第8話 夢の中の梅

 温かさを保ったそのままが、口の中で解れていくように。優しく、優しく。そう、その調子だよ。そっとだ、詰めすぎちゃダメだ。ほら、くーちゃんは、さすがは私の孫さねえ。海苔のお布団被って、ご飯がこんなに喜んじゃってるよ。


 祖母が頭上で笑っている。小さなくるみは彼女を見上げて、まだ涙の跡が残る頬を緩ませた。くるみの手元には、作りかけの海苔弁当がある。祖母は小さなくるみに海苔弁当の作りかたを教えていた。

 これは夢だとくるみは思った。また、くるみは小さい頃の夢を見ているらしい。最近、まだ幼かった時分に、弁当屋を手伝っていた記憶を夢に見ることがあって、夢の中では自由に動ける訳ではなく、ただ、小さな自分を見るだけだ。きっと、くるみはこれは朝も思い出した、初恋の人についての記憶だと悟る。


 また、お母さんたら、孫を甘やかして! 叱るところはちゃんと叱らなきゃダメよ!


 祖母の後ろから顔を出した母親に、小さなくるみはびくりと身体を強ばらせた。この直前に、くるみは彼女から叱られていた。

 特別な弁当を、可愛がってくれるその人に渡したくて、彼の分だけ弁当に飯を多めに入れようと、くるみはぎゅうぎゅうに米を押し込んだ。そのため、飯が硬くなってしまって、食えたものではなかったと苦情があったのだ。もちろん、苦情とは言っても、苦笑混じりのついで話ではあったのだが、くるみに与えた仕事として、弁当を詰める役をさせていた母親の怒りは相当だった。


 まあまあ、もういいだろう? くーちゃんだって、じゅうぶん反省してるさ。それに良かれと思ってやったんだ。お客さまも可愛くて怒れないって笑ってたよ。


 祖母の背中に庇われたくるみに、溜息一つ吐き出すと、母親は仕事へ戻った。あの頃からくるみの祖母は、何かとくるみを庇ってくれた。母親も、父親も、祖母には弱いから、祖母の背中に隠れてしまえば、くるみはそれ以上怒られたりしない。

 小さな自分が最高の出来になったのり弁当を見下げて微笑んだ。くるみは一緒になって、思わず笑顔を浮かべる。そうだ、祖母と作ったこの最高のお弁当を、大好きな人に今度こそ食べて貰おうと、小さなくるみは思い付いたのだ。けれど。


 でもねえ、くーちゃん。あのお客さん、亡くなった奥さん一筋なのよ。一粒種の息子さんと、奥さんが可愛いがってた猫が産んだ子を、だから大切に大切にしているでしょう?


 これだけは言わせてと前置いた母親の言葉に、ショックを受けた小さなくるみに、今度は祖母がトドメを刺す。


 この店があるんだから、くーちゃんは、そんな事はどうでもいいだろ。さ、その弁当はお昼ご飯だ、早く食べてきなさい。


 初恋が呆気なく散ってしまった小さなくるみは、しょんぼりと肩を落として店を出た。銀色のドアノブが音を立てて戻っていく。完全に戸が閉じる直前、隙間から振り返った母親が見えた。ああ、とくるみは気付く。

 そうだった。このときも、母親は何処か心配そうな顔をしていた。

 彼女はいつもそうだ。出て行ったときも、一瞬だったが、こんな顔をしていた。


 くるみが向かったのは田舎側の側道だ。

 少し行った先にある小川の辺で昼食にする頭で、そこを歩いて行けば、その近隣に住む初恋のその人に会えそうだからというのもある。

 幼いながらに店のことを想って、くるみはこのときも胸を痛くしていた。半人前なのだし、店のことだけ考えるべきなのに、男の人のことを想っているなんて。小さいながらにそれがいけない事だと分かっていた。

 肩を落として歩く小さな自分に、くるみはため息を吐く。

 許婚と店とに雁字搦めにされる、今と何も変わっていない。この初恋からずっと恋をしたことがなかったのだから、あまり変わっていないのも仕方がないのかもしれないが……そう考えていたくるみは、違和感に気付く。

 何かがおかしい。

 本当にそうだっただろうか?

 一度も、恋を……しなかっただろうか。それに、記憶の中の出来事のはずなのに、祖母は店のことだけを言って、許婚のことは言わなかった。

 婚約者は昔、祖母が決めた筈で、あの頃から許婚に嫁ぐのだから、こうしろああしろと煩かったように記憶していたのに。

 それに……福尾さんは? 母親から、いつも祖母と一緒になって庇ってくれた、福尾さんは、このときは休みだったのだろうか? そういえば、くるみの面倒を率先して見てくれていた彼女の目があるのに、あんなミスをしたのは、どうしてだろう。

 考えている間にも、夢は進んでいって、小さなくるみは遠回りに使った道の先で、良い香りを嗅ぎ付けた。

 そこは、梅林と見紛う神社だった。小さなくるみは咲き誇る白梅と鳥居の朱色を見上げて、綺麗だと感嘆の声を上げた。

 見上げた枝先から提灯が並んで、神社の奥へと続いている。小さな自分を追いかけて、丸い花弁が舞い落ちる石畳へと、誘われるように歩を進めると、境内は子供の笑い声や、大人の歓談、音楽で満ちていた。のぼり旗に梅祭りと書いてあり、出店も石畳の両脇に出ている。

 ずきりと痛む頭を片手で抑えて蹲ったくるみは、小さな自分が引き寄せられるように、狛犬の傍らに歩んで行くのを見送った。すらりと背が高い少年が、狛犬の台座に腰掛けて、長い足をばたつかせている。


 どうして、忘れてしまっていたんだろう。

 目を開けたくるみは、汗で湿った布団を払い除け、半身を起こした。頬に貼り付く髪をかきあげ、和服姿の少年を思い浮かべて、泣きそうになる。布団を掴んでいた手を緩め、時計を見る。開店準備には、まだ早い。

 くるみは布団を抜け出すと、急ぎ着替えて、階下へと降りた。

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