第5話 供物は返さない主義
いつ帰ったのか、指定席に祖母が居る。
カウンターへ戻ったくるみは、制服で外へ出てしまった事を咎める視線に、身を縮こませた。
前回の失敗から、たった数分でも危険だというのは分かっていた。けれども、くるみが迷っている間に、親友はカウンターからは引き止められないほど遠ざかっていて、そのまま見送ってしまったら、もう会えない気がしたのだ。
「元気がないね」
青年に声を掛けられて、くるみは視線を交わさないまま頷いた。
「友達をちょっと…………私が抜け駆けするような真似をして、怒らせてしまって」
置き去りにされたことを、彼は笑って許してくれたが、くるみは彼と視線を合わす事が出来なかった。親友に抜け駆けしているようで嫌だったし、何よりも彼女との遣り取りで明らかになった自分の気持ちを、どう処理していいのか分からない。
予約の弁当を受け取った青年が、俯いているくるみの頭を撫でた。
「分かった。元気になれるように、神様がおまじないをかけてあげよう」
驚いて彼を見上げたくるみは、見上げたすぐ先にあった形の良い唇にぶつかりそうになった。にいと唇が歪む。
「…………抜け駆けしてしまえばいい」
くるみは顔を真っ赤に染めた。彼は唇同士が触れ合いそうなほど、くるみに顔を近付けていた。
それはどういう意味なのか。理解出来ないくるみは、胸の前でぎゅっと両手を握る。口の中がカラカラに乾いていた。
梅の花の香りが濃く漂う。額からやや伸び過ぎの前髪が、長い指によってゆっくりと払い除けられた。
「これで、よし。きっと、くーちゃんは笑顔になる」
悠然と微笑んで、彼はくるみから離れていく。
「まったく難しいな。抜け駆けのどこがいけないんだい? 人間は大変だね」
青年は特に意味があって抜け駆けしろと言った訳では無いようだ。少し肩を落としたくるみは、親友と婚約者の事を思い出して、胸の中にわだかまりが溜まっていくのを感じた。
「…………いけない事かどうかは、私には分かりません。けど、ただ、友達を、大切な物を、傷付けたくないんです…………あの、すみません、それ渡し間違えてました」
くるみは新しく用意してあった海苔弁当を青年に差し出した。今、青年が持っている弁当には、フライを一つ多く入れてある。抜け駆けになるような事はしたくないくるみは、返して貰うつもりだ。けれども青年は弁当が入っているビニール袋を後ろ手にした。
「えー、嫌だよ。だめだめ」
綺麗な顔を膨らませて青年が言った。
「俺は一度、捧げられた供物は、返さない主義なんだ。魚でも白身魚は好きなんだもん」
口篭ったくるみに青年が笑う。神様は、弁当の透視でも出来るのだろうか。袋の中を覗いて嬉しそうにした彼は、くるみに手を振った。
「じゃあ、また。……そういえばくーちゃんは、今度の定休日は大掃除をする予定だったかな」
「えっ、いえ、確かにその予定ですけど」
立ち去ろうとしていた青年は、何故か店の掃除の予定まで言い当てた。この人はどこまで知っているのだろう。訝しむくるみの耳に、軽快な足音が届いた。
「あっ、お客さんが来た。もっとゆっくり話したいし、定休日に掃除を手伝いに来るからね」
「えっ。ええ? あの、う…………梅園さん!」
いつかと同じく遠ざかっていく姿勢の良い背中の主、梅園神社の神は一瞬立ち止まった。
「園さんって呼んでよ」
一言だけ発した彼は今日は歩いて帰るらしい。田舎側の道へと消えて行った。
「園、さん…………きゃああ!」
呆然と彼の後ろ姿を目で追っていたくるみは、カウンターの上へ軽い音を立てて乗ってきた白い塊に驚かされた。
「やだ、驚かせてしまったかしら? ごめんなさいね、これで海苔弁当一つくださるかしら?」
くるみが白い塊と見間違えたのは、毛艶の良い白猫だった。
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