第3話 彼の来店
何のことは無い。インターホンを鳴らしたのはいつもの常連客だった。彼に挨拶をしていたらしい祖母が、二階から降りてきたくるみを見て、再び厨房の奥へと下がっていく。夜間に体力勝負の仕事をしていると話すこの客は、週に何度か仲間の分も合わせて注文にやって来る。
いつもの5つ。髭面の男にそう言われたくるみは、漬けダレに入っている大きめの鶏もも肉を選んで、片栗粉のバットへ移した。
「どれくらいで出来る?」
「15分くらいです。コンビニ、行きますか?」
「うん。用意しといて。俺のはしば漬けいらないから」
笑顔で頷いたくるみは、既に彼の分だけはしば漬けを抜き、白飯に炒り胡麻をかけていた。
祖母が弁当屋を退き、主力だった母親が居なくなってからは、こうしてくるみが一人で店を切り盛りしているのだ。常連客の好みは、もう頭の中に入っていた。
「ああそう言えば……くるみちゃん、お母さんって元気? しばらく見てないけど」
代金を払い終えて背中を向けようとしていた男が、思い出したようにくるみに言った。
祖母の代から来てくれている、パートの森尾さんがいない日は、こうしてくるみが一人だけで店を回さなければならなくなって、どれ位になるだろう。
「え? すみません、何ですか?」
くるみは客の質問を、油の音で聞こえないフリで笑って首を傾げた。男は察したように、やっぱり何でもないと手を振りながらその場を離れて行く。
今日は試作の肉じゃがで作ったコロッケもオマケで入れたため、揚がった鶏を詰め込むと、いつもよりも豪華な見栄えになった。白飯とオカズの容器の蓋を、軽く輪ゴムを掛けて止め、袋へ入れ込む。注文票を袋に貼っていたくるみは、梅の花の良い香りに顔を上げた。
まだ梅が咲くような時期ではなかったが、何処からか仄かな良い香りがする。そしてくるみはやっと、カウンターの前に長身の青年が立っていることに気付いた。
ビル群側にある、すぐ近くのコインパーキングにでも駐車してきたのだろう。つまらなそうに車のキーを長い指が弄んでいる。
「あ、お待たせしてすみませんでした!」
「本当に、お待たせさせられました」
嫌味な返しに、くるみは動揺した。
どれ位待たせてしまったのだろう。すっと通った鼻梁に切れ長のツリ目をした彼は、とても綺麗な顔立ちだったが、明らかに不機嫌そうな表情だ。スーツ姿なのだから、会社の休憩時間に立ち寄ったのかもしれなかった。
「あの……」
「こんなに待たされるとは思わなかった。むかつく」
はっきりとそう告げた薄い唇は、意地悪な笑いを浮かべている。くるみは下唇を噛んだ。
数日前にこんな風に急いでいる客に、怒鳴られたばかりだ。初めてこの店に来た客は、くるみが一人で店をやっていると分かると、もっと人を雇えと詰っていった。
くるみだって、別に好きで一人で仕事をしているわけではない。ここが特別な弁当屋でなければ、新しい人間を雇い入れることだって出来る。
けれど、ここは狭間の弁当屋だ。都会と、田舎の境界線に建っていて、だから、様々な客がやって来て、そういったどんな客にも対応出来る者でなければ、この店で働くことは出来ない。
くるみは店を守るためならどんな事でもすると決めていた。決意を思い出して、くるみはもう一度謝るため、背が高い青年を見上げた。
相変わらず青年からは梅の花の良い香りがした。くるみはそして、彼から目が離せなくなった。意地悪そうだった綺麗な顔が、くるみを覗き込むようにして、急に優しく微笑んだのだ。
「ごめん。君ったら可愛いからちょっと意地悪したくなっちゃった」
梅の花の良い香りを纏った綺麗な青年は、先程とは打って変わり、柔和な雰囲気だ。
「本当は全然怒っていないよ。待っていたのは事実だけど……俺、どちらかというと気長の性質だし、これくらいで怒っていたら、ただの嫌な奴だよね?」
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