朝食、雑談、アメスピ(一本)

「そういやさあ、今月末だったと思うんだよ。地上波でやる映画でちょっとレアくてすごいやつ。っていうか今日だっけ?」

「該当する件数が多くて何にも分かんないんだけど」

「ほら実家で父さんが持ってた漫画、あれ俺らが生まれる前に映画になってんだよ。それが地上波初公開であー見たいなーロボでかくてかっこいいんだよなーってちょっと前に会社の先輩と話したのを思い出した」


 先輩は破烈派なんだよなとよく分からない単語で会話を一方的に結んで、生首はごろごろと人のベッドの上を転がっている。

 家主たる俺が床に座っているのに、堂々とベッドを占領しているのはどういうつもりなのだろう。飼い猫ならそのくらいの権限はあるだろうが、実の兄――しかも現状は生首だ――とはいえ成人男性に寝具を好き放題にされて嬉しいものでもない。かといって一般的な大学生男子の安アパートの一室にて生首をどこに設置するのが適切かと問われると答えられない。本棚あたりに載せたら大人しくなる気はするが、落下された場合に想定される状況があまりに悲惨なのでする予定はない。けれどもいつか勝手にの方からやりそうではある。近くの床にクッションでも置いておくべきだろうか、とそれなりに真剣に考える。何しろ生首である以上、高所からの落下には手も足も出ない――浮かんだ思考があまりにくだらない駄洒落だったので、俺は溜息を吐く。


 兄が首だけになって一日が過ぎた。

 身内がいきなり無職になって酔い潰れてから首と胴体に物理的に泣き別れてと種々の事象が怒涛の勢いを以て俺の平凡な生活にもたらされた土曜日ではあったが、昼が過ぎて夜が明けて迎えた日曜日、特に何か面白いことが起きたりはしていない。

 叔父の方からは『本棚で長編漫画を端から読んでるけどどうやってるんだろう』とのメッセージと共に本棚の前に座り込んで単行本を手にした胴体の写真が届いた。こんなもんを撮影しても大丈夫なのだろうかと他人事ながら心配になるが、既読をつけてしまった時点で俺も道連れだろうと諦める。首の有無という違いはあるが、昔よく俺の部屋で見た光景だ。互いに買うシリーズを担当して長編漫画を複数揃えていたので、自分の所持していない作品が読みたくなったときは相手の部屋に行く必要があったからだ。兄は俺が買い揃えていた麻雀漫画が気に入っていたようで、一時期はよく床に転がって読み耽っていたのを覚えている。

 こちらの兄も首だけではあるが、特に行動に変化などは見当たらない。朝は俺が起こすまで部屋の隅に転がって寝ていた。昨晩には生首にどういう寝具が適当なのかを考えて、とりあえずということで予備の枕を大窓の前に設置しておいたのだが、そちらはどうしてかローテーブルの下にまで移動していた。

 ――寝相が悪いんだろうか。

 首と胴体が揃った兄だった頃は、そこまで愉快な寝相だったろうか。思い出そうとしても心当たりがない。生首になった途端に悪化したのであれば、対応を考えるべきだろう。俺が寝こけている間に転がって本棚の角にでも頭をぶつけて流血沙汰、なんてことになったら寝覚めが悪い。

 さておき目が覚めたからには食事を取るべきだろうと台所でベーコンと卵を炒めていたところ、いつの間にか兄が足元に来ていたのには胆が冷えた。蹴飛ばさずに済んでよかったと思いつつ、兄さんも食べるかと聞けば「なんか気分じゃない」と断られた。

 大丈夫だろうか、と心配にはなったが、ある種の納得があった。そもそも生首に食事が取れるのだろうかのかという疑問がある。齧って噛んで飲み下すまではできるだろうが、その先を担当する胴体がないのだ。喉から零れて床を汚されても困る。人間ならば長く食事を取らずにいれば何らかの不調が出るのが常だが、生首に果たして普通の人間の感覚が適用されるのかどうかなど、俺のような一介の大学生が知るわけもない。


 そうして諸々の雑念を抱えながらも一人暮らしの学生としてはそれなりの朝食ベーコン入り炒り玉子と解凍ご飯にインスタント味噌汁をもそもそと平らげ、僅かな洗い物と周辺の始末を済ませた後。換気扇の下で咥えた煙草に火を点けた途端、


