第8話 神様はなんでもあり

 店番に立つ森尾さんが、丸い身体を揺らして笑っている。常連のOL客とのダイエット話は、今日も盛り上がっているようだ。

 厨房で根菜弁当の仕上げをするくるみは、カウンター近くの壁に掛けられた時計を見上げた。もうすぐ十一時になるが、あの女の幽霊も、小さな男の子もやって来ない。

 くるみがしてしまったミスを、どうしたら挽回出来るのか、くるみの事を叱った森尾さんも良い案は浮かばなかった。ただ、時間だけはどんどん過ぎていくし、他にも客は来るから、いつも通りに仕事をするしかない。


「根菜弁当お待たせしました」


 努めて明るい声を発したくるみを、いよいよ見兼ねたらしい。森尾さんがそっと耳打ちしてきた。


 くるみお嬢さん、もう良いんですよ。一度目の失敗は気にしない事です。


 受け取った弁当を袋へ入れ、森尾さんがいつもの朗らかな笑顔で常連客に手渡す。


 森尾さんも、くるみも分かっていた。

 もう、二度とあの客が来る事はない。

 狭間の弁当屋へやって来る幽霊というのは、現世への未練を、この世の不浄なもの、即ち金銭へ変える事が出来るらしく、だから、弁当の代金を支払った時点で、彼女は店に来るどころか、もうこの世に留まっていないと思われた。

 彼女が最後に見せた表情は、くるみの事を信じ切った、優しい笑顔だった。


「……ごめんなさい」


 ぎゅっとスカートを掴んで、くるみは誰に言うでもなく謝った。厨房のくるみの声は、森尾さんや客には聞こえなかったようで、まだ楽しそうに立ち話をしている。ただ、いつもの定位置の椅子に居たくるみの祖母だけは、頭を振って息を吐き出した。


 時計がちくたくと正確に時を刻む音だけが厨房に響く。


「やあ、こんにちは。くーちゃんは?」


 静けさを破るように、店先から穏やかな声が入って来た。厨房にまで香る梅の花が、彼の来店を物語っている。


 厨房から慌てて出て行ったくるみに優しく微笑んだのは、昨日虎猫を連れて行ってくれた、自称神様の青年だ。入れ違い様、頬を染めた常連客が、ちらちらと彼を見ていた。今日もスーツ姿の彼は、人目を惹くような美麗さである。おっとりとした動作すら、手足が長いせいか優雅だ。


「いらっしゃいませ、昨日はありがとうございました。あの……その後どうなりましたか?」

「虎猫の事だったら、ちゃんと飼い主へ返して来たからね。しばらく家の中でダイエットさせて反省させますってさ」


 後で飼い主が店に謝りに来るかもしれないと聞いて、くるみは驚いた。あの虎猫の飼い主も飼い主で、何回くるみが頭を下げに行っても、猫と同じように悪びれた様子もなく、外飼いを止めてくれなかったのに。


 急に森尾さんの腕が、くるみを庇うように体の前へ割って入った。くるみが見上げた森尾さんは、緊張と心配が入り交じった面持ちで、何か言いたそうだ。


「どうだい、神様って凄いだろう」


 庇う必要などどこにあるのだろう。くるみには森尾さんの気持ちが分からない。青年の子供のように無邪気な言い回しに、くるみはくすりと笑ってしまった。

 青年は確かに、狭間の弁当屋の客の中でも注意すべき相手なのかもしれなかったが、くるみを助けたと胸を張る青年は、とても危険な相手には思えなかった。長年働いている森尾さんは、何か感じることがあるのだろうか。


「俺が怖いのか、そんなに警戒しなくても大丈夫だからね」


 おっとりしている青年にも、森尾さんが警戒しているのが分かったらしい。笑いかけられて、森尾さんは目を白黒させて固まってしまったが、マイペースな青年はすでに違う事を考えているようだ。腹に手を当てて鼻をくんくんとやっている。


「これは何の匂いかな? じゃがいも? それから牛肉の良い匂いがする」


 寂しそうに小首をかしげた青年に、くるみはホワイトボードを指差した。


「肉じゃがですよ。今日から肉じゃが弁当が期間限定でメニューに加わったんです」


 青年がああと笑う。


「そこのドアに貼ってあった張り紙のか。そう言えば昨日、その張り紙をくーちゃんと同じ年頃の、口元にホクロがあるぼくが眺めていなかったかい?」


 くるみは頷いた。昨日、青年がやって来る前に、肉じゃが弁当明日出ますの張り紙を、学ラン姿の男の子が確かに見ていた。

 青年はそれよりも先に店に来て、店番がいなかったから引き返したのかもしれない。本当に待たせてしまっていたのだ。くるみは改めて申し訳ない気持ちになった。


「あの、すみません……本当に待たせてしまったうえに、助けて頂いて、何てお礼を言っていいのか……先にもっと謝るべきでしょうか」


 俯いたくるみに、青年が笑い出した。腹を抱えて心底可笑しそうな彼は、一頻り笑った後で、驚いているくるみに首を横に振った。


「いいんだいいんだ、気にしないで……それよりも、あのぼくちゃんなんだよね、困ったお願いをしていくのは…………親子3人で暮らしたいって、今朝も社へ来ていたよ。母親は事故で亡くなっているようだし、どうしたものか」

「事故、ですか?」


 青年が目を細めて頷いた。

 そしてくるみは、気が付いた。印象的なホクロは、昨日来た女性の幽霊の客にも、そして、彼女の思い出の男の子にも、あった。


「……あっ!」

「わっ! どうしたんですか、くるみお嬢さん、急に大きな声出して!」


 突然、声を上げたくるみに、驚いた森尾さんが目を丸くしている。思い出して見れば、ホクロ以外にも女性と少年は顔が似ていた。くるみは森尾さんの両手を握った。


「森尾さんお願い! 少しのあいだ、一人でお店お願いして良い? すぐに戻るから!」

「ええ? だ、駄目ですよ! これから忙しくなるっていうのに!」

「そ…………そうだよね」


 確かにこれから昼時で、弁当屋は忙しくなる。けれどくるみは、昼食に間に合うように、予約された弁当を届けたかった。彼女の記憶の中の食卓は、陽の光が燦々と射し込んでいた。森尾さんをどう説得しようか悩むくるみの肩を、青年が叩いた。


「俺が店番をしているよ」


 言い終えるや否や、彼はくるみや森尾さんが唖然としている間に、ドアを開けてカウンターの中へと入り込んできて、さも当たり前に、棚から以前、森尾さんの夫が店を手伝ったときに着けていたエプロンを取り出し、ジャケットを脱いで身に着けた。

 狭間の弁当屋では、客はカウンターからこちら側へは、絶対に入り込めない筈なのに。


「大丈夫さ、森尾さんが俺に指示をしてくれれば。神様はなんでも出来るんだから。さあ、くーちゃん。早く行っておいで」


 脱いだジャケットを、無造作に椅子の上へ投げた青年は、ネクタイを緩めた。

 青年とくるみを見比べて、何やら慌てている様子の森尾さんに御免と手を合わせると、くるみは肉じゃが弁当を用意するために厨房へ戻った。

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