないワケ?!ワケわかんない!」

「黙れ!てめえがたとえ女だろうが何だろうが容赦しねえんだよ!せめてもの情けだ。歯を食いしばれ!」

言い終わるや否や、リンの右腕が大きく振りかぶられた。


こいつマジか。

女を拳で本気で殴ろうとするか普通。

あんな力自慢にぶっとばされたら一発で病院直行だろう。

来た早々数か月は病院のベッドの上だ。

いや、その前に顔の原型とどめられるかあたし。

ロキ姉のように顔を大事にしてるわけじゃないけど、それでもボコボコになるのは嫌だ。

納得できる理由があるならいい。

正々堂々この頬を差し出そう。

しかし如何せん理由がバカすぎる。

何でこんな差別主義者にむざむざ因縁つけられなきゃいけないんだ。

しかもいまだにあたしのことを男として見てるみたいだし。

そりゃ確かに女の子っぽくないかもしんないわよ、スカートじゃないし、髪だって短いし。

でもさ、いくらなんでもちょっと失礼じゃないの?

そもそもあたしが何をしたっていうのよ。

喧嘩が始まるとみんなに迷惑がかかるから止めに入ったのに、今のこの状況はいったい何?

ええい、手を離せ!服にシワができちゃうじゃないか!

このやろう!

絶対素直に殴られてやるもんか!


誰もがその光景に息を呑んだ。


突然の状況にノエルが全く反応できていないように見えていたのだろう、野次馬たちの中から悲鳴が口々に上がる。

だが、力任せに振り下ろされた渾身の一撃がノエルの頬に届くことはなかった。

代わりにガン!という場違いな鈍い音と骨が砕けた生々しい音が重なる。

折れたのはノエルの頬骨ではなかった。

もしそうなら女の絶叫が聞こえるはずだからだ。


では、この粉砕音はどこから。

動きを止めたリンの顔は流血したように真っ赤に染まっていた。

苦痛に歪んでいるようで声もない。

彼の拳はノエルの眼前に差し出された大判の本にめりこんでいた。


「ぐわあー!」

野獣のような突然の奇声にざわめきが走った。

「リ、リン、どうした?!」

拳を押さえ崩れ落ちるリンに連れの男たちが色をなす。

右手首はおかしな方向に曲がっていた。

「素手なんだから当たり前だよ。鉄を殴れば骨もいかれるでしょ」

痛みへの耐性が高いのか、喚き散らさずに低く呻く男の禿頭を真下に見据えながらノエルは言い放った。

「何やってるんだてめえ!」

「わたしは別に何もしてないよ」

「リンの手が折れちまってるじゃねえかよ!」

「だから、鉄を殴ればそうなるって。素手なんだし」


実際にノエルは何もしていない。

殴られる直前に鉄のカバーを巻いた愛読書を眼前に差し出しただけだ。

手を出したのは相手であって、ノエルは手にしたままだった本で拳を受け止めたにすぎない。

悲惨な目にあったこの男は目の前に現れた大判本に確実に気付いていたはずだ。

だが、たかが本だ。

そんな浅はかで、往生際の悪い脆弱なガードなどないに等しい。

そう判断し、拳を振り下ろしたに違いない。

ただし、その結果がこれだ。


「なんで本が鉄でできてんだよ、おかしいだろうが!」

「なにが?」

「鉄とかありえねえだろうよ!」

「どうするかなんてわたしの自由でしょ。関係ないと思うけど。まさか、殴られる前にこれのカバーは鉄でできてるから、殴るときは注意してね?とでも言ったほうが良かった?」

連れの男たちが一瞬にして押し黙るのが分かった。


ノエルの説明に納得がいこうがいなかろうがノエルに責任はない。

本気で振りぬいてきた拳を鉄で受け止めこそしたものの、実際ノエルにもかなり衝撃が入っていた。

びりびりと震える両腕を撫でる。

尋常ではない怪力だった。

おかげで愛読書の背表紙は大きく凹んでしまっている。

「それにさ、何もしなかったら、ついてそうそうに病院行きだったのはあたしの方なんだからね。納得してないのに大人しく殴られる人はいないでしょ」

顔を挙げたリンが自分を見ていることに気づいていたが、ノエルはあえて無視した。

それよりも今は傍観者を決め込んだこの野次馬どもに一言言っておきたいことがある。

この怒りを言葉に変換しないと、何かに思いっきり当たってしまいそうだった。

ノエルもぶち切れる寸前なのだ。


「あんたたちさ、この状況をなんとも思ってないの?普通じゃないでしょ。この際だから言っておくけどさ、あたしは女なの。手加減なしで殴られたらどうなるかくらい分かるでしょ。なのにあんたたちは何してたの?けしかけてただけじゃん」

反応が一切ない。

信じがたいものを見る表情がどうやら野次馬たちにできる精一杯らしい。

それを見ても、ノエルは何も感じなかった。

代わりに盛大なため息をついてみせた。

「イーギスに来て、色々楽しみにしてたのに。最低だよ。あんたたちなんか」

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