異世界ドットコム

二宮鉄平

第一章

第1話 ビッグワードでググる理由

もうだめだ。目の前がチカチカしてきた。1時間前に飲んだ今日3本目の高麗人参入り栄養ドリンクの効果も、とっくに切れた。仕方なく、コーヒーメーカーが抽出したどす黒く苦味しかない液体を一気に流し込む。


今日書いたコードは既に10,000行を超えた。このモジュールが意味のある処理をしてるかどうかなんて、もうどうでもいい。動いているように見えればいい。見せかけだけでも何でも、動きさえすれば帰宅許可が降りる。そう信じていた。そう信じていた俺がバカだったのだ。


「インデントずれてるね。やり直し!」


無情な上司のレビューコメントが最後の希望を打ち砕いた。もう、辞めたい...こんな会社、辞めてやるんだ...。


ほぼ無意識にGoogleの検索フォームに「転職」の二文字をタイプしてリターンキーを叩いた。検索フォームに「てん」まで入力するだけで「転職」の入力候補が表示されることを、常々疑問に思っていた。誰がそんなふんわりワードで検索するんだろうと。そんなワードで転職先探すやついるのかと。


今、その疑問が氷解した。人はこんな時に、己の願望を検索クエリに託してGoogleに突っ込みたくなるのだ。王様の耳がロバの耳だと知った昔々の床屋は、井戸に叫んだ。現代人にとってのGoogleフォームも、また同じだ。違うのは、Googleは解決策を提示してくれること。


「転職」の検索結果にはお馴染みの顔ぶれが並ぶ。数多くの転職サイトがAdWordsのビッグワードに入稿していた。そんな中に1つ、見慣れないサイト名が紛れ込んでいる。こんなに各社がSEOテクの粋を集めて凌ぎを削るドル箱ワードに、こんなに妙ちくりんなサイトがよく紛れ込めたなと関心した。


「異世界ドットコム」


そもそもサイト名にドットコムって、いったい何年前のセンスだろう。ドットコムバブルが弾けて、一体何年経ったと思ってるんだろう。それに、どこにも「転職」というワードが入ってない。こんなに検索クエリと無関係な名前のサイトをヒットさせる、Googleのアルゴリズムの不具合を疑うレベルだ。まあ実際、不具合なんだろう。転職願望よりも好奇心に押されてクリックしてみる。


しかしそれは、紛れもなく求人情報だった。しかも、Webエンジニアの募集記事だ。フロントエンドからバックエンド、インフラの構築まで幅広く対応できるフルスタックエンジニアを求むと書いてある。経験者募集。給与は応相談。胡散臭い。しかし福利厚生の欄に目を見はった。


・王宮内に専用の個室を用意

・王国領内各地に保養地を所有

・ハーレム完備


「えっ、なにこれ...」深夜のオフィスに思わず声が漏れる。まず、王宮ね。雇用主は王様ですか? 次も王国って書いてあるしね。王政引いてる国ってまだあるんだっけ。まあ、あるか。あるかもしれない。でも次のハーレムって何よ。ニューヨークのハーレムとは違うよな。あそこは合衆国だし。ハーレムやばい。イスラム圏かな。それにしたってハーレム完備って。完備するものなのそれ。


色んな推測が一気に脳裏を駆け巡ったが、最終的には裸の女性たちが集う映像で頭がいっぱいになった。


しかし、さすがにおかしい。正気の求人じゃない。去年のエイプリルフール企画で作ったジョーク記事の削除し忘れか何かだろうか。改めて確認してみたが、勤務地の記載がないことと、福利厚生欄を除けば普通の求人情報だった。業務内容が「システム全般の開発・運営」とあって漠然としすぎな気もするが、福利厚生欄のインパクトの前では些細な問題だ。


求人情報の下には「応募する」ボタンが鎮座している。エンボス加工された一昔前のボタン風画像。フラットデザインの波はドットコムをサイト名に関するセンスの前では無力だったらしい。興味本位でクリックすると、表示されたのは普通の応募フォーム。


上林かみばやし 暗正くらまさ


おもむろに名前を入力してみた。そう、これが俺の名前だ。1986年生まれの30歳。20歳の時に高専を卒業して今の会社に就職してから10年間、数多くのWebサイトの開発に携わってきた。業務系のWebツール、コンプガチャが規制される前のガラケー向けソシャゲ、出合い系サービスとサクラ用の一括返信ツール、アダルト動画の配信サービスなどなど。そして今開発しているのがWeb小説投稿サービスだ。来週のリリースに向けて、最後の追い込みをかけているところだ。


ふと我に返った。そうだ追い込みで残業してコード書いてたのだった。すっかり忘れていた。いつの間にか、これまでに開発に携わったサービスを思い返し、業務経歴欄を埋め終わっていた。あれ、これもうSubmitボタン押したら応募できるんじゃね。やっちゃうか、転職。ハーレム完備してるらしいし。まあどうぜジョークだろうけど。面白いじゃん。どうぜ応募完了画面に「大成功」とかベタな看板持ったおっさんの画像でも表示されるジョークサイトなんだろう。


そうタカをくくって、TabキーでSubmitボタンにフォーカスを合わせ、おもいっきりリターンキーを叩き込んだ。


ツッターン!


httpリクエスト (SSLじゃないのかよ) が相手先のサーバーに到達すると、返ってきたのは光の濁流だった。目の前のPCモニタがRGBで表現できない色彩の光を放ったかと思ったら、周囲の一切が光に包まれた。右を向いても、左を向いても、そこにあるはずの同僚のデスクは見えない。自分がさっきまで叩いていたキーボードも、それが乗っていた机も、尻の下にあるはずの椅子もない。ただただPCモニタとそこから放出される光だけが、自分を包んでいた。

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