第7話 美味しい秋刀魚は苦い
白猫が去って行ったのは、田舎側の路地だ。ビニールハウスを振り返ったように見えたのは、気の所為だろうか。
狭間の弁当屋は、白猫が去った後、急に客の出入りが激しくなり、慌ただしくなった。忙しいのは大変ではあるが、くるみはこういう師走の空気は好きだ。忙しいと口々に言う女達が、どこか生き生きと輝いて見えるし、いつもはビル群側から漂ってくる排ガスも少なくて、空気も澄んでいる。特にこの時期の夜は、店のカウンターから見上げれば、星が満天に輝いているから、店じまいの後は存分に楽しめた。
星を暫し楽しんだ後、シャッターを閉めたくるみは階段を上がった。居住スペースまで戻り、制服を脱ぐ。風呂でお湯を使って身体を温めてから、部屋着を身に着け、ヤカンで煮出した麦茶を片手に、古びたダイヤル式の黒電話に指をかけた。受話器を耳に押し当てれば、聞き慣れた発信音がする。
くるみが頭に思い浮かべたのは、親友の笑顔だ。昼間、彼女に電話するからと約束したのはくるみだった。けれど、約束に反するように、何故だかダイヤルにかけた赤切れだらけの指は、ぴくりとも動こうとしない。
コップに注いだ麦茶が、ストーブの前で汗をかいていた。
果帆は、いま、何をしているのだろう。もしかしたら、自分以外の誰かと電話しているかもしれないし、友達と会って話している途中で、都合が悪いかもしれない。くるみは電話を掛けない理由を、あれこれ考える。一日、仕事をやり終えて得た筈の潔い充実感が、急に萎えていくようだ。
どうして果帆に電話するのを躊躇しているのか、くるみは自分でも分からなかった。話し合って、仲直りしたかったはずなのに、ダイヤルを回す指が、どうしても重たく感じてしまう。
ふいに、発信音しか聞こえない筈の受話器が、誰かの声を拾って、驚いたくるみは受話器を取り落とした。
畳の上に落ちた受話器から、僅かにツーっという音が聞こえる。けれど、確かにいま、この受話器から、くるみには婚約者がいるでしょう? そう、親友の声が聞こえたのだ。
いつの間にか、着信していたのを出てしまったのだろうか。震える手で、畳から受話器を拾い上げ、耳へ押し当てる。けれど、もう声が聞こえる事はなかった。
息を吐きだして、捩れてしまったコードを指で巻き直しながら、くるみは受話器を置く。どうしてあんな空耳なんて聞いたのだろう。考え出したくるみの胸の中に、嫌な、苦い、何かが広がっている。
あの時、親友の声は小さな刺を含んでいた。だから、無意識に気になっていたからかもしれない。
一番言われたくなかった、婚約者がいるという核心をついた彼女は、暗に身を引くように言い含めていて、青年から、くるみを引き離したかったから、その後も態と走り去ろうとした。
悪い想像を巡らせたくるみは、写真立ての中で自分と肩を寄せあって笑う親友の姿を見つけて、吐き出そうとした息を飲んだ。
違う。たぶん、本当は、臆病な果帆は、味方になってくれる筈のくるみが、敵になってしまうかもしれない事が、怖かったから、くるみを責めてしまっただけだ。その後も優しい彼女は、どうしていいか分からなくて、逃げ出してしまったのだろう。
親友の本当の姿すら、歪めて見てしまったくるみは、もう、電話に手を掛ける事が出来ない。果帆を傷付けたくないと言ったのは、くるみなのに、今、彼女と話をすれば、青年を奪われたくないあまり、きっと酷いことを言ってしまう事が、分かってしまった。くるみよりも、綺麗で明るくて、素敵な女性である彼女が、くるみは許せないのだ。胸の辺りを掴んでいたシャツが、皺になっていた。
恋をすると綺麗になるなんて、嘘だった。くるみはどう考えたって、自分が最低で汚くなったようにしか思えなかった。恋は、きっと、楽しくて、甘くて、優しいものだと思っていたのに、実際には焦燥感を追い求めるあまり、大切な店も、親友も、失いそうな、苦い物だった。
足を抱えて蹲ると、くるみは涙が零れるままに目を閉じた。
梅の神は先程まで使っていた黒電話に、乗ってきた白猫を撫ぜていた。もうすぐ新しい飼い主が出来るだろう野良は、満足そうに汚れた口元を舐めながら、ぐるぐると喉を鳴らす。その足元には皿があり、魚の骨と内蔵が食い散らかされて乗っていた。
「お前、一番美味しいところを食べないのか。勿体ないな」
梅の神のもとへ、こうして野良猫がやって来ることは少なくない。餌と飼い主を求める猫が、可愛いがってくれる梅の神を頼って日夜やって来る。
にゃーんと一鳴きした白猫は、与えられた魚を残した事を悪びれた風もなく、素知らぬ顔で板張りの床に降り、毛繕いを始めた。
「苦い? それが美味しいんだよ? 中身は苦くて、溶ろけるのが良い……啜って、しゃぶって、味わって……想像しただけで涎が出てくる」
いつでも腹を空かせているこの神は、それでも猫にだけは危害を加えない。安心仕切った白猫は、腹を見せて床を転がっている。梅の神は白猫の代わりに、黒電話を愛おしげに撫ぜた。
「なあおまえも、くーちゃんはそろそろ食べ頃だと思うだろう」
腹を舐めていた白猫が、動きを止めて梅の神をじっと見詰める。
「あんなに美味しそうに育ったのに、どうして我慢しなきゃいけないんだっけ」
邪気なくにこりと微笑む梅の神に、白猫は面白そうに目を細めると、弁当の空き箱の上へ前足を置いた。黒い睫毛に縁取られた切れ長の瞳が、驚いたように見開かれる。
「…………そうだった。食べてしまったら、動物って死ぬんだったね。だから弁当を代わりに食べろって約束だったな」
猫の口が大きく開いて、にいと歪む。青い瞳を金色に輝かせた猫は、扉の隙間をぬるりと出て行った。
「まさか。今のところ約束通り、くーちゃんが作ったお弁当は美味しいし…………可愛いし」
愛おし気に電話を撫ぜながら、梅の神は独りごちる。
「こんなにずっと待ってやったんだ。死なせたりしないさ」
誰もが見蕩れる美貌の主は、唇を舐めると、朗らかに微笑んだ。
「でも、少し味見するくらいなら、大丈夫だよね」
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