「なあ。一本分けてくんない?」


 食後の一服ったらなかなか優雅じゃんと足元からこちらを見上げて兄が笑った。


「いいけどさ。弟に煙草たかる年上ってどうなの」

「しかも職までないからな、どうにもならなすぎて開き直るしかない。……俺の分、シャツごと持ってかれちゃったんだよ」


 あいつどうやって吸うんだろうなと兄が眉間に皺を寄せて呟く。

 あいつ――叔父の元で煙草一箱分の支払いで預かってもらっている、馬鹿みたいな柄シャツを着た、兄の胴体首から下。あの状態での喫煙の困難さについては全く同感だが、この人もどうやって吸う気なのだろう。兄はこちらの視線の意図に気づいたのか、僅かに跳ねてみせた。


「とりあえず一本咥えさせて、火点けてくれればいいから。あと灰皿貸して。いい感じになったら取り上げて消して」

「全部やれって言ってるじゃん。王様かあんた」

「お前の兄さんだよ。……頼むよ、一回やったらあとはコツとか掴めると思うから。俺そういうとこは結構器用なの知ってるだろ。自転車とかすぐ補助輪なしで乗れたし、ビール瓶から泡の比率いい感じに注ぐの得意だし、折り鶴とかズレ少なめで折れるし」


 あまりに必死で頼むので、抵抗するのが馬鹿らしくなった。

 兄の首を持ち上げて、シンクの縁に置く。見慣れた兄の顔、右端にほくろの添えられた口元に取り出した一本を差し込んでから、手にしたライターに火を点ける。

 兄が合図のようにゆっくりと瞬きをした。

 咥えさせた煙草の先端に火を寄せれば、じわりと赤い火が灯った。


「ん、ありがと――お前これ何の煙草だ、吸ったことないんだけどこれ何、ええ?」

「何その反応。もらっといて文句言うなよ。アメスピだよ」


 眉間に深々と皺を寄せて煙を吐く兄の側に灰皿を置いてやる。煙草を分けてやって文句を言われたのは初めてだ。安くて量があって煙が出る、煙草に求める要素は問題なく満たしているはずなのに、俺の愛煙する銘柄に何の落ち度があるというのか。


「アメスピ、ああ箱は分かる、大学んときに吸ってたやついた……こういう味なのかこれ……」


 頂きもんだから大事に吸うよと口の端で紫煙を燻らせて、兄は少しばかり涙目になりながら笑った。


 換気扇の唸りに合わせるように、煙は立ち昇っては消える。

 生首の口元からも、規則正しく煙が吐かれているのを俺はぼんやりと眺める。呼吸をしているということが何だかとても奇妙に思えるのは仕方のないことだろう。首だけなのに一丁前に息をしているというのが俺としては不思議で仕方がない。胴体がなくて生きていられるのに、呼吸をする必要があるのだろうか。要不要だけで世界の全てが構成されているわけでもないだろうが、少なくとも人間が健全な生存を行うには首と胴体がひとまとめになっている必要があるのではないか――。


「そういやあ仕事してたときに聞いたんだけどさ、電話の話があんのよ」

「――なに、何の話?」

「電話。っていうかあれだ、雑談だから適当に聞いていいよ。なんなら聞かなくてもいい」


 完全に逸れていた思考が兄の呼びかけで揺らいで、俺はうろたえながらも視線を向ける。


「別にそこまで大したことは喋んないよ。煙草のお礼みたいなもんだから」


 そう嘯いて、兄は咥えたままの煙草の灰を器用に傍らの灰皿へと落とした。


「会社のオフィスにさあ、空席があんの。買ってきたデスクそのまま置きました、って感じで何もかも剥き出し、デスクマットも卓上カレンダーも椅子もない」

「こんなん?」


 オフィスデスク、とスマホで検索して出てきた画像を見せる。広い天板、足元の右側に引出が装備されている。至ってシンプルな作りのデスクだ。

 兄はゆらりと前傾した。


「そうこれ、子供用学習机の進化版みたいなやつな。言うまでもないけど引出の中も空。で、基本的な装備はなんにもないのに、電話があんの」

「何で」

「こう……グレーのオフィス用電話みたいなやつが置いてある。電話もねえ、ちょっと形式が違うんだよね。笠原さんとかの事務方の机にあるのより古っぽい感じのやつ。そんで基本は触っちゃダメって言われてた」

「触っちゃってのは何、いたずらすんなみたいな?」

「いい大人が会社の備品でいたずらしないって。言葉通りの意味で、触るなってことだった。あらゆる身体的接触を禁じる、みたいな」


 うっすらと話の雲行きが怪しくなってきた気がして、俺は咥えた煙草に僅かに歯を立てる。会社の電話機、内線外線の違いはあれどもおよそ業務においては必要不可欠なものではないのだろうか。それに触れてはいけない、という指示が出る理由というのは、何だ。


