イーギスプライド
生雪 京
歓喜と悲劇のオニオンガール #1 緋色の便箋
ノエルは急ぎ足で道を駆けていた。
きょろきょろと目線だけでなく、首も身体もせわしなく動かしながら彼女は額に汗を浮かべて全力疾走する。
汗で額にべったりと張り付いた前髪を振り払う余裕すらない。
もはや焦燥感を通り過ぎ、悲壮感すら漂う表情は本来なら顔面蒼白といったところなのだが、アドレナリンが放出されすぎているせいか、トマトのように真っ赤に染まっていた。
いっそのこと泣きたい。
もっとも涙を流したところで、拭う手間すら煩わしいのだが。
少女と表現するには少々大人びており、女性と表現するには少々幼さが残る、いわゆるフツーの十八歳だったりするのだが、あいにくこの有様なので見る影もない。
「ひー!遅刻だけは本当にかんべん!」
唯一の時計がまさかの故障だ。
よりにもよって、時間の確認をしておきたい今、壊れるかフツウ!?と取り乱したい気持ちを必死の思いで押し殺して、けれどやばいやばいと小声で連呼しながらも、鍛え抜かれた両脚が彼女の身体を目的地に運んでいく。
父親に譲ってもらった貴重な懐中時計を、あろうことかお尻に入れたまま車中で熟睡してしまった。それがいけなかった。
生来の寝相の悪さが追い討ちをかけ、気づいた時には文字盤の破損という受け入れがたい現実にノエルは青ざめた。
微かな復活を祈り、時計を振ったり竜頭を連打したりしたが、そんなことで蘇るわけもなく、今なお彼女の上着の中で沈黙を保っている。
今更だが、待ち合わせ時間には十五分前に到着するはずだった。
はやる気持ちを懸命に抑えながら、何日も前から余裕のある旅程を組んでいたのだ。
ノエルは機械のようにそれに従って行動していたので、本来ならば遅刻などありえない。
二日前に地元から発車した汽車は途中で原因不明のエンジントラブルで止まることもなく、突然の天候不良に見舞われることもなく、予定通りに目的地がある商業都市マーセルに到着していたからだ。
ノエル自身もマーセル駅からそれほど遠くはない位置に、待ち合わせに決めた場所があるので全く心配していなかった。
そう、世にもかぐわしい刺激的な香りが長旅で腹を空かせた年頃の娘の食欲を刺激するまでは。
ノエルの田舎は本当に何もないド田舎なのだが、唯一誇れるところがあるとしたら、人の手が一切入っていない山の幸が豊富な自然だ。
ノエルは栄養価抜群の新鮮な恵みを食べて成長してきたのである。
そのため食材のクオリティーにそこそこ肥えた舌を持つ彼女だが、幸豊富な郷土でも多分これは食べたことがないと思った。
そう瞬時に判断したノエルは、どこからか漂ってくる香ばしい匂いの跡を本能で辿ることにした。
断っておくが、彼女はこの街に来たことはこれまで一度もない。
そんな郷里の数十倍もの人口を抱える街をふらふらと彷徨えばどうなることかくらい容易に想像つくのだが、あいにくのところ食欲と好奇心に支配された今のノエルは通常の思考を発揮できなかった。
彼女の抜群の嗅覚はすぐに臭いの発生源を突き止め、開店準備中の店内に迷うことなく突進した。
当然のように迷惑がられたノエルだが、渋々出してもらった昨日の残りを目にした時、口の中は唾液でいっぱいになった。
白いお皿の上に黄金色にほどやく焼かれた小さな物体が六つ。
見たこともない料理だったが、店主に失礼にならないよう心の中でこれはマズイわけがない!と叫んだ。
口に出せば確実に追い出され、下手をすれば出禁になるだろう。
それはともかく、この味付けと風味はなんだ。
期待を胸に口の中に運ぶと、いくつもの香辛料が舌をピリっと刺激した。
仕込みに忙しい店主を捕まえ、迷惑ついでに料理の名を尋ねる。
当初は煩わしげに対応していた店主もノエルの熱心な食いっぷりに感心したようで、連呼する褒め言葉にすっかり気を良くし、仕込みもそこそこに彼女に同じ料理を振る舞った。
この時すでに時間のことなど頭の中から完全に抜け落ちていたのだが、いま思い返せば、ここでお暇していればまだ大丈夫だったのかもしれない。
さらにもう一皿たいらげ、店主との世間話に華を咲かせてしまったのが運の尽きだったように思う。
普段はここまで迂闊でも忘れっぽいわけでもないのだが、気分も上々に食欲を満たしていく過程で本来の目的を完全に失念してしまった。
気分が良くなったノエルの口はへえとかなるほどーとか相槌を連発する始末である。
