第4話 今後のことを
「…………きちんと、か」
くるみは饅頭の箱をぼんやりと見下げていた。
祖母がまだ店に出ていた頃のことだ。弁当屋へ来る途中に寄ったのか、和菓子屋の紙袋を持っていた彼に、そこの饅頭が好物だと教えて話が盛り上がって、それから何回か、くるみにだけ饅頭の差し入れをしてくれた。
「まだ覚えていてくれたのかな」
あの頃から、彼の口癖はきちんとだった。くるみが物心ついたときには、親子は店に来ていたのだから、彼とも長い付き合いだ。けれども、それも、くるみが店を継いだ途端に途絶えてしまった。
弁当の味が、落ちたと思われているのだろうか。他の常連客からそう言われた事はないし、森尾さんのチェックも合格点を貰えている。きちんと、今後の自分を考えろなどと、彼はどうして言ったのだろう。
くるみは今後の事は、考えたって仕方ないと思っていた。このままくるみが何も行動を起こさなければ、来年の今くらいには、許婚がここへやって来て、くるみは次の春に結婚をすることになるだろう。
くるみがどんなに我慢ならない事でも、祖母が言う通り弁当屋を守るためなのだとしたら、蔑ろには出来ない。もう誰もくるみを守ってくれる人はいないのだから。
シャッターと同じくらい古びた店内を見回したくるみは、大掃除に力を入れる事にした。少しは見栄えがするようにしなければ。
「くるみ、久しぶり!」
カウンターの向こうにショートカットの女の子が立っている。
「果帆? 来てくれたんだ!」
人懐こい顔で笑っているのは、くるみの高校の同級生で親友でもある
「元気だった? 大学はどう?」
「ああ、大学? もうね、とにかく全て、適当にやってますよ、相変わらずですとも。……くるみも相変わらず頑張ってるみたいだね」
痛いくらい肩を叩かれながらくるみは、はにかんだ。
元気いっぱいといった表現がぴったりの果帆は、明るくて容姿も可愛く、高校でも人気者だった。
男子からももてるようだったが、恋愛には疎くて恋人がいた事はなく、もしも誰かを好きになったときは、くるみに一番に報告すると言っていた。
「まあね、パートさんと、婆ちゃんに怒られながら何とかやってるよ」
くるみと同じくらいはしゃいでいた果帆が、急に表情を曇らせた。
「………あー……パートさんと、婆ちゃんか…………」
果帆がちらりと店内を見る。何処へ出掛けたのか、祖母はまだ厨房にいない。
「あのさ…………お母さんってまだ帰って来ない? お父さんからもその後、連絡なし?」
くるみの笑顔が凍る。果帆は何でも知っている。くるみが彼女に相談をしたのだから。
高校の卒業式目前に、くるみの母親は男と一緒に家を飛び出して行って、それきり電話一本寄越さない。そしてそんな母親に、父親は愛想を尽かして離婚届けを置いて出て行ったのだ。
「…………うん。でも、店の事はもう、あの人達には関係ないから」
俯いてしまったくるみの肩を、再び果帆が強く叩く。
「ごめん話題変えようか! ていうか、それが目的で私、ここに来たんだし!」
内緒だと頬に手を添えた彼女に、くるみは耳を差し出した。
「…………私さ、実は片思い中なんだ。しかも一目惚れ」
「本当? 一目惚れ? 誰? 私が知ってる人?」
約束を守って教えてくれた親友に、くるみは破顔した。一段と綺麗になった彼女を見たときから、くるみはそんな気はしていたのだ。果帆は恥ずかしそうに頬を掻く。
「前にこの店に来てるのを見た事があるんだよね」
「えっ、うちのお客さん?」
学校でも人気者だった彼女が、魅力的に笑う。
「最近はスーツ姿の事が多いかな。すごく綺麗な人。見た事ある人だったら、これだけですぐ分かると思う」
「…………」
くるみの頭の中は真っ白になった。くるみの様子に気付かない果帆がぱちんと手を合わせる。
「年上みたいだし、声かけられなくてさ、だからお願い!」
仲を取り持って欲しいと果帆が言っている。けれどもくるみは、すぐに彼女に反応する事が出来なかった。
スーツ姿のとても綺麗な青年は、くるみの知っている中で、1人しかいない。
固まってしまったくるみに、親友はやっと気付いたようだ。
「あれ、くるみ? ええと、まさか彼のこと好きだとかそういうわけじゃないんでしょう?」
やはりくるみは答えられなかった。
けれども悪気なく、くるみを頼った親友は、好きな人が被ってしまったのを否定したかったのだろう。くるみが一番考えたくなかった核心を衝いた。
「だってくるみは婚約者がいるじゃない」
その通りだ。くるみには婚約者がいる。けれども、くるみが気になっている相手は神様で、だから恋愛対象にはならないはずで、婚約者に気を使う必要はなくて…………けれども果帆は、たぶん、彼を好きになってしまったという。では、言い訳を盾にしていたくるみは、どうしたらいいのだろう。
くるみと果帆の間に気まずい空気が流れる。
「…………あっ」
何かに気付いた果帆が、急に小さく声を上げて、頬を赤くした。梅の花の香りに気付いたくるみも俯く。
「やあ、こんにちは」
果帆の背後から長身の美しい青年がやって来て微笑んだ。柔和な笑顔を向けた青年から慌てて視線を外すと、果帆はくるみに向き直った。
「えーと今の話はとにかくなしにしようか! じゃあね!」
言い終えるか否かのうち、果帆は逃げるように足早に出て行こうとしている。一瞬、くるみは引き留めるのを躊躇した。今、引き留めたら青年と彼女は話をしてしまうのではないか。そう思った。
青年が鼻で笑ったような気がした。
「待って! 果帆!」
くるみの声に驚いたのか、僅かに目を剥いた青年を残して、くるみは戸を開けてカウンターの外へ出た。滅多に大きな声を上げないくるみが叫んだからか、果帆も驚いたようで、その場で立ち止まっていた。彼女の腕を掴んだくるみは、ほっと息を吐いた。
「ごめん。大きい声出して」
「ううん、大丈夫」
笑い出した果帆に、くるみは夜に電話すると伝えた。
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