第五節 不可視の光

 展覧会場に立つ紗季の胸には、ずっと慶一の言葉が残っていた。

 ――「光と影が織りなす表情こそ、人間の真実を映す……それが写真だ」

 失われたもの、語られなかったもの、光に溶けた影。慶一のために、そして彼と共に過ごした日々への答えとして、紗季は企画『不可視の光』を決意した。


「紗季さん、これ……すごいですね」

 搬入を手伝ってくれた学生が、壁に並ぶ白黒写真を見上げて呟く。どの写真にも説明文はない。けれど、モノクロームの余白が、観る者ひとりひとりの心の奥を映す鏡になっている。


「説明はいらないの。見えないものを感じてもらえれば、それでいいのよ」

 紗季は静かに答える。声には不安はなく、確信に裏打ちされていた。


 オープニングの日。

 観客たちは足を止め、写真の前で長い時間を過ごした。誰かは亡き母を思い、誰かは初恋を思い出し、誰かは自分の孤独と向き合っていた。やがて慶一が隣に立ち、囁くように言った。


「やっぱり……残るんだな。目に見えないものほど、心に焼き付いて」

「ええ。だから私は、この展示のテーマを『不可視の光』ってしたの」


 二人は言葉を交わす代わりに、会場に漂う沈黙を分かち合った。その沈黙こそ、写真が呼び起こす、見る人一人ひとりが引き起こす記憶のざわめきだった。


企画展の幕が下りて、館内はすでに静寂に包まれていた。展示室の照明は落とされ、ガラス越しの街灯だけが、かすかな光を壁に散らしている。


 紗季は最後にもう一度、写真の列を振り返った。どの一枚にも、来場者たちの思いが重なり、無言の余韻が漂っていた。


「紗季……ありがとう」

 背後から慶一の声が響く。その声音には、言葉以上の感謝と救いが滲んでいた。


 振り返った紗季の瞳と、慶一の瞳が重なる。言葉はいらなかった。

 二人は歩み寄り、暗がりの中で静かに気配を重ねた。


 その瞬間、二人は確信する。

 ――見えないものこそが、心に焼き付いて残るのだ、と。


 外の夜風が窓を揺らし、遠くで街の灯りが瞬いていた。企画展の終わりは、二人にとって新しい始まりでもあった。互いの距離は、もう以前のままではなかった。


 静かな余韻の中、紗季が慶一の肩に手を置き、そっと呟いた。

 

「慶一さん……瑞希さんのお気持ちとも、向き合ってくださいね」

 慶一は、小さく頷いてから、会場をひとり辞した。


 慶一の実家――父の書斎には、古いオルゴールがそのまま残されていた。

 瑞希が僕に残した最後の言葉――『おるご』が耳の奥で繰り返される。

 慶一は、震える指先で蓋を開けた。静寂の中、現れたのは古びた便箋。見覚えのある文字。

 

 ――瑞希。


 慶一は息をのむ。

「読むからね、瑞希。きみも、それを望んでいると思うから……」


 封を切ると、淡いインクが時を越えて語りかけてくる。

 


「まだ見ぬ、未来のあなたへ。

 初めまして。咲良瑞希と申します。いま二十歳で、葉山正志先生のモデルをしています。

 実は驚かれるかもしれませんが……先生から思いがけないお願いをされました。

 それは――『将来、息子の慶一と結婚してくれないか』というものです。慶一さんもきっと喜ぶだろう、と笑って。

 あ、誤解のないように言っておきますね。先生との関係は、あくまで仕事だけです。若い方はすぐ勘ぐってしまうから……ふふ、失礼しました。

 まだ一度もお会いしていないあなたに、こんなことを打ち明けるのは不思議な気分です。でも、先生も奥さまも、とても誠実で温かい方々で、私にまで親切にしてくださいました。だからこそ、いつか慶一さんと出会い、もし心が通い合う日が訪れたなら、そのときはどうか自然に、ゆっくりとお付き合いが始まりますように――。

 こんな気持ちを、つい文字にして残したくなりました。お許しくださいね。

 手紙をオルゴールに忍ばせたことは……どうか先生には内緒で。

 ――瑞希」

 

 瑞希の文字は、時の隔たりを超えて今も生きていた。それは声となり、僕を縛るのではなく、背中を押すために残されていた。


――見えないものこそ、心に焼き付き、未来を照らす。


 瑞希の手紙は、過去ではなく未来のためにあった。その見えない光を抱きながら、僕は紗季と共に、新しい一歩を踏み出していく。

 

 夜、展示会の片付けが終わった会場……その場にひとり残った紗季は、企画の始まりから大切にしてきたファイルを開いた。

「慶一さんとの出会いがあればこその、今日だった……」

 ひとり呟く紗季は、メモ用紙を広げ、今の想いを綴った。


「慶一さんへ。

 あの日、あなたが残してくれた言葉が、私をここまで導きました。

 写真に刻まれるのは光と影。でも、その奥にある見えないものを信じる強さを、私はあなたから学んだのです。

 この展示が、あなたの未来に繋がる証になりますように。

 愛を込めて……

 ――紗季」


 いつか、誰かに託される証に……紗季は、ファイルの最後に自らの想いを閉じ込んだ。


 ーー完ーー


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 ◼️本作品はフィクションであり、実在の人物・発言等とは一切関係ありません。また、本作品の著作権は、作者にあります。

 

 

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余韻【参】 ー光の残像(視覚)ー 枯枝 葉 @kareeda-you

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