身振り手振りを交えマーセル自慢をし始めた店主のおかげで、ここがどんな街か予備知識を仕入れることが出来たまではいい。
しかし、荷物と一緒に何気なくカウンターに置いていた懐中時計の無残な姿を目にした店主が、腕の良い時計職人を紹介しようか?などという言葉を口走ったのをきっかけに、これまで朗らかだったノエルが突如一気に青ざめたのは言うまでもない。
今何時だ?!の甲高い警告音が頭の中に鳴り響き、文字通り死ぬほどの焦りが彼女を襲った。
直後、店主のおじさんに唾を飛ばしながら、絶望的な表情に涙を浮かべ窮状を訴える。
田舎から出てきた彼女にはここがどこかなど皆目検討がつかない。
プロの役者並みの悲壮感に憐みを覚えたのか、道順を分かりやすく教えてくれた店主にお礼を言い残し、ノエルは脱兎のごとく店を飛び出した。
そして今に至る、というわけだが、今度休みが取れたら今回のお礼をしにまた食べにこよう、彼女は懲りずにそう固く誓った。
開店間近のお店が看板を外に出す光景が目に入った。
彼女は走るのをやめない。軒先で掃除をしている人たちの姿が後方に流れていく。
背中のリュックはパンパンに膨れあがっており、中で何か硬質なもの同士がぶつかり合ってるのだろう。
ガチャガチャと喧しい音が朝の街中に無遠慮に巻きちらされる。
近所迷惑甚だしい彼女に、ベンチに座り卓上ゲームに興じている老人たちが眉をひそめているのが分かったが、大変申し訳ないのだが、構うことはできない。
すれ違う人々からも迷惑そうな視線を盛大に浴びせられている。
ノエルはごめんなさーい!とありったけの大声で叫び、首だけ後方に巡らせ大きな声で謝罪した。
頭に叩き込んだ道のりを正確に思い浮かべ、目的地は間近だと分かった。
そのあと何度か道を曲がったりしながら、脇目も振らずにしばらく走っていると、ようやく目の前にお目当ての建物が視界に広がってきた。
ほっとしたノエルはそこでようやく立ち止まり、額の汗をハンカチで拭う。
体中が汗でびっしょりだが、仕方がない。
リュックを地面におろす。
なで肩にリュックをしょいこみながらの長距離疾走はけっこう辛かったが、ようやく解放された。
なんとか遅れずにすんだ。
息を整え動悸が鎮まっていくのを待ち、ノエルはリュックから緋色の便箋を取り出し、書かれた内容を目で追った。
【ノエルへ イーギスカレッジに到着したら、三本の鉄塔がある建物を目指して歩いてきなさい
赤煉瓦の建物の玄関に入ったら、すぐ左に大きな掛時計があるわ
待ち合わせは朝八時にその下で】
一年ぶりに送られてきた手紙には元気にしてるか?などの気遣いの言葉は一文字もない。
簡潔なのは書き手が意地悪をしているのではなく、単にノエルと親しい関係だからだ。
この手紙は出発を二ヶ月後に控えたノエルに送られてきたものだった。
誰から送られてきたのかはいまさら確認するまでもない。
差出人は姉のロキだ。
とはいえ、実の姉ではない。
ノエルには兄弟姉妹がいなかった。
けれど、子どもの頃近所に住んでいたロキには何かとお世話になったし、本当の姉妹のように一緒の時間を過ごすことが多かったので、ようやく会えるとなると自然気分も高まる。
待ち合わせ場所を再確認したノエルは今度は慌てる様子もなくゆっくりと歩を進めた。
悠然と空を突き刺すように縦に伸びる三本の鉄塔は、到着するずっと前からすでに視認できていた。目印としてこれほど分かりやすいものもない。
イーギスカレッジの守衛と思われる人物に声をかけ名前を告げると、すぐに通してくれた。
正門を抜け、足早に円形広場の外周を回りこむ。
徐々に視界に広がりつつある建物は全体がレンガ造りで瀟洒な趣を感じさせた。
ノエルの故郷には公民館があるが、共通しているのはそのサイズくらいで老朽化が激しくもっとボロい。
左右に視線を向けると、建物は区画毎に存在していた。
そのどれもが、良く言えば堅牢にして威風堂々。
悪く言えば無骨にして威圧的だった。
道の端々に見られる植林の和やかさがなければ、要塞と言われても納得できる自信がある。
正面玄関はノエルの訪問を今か今かと待ちわびているかのように大きく開け放たれており、手にしたままだった便箋を折り目に沿って綺麗に畳んだ彼女は、いよいよイーギス校に記念すべき第一歩を踏み入れた。
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