「基本はさあ、他の席の電話って取らないじゃん。あと俺はどっちかっていうと外出てる方が多かったから尚更触る機会とかなかったけど」


 なのにさあ、鳴るんだよ。たまに。

 兄が煙を吐いた。紫煙はそのまま換気扇に吸い込まれて消えていく。


「そういうときに限ってさ、近くっていうか部屋に俺しかいなかったりするんだよ。で、電話が鳴ってたら出なきゃいけないじゃん、社会人だから。それで普段の指示とか忘れてうっかり受話器を取ったところで、あっこれ触ったら駄目なんだったって思った途端に指を噛まれる」

「噛まれる?」


 ただ聞こえた言葉を繰り返しただけの間抜けな俺の相槌に、兄は僅かに前傾してみせた。


「電話が人の首に置き換わってて、そいつの口元に俺の手があるんだよ。で、がっといかれる。そうして噛んでからちょっとだけ咎めるような顔をして、次に瞬きするとまた元の電話機に戻る。勿論音も鳴り止んでて、机の上にも相変わらず何にもなくて、でも指先に噛み痕がある」


 大体笠原さんにバレて叱られるし絆創膏もらうんだよな、と左右にゆらゆらと揺れて、兄は微かに口元を吊り上げた。


「……兄さんはさ、なんか生首を扱う仕事とかしてたの?」

「そんな仕事あんの? 日本に、っていうかこの世に」

「いやだってあんまり……生首とか出てこないから、世間話にさ……」


 話の内容が飲み込めないままに発した不明瞭な問いに、端的な答えがあった。

 考えるまでもない、当たり前のことではある。需要のあった時代ならともかく、人間的倫理と刑法が運用されている現代社会においてそんな野蛮ブルータルな職業及び業務があるわけがない。兄が何の仕事をしていたのかは知らないが、さすがにない仕事はできないはずだ。


「でもさあ、俺あの電話の首のことちょっと今尊敬してるもんな」

「尊敬。……噛むのに?」

「噛むから。こうやって首になったけどさ、じゃあそういう芸ができるかったら自信ないもん。つうか人を躊躇なく噛めるの、多分なんかの才能がいるやつだと思う。やっていいって言われてもおろおろしちゃう気がするんだよな、痛そうとか膿んだらどうしようとかそういうこと考えちゃって」

「何の話をしてるんだよ。っていうか駄目だろ人を噛んだら。あと何で取っちゃうんだよ触るなって言われてんのに」

「だって電話鳴ったら取らないとだしなあ、俺下っ端だったし。とにかく鳴ったからって反射で出てると、禁止事項とかすっ飛んじゃうんだよ。そんで噛まれるし、病院行けって言われるし、膿むし」


 やっぱあれだね、余裕がないと人間って馬鹿な真似をするねと当たり前のことを呟いて、兄は何度か前傾してみせた。

 そうしてしばらく互いに煙を吐くだけの沈黙が続く。

 兄の口元に灯る赤が呼吸に合わせて明滅するのを、俺はぼんやりと眺めている。見知ったはずの生白い横顔が、どうしてか何の覚えもない他人のように見えてくる。台所の薄暗さのせいだろうと思いながらも、その薄い唇が、添えられたほくろが、やけに青白く見える白目と伏せられた瞳が、兄を名乗るだけの他人のものではないかという疑念に塗れていく――。

 ぞろりと横目がこちらを向いて、俺は煙草を取り落としそうになる。

 兄は何度か瞬きをしてから口を開いた。


「これからどうする? つうか今日予定あんの、お前。優雅な日曜日だけど」

「あー……コンビニは、行く。冷蔵庫にすぐ食えるもんがないけど、料理は夜しかしたくないから、なんか買う」

「俺も行きたい。煙草買いたい」

「兄さん金あんの」

「……貸してください」

「いいよ。どうせ兄さん出られないし、昼飯のついでに俺買ってくるよ。何吸ってたっけ」

「マルボロ。赤」


 そういやこの人の銘柄も俺は知らなかったのか、と今更のように思う。何となく後ろめたいような気になるが口には出さずにおいた。言ったところでどうにもならない、というよりどうでもいいことだろう。妙なことを口走って兄に気味悪がられるようなことは避けたい。

 ――マルボロ、いつものコンビニだと何番だったか。

 そんなことを考えながら、俺は暗い天井を仰いで煙を吐いた。

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