幽霊も注文する肉じゃが弁当
第1話 その弁当屋
途中で投げ出さないこと。
素材の一つ一つを、丁寧に扱うこと。
「肉じゃがを美味しくするコツは、何にも難しいことは無い。後は加減さえ間違えなければ最高さ」
今日は肉じゃがを教えてくれるという祖母に従って、くるみはコンクリ作りの厨房に入っていた。
冷え込みの厳しい朝だった。厨房では自分の息まで白く立ち上っていたが、今年の春に高校を卒業したばかりのくるみは、店の制服である薄手の黒いワンピースに、店名入りの白いエプロンを締めただけの姿だ。どんなに寒かろうが暑かろうが、店に立つときにはこの制服を身に付けるのが、この店のルールだった。
実際に肉じゃがを作りながら、彼女の祖母はぽつり、ぽつりと要点だけを述べてくる。幼い頃から厨房で過ごしてきて、使う材料や手順を心得ているくるみには、それで十分だからだ。
くるみの家は弁当屋だ。
若かりし頃の祖母が、まだ幼い彼女の母親を背負いながら始めた小さな店は、背高いビル群が続く都会と、田園風景が続く田舎町の、両極端な風景を分ける大きな道路の行き止まりという、狭間のような場所で開業された。
くるみの祖母曰く、開始当初はハイカラであったという二階建ての建物は、今は排ガスなどで外壁が汚れ、防犯上に付けられたシャッターは、上げ降ろしただけでガタガタと音が鳴り、おまけに店と厨房を区切っている接客用のカウンターは、古びた掲示物を無理に剥がしたらしいセロテープの跡で汚れ、つまり、それをそのまま現役で使っている弁当屋は、いかにも昔ながらのといった風体だった。
けれども、くるみはこの弁当屋が好きだ。
特に、弁当屋を営む祖母と、それを手伝う母親の姿が、昔から大好きだったのだ。
だから、この店を自分が引き継ぐことになったときは、大好きな店を続けて守っていくために、どんな事でもしようと思った。たった一つ、ある事を除いて。
だが、昨今、ビル群側に新しい弁当屋がオープンしたようだが、くるみは特に何かしようとは思わなかった。そして、今朝、新しい弁当屋のちらしが店に届けられても、いつもと変わらずに仕込みを始めた。
狭間の弁当屋には馴染みの常連客が付いているから、客足の心配をしなくても良い。それに、狭間の弁当屋には、ここにしか来ない客があるのだ。
ちょっとの間、店番を祖母に任せて、くるみがすぐ近くの自販機でサイダーを買って戻ったとき、その人物は店のカウンター横のドアの前に立っていた。”明日の朝、肉じゃが弁当出ます”の張り紙を微動だにせず睨みつけており、近くの高校の学ランを着ている。
少年といっていいような幼さの残る顔立ちをした彼は、常連客ではないことだけは確かだった。くるみがいらっしゃいませと声を掛けると、彼はびくりとした。
「驚かせてすみません。いま、お店開けますね。でも、肉じゃがは明日からなんですよ。明日の朝から」
驚いていた少年は、そのうちくるみの茶色い癖毛のポニーテールや、黒い制服や、黒い靴を上から下までじろじろ見始めて、くるみが手にしている財布と、持って出てしまった店のエプロンに目を止めて、意地悪を思いついたような笑みを浮かべた。
「なんだ。店の奴が昼は外で食べるくらいの内容なわけか、安心した」
別にくるみは昼飯を食べに行っていたのではないのだが、お客に言い返すわけにも行かないから黙っていると、少年は見覚えのあるちらしを手渡してきた。見れば例の新しく出来た弁当屋のちらしである。
「これ、俺の親父の店なんだ。賄いも美味いし、バイト代も良いから、今のうちにこっちに乗り換えれば? こんなボロい店、すぐ潰れるだろうし」
目を瞬かせているくるみの肩を、少年が軽く叩く。
「魔女気取りの制服なんてダサいよ。メニューも、肉じゃがとかさ……お袋の味が売りってこと? そういう昔ながらのって、今更流行らねーし」
大袈裟に腹を抱えて笑う振りまで見せた彼はつまり、偵察に来たと言いたいようだ。
「ねえ、聞いてる? 君ってバイトの子だよね?」
少年がまだ肩に手を置いていたが、くるみは上の空だった。先ほど、ここへ帰ってくるまでに、彼とは別に“お客さん”らしい人を見ていたのだ。
そして、その彼女が、今まさにこちらへ近付いてくる気配がしていた。
ズルズル、ズルズル。
ゆっくりと、いや、ゆっくりにしか進めないから、だからそんな音を立てながら、くるみの背後へ近付いて来ている。
くるみは喋り続けている少年の口許を見ていた。ホクロが唇の筋肉に合わせて動いている。
何かを引き摺るような音だけを拾うくるみの耳に、少年の声は聞こえていない。掠れた女の声が引き摺る音に混じっている。
「予約注文、お、ねが、い、します、肉じゃが……」
足首にじっとりとした感触が纏わり付いてきていた。
「……あの、肉じゃが、明日の朝には出てますから。また明日、来て下さい」
一気に言い終えると、くるみは肩の手を振りほどいて、店の中へ入った。掴まれた足首に嫌な感触が残っている。
お客さんと、カウンターの外で話すのは危険だと祖母から言われていた。だから、営業時間中は、制服のまま店の外へ出ないように言われていたのに。くるみが見下ろした先には、自分の足があり、履いていた白いソックスに、赤黒い手形が残っている。
「くーちゃん、ダメじゃないか! 黙って出ていったりして……大丈夫かい?」
カウンターの奥からやって来た祖母が深い皺が入った目元を心配そうに曇らせていた。そして、くるみの足元に残っている手形を見て、溜息を吐き出した。
「婆ちゃんは、お客さんとカウンターの外で話したらいけないよって言ったろう。まったく。いま、何かあったら婚約者様に何て説明するんだい。来年はお前もお嫁さんになるんだよ?」
顔を青ざめさせていたくるみだったが、祖母の言葉に今度は怒りで顔を真っ赤にした。
唯一、店のためにくるみが我慢出来ないこと。それは顔も知らない婚約者の元へ嫁がなければならないことだった。
「それは婆ちゃんが勝手に決めた事じゃない!」
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