真昼、胴体、ハイライト

 秋の真昼、ただ透徹と明るい日射しが窓ガラスから滴る部屋に、何度目かも分からない溜息が響いた。


 清かな日の射す南向きの大窓、その向こうにはベランダの壁に半ばほどを切り取られた淡い青に染まった空が見える。端にまとめられたカーテンは淡い灰色。特徴のない白い壁にはシンプルな本棚とDVDラック――どちらもスペース一杯に本やケースがぎっちりと詰まっている上に、入り切らなかったであろうものが手前の床に一定の高さの山をいくつか作っている。角には画面の規格が部屋の規模の割にやけに大きいテレビ。本棚と反対側の壁にはベッドが置かれており、端に布団がよじれて溜まっている。ベッドの側にはデスク、その上には文庫本が積まれ、そのついでのようにPCが置かれている。


 何の特徴もない、変哲もない、異常もない部屋。その部屋の中央に派手な柄シャツ――黒地に大輪の緋牡丹が咲き群れている――を着た胴体は静かに正座している。


 叔父は二本目の煙草をローテーブル上の灰皿に折り潰して、伏せていた目を俺へと向けた。


「話がね、もう全然分かんないんだよ。酔っぱらってるわけでも寝ぼけてるわけでもないのに。ええと――首の方の和紘くんは生きてんのか。首だけで」

「はい。元気です。お久しぶりです叔父さん」

弟の方明貴くんとはこないだ映画見に行ったけど、和紘くんと会ったの去年の夏ぐらいだもんな、そりゃあお久しぶりだ。そんで首と体が泣き別れになってるとか、おじさんはもう何にもついていけない」


 また新しく一本を咥えて、叔父は兄の首を抱えた俺を見る。まだ瞼が腫れているのと白目が充血しているせいで、元から悪い人相がよりひどいことになっている。

 目つきが悪い、黒目が小さい、目元に隈が染みついている。おまけに無闇に痩せているので、どこもかしこも骨やら筋が生白い肌の下に浮いている。

 古い映画に出てくる肺病病みの三下やくざのような容貌のこの人は、名前を寺藤義晃よしあきという。

 関係を辿れば父の弟、つまりは俺たち兄弟の叔父である。父と年が幾つ離れているかの細かい数字は知らないが、確か四十は超えていたはずだ。目つきが無闇に悪いのと肉が薄くて骨の目立つ手やら首筋のせいでどうにも不審がられるのが常になるような外見ではあるが、その中身といえばと言うほかない。普通に進学し都会こちらに出て、そのまま何事もなく個人医院に事務員として就職し、淡々と生活を続けている。

 俺たち兄弟が父の実家に帰るたびにあれこれと構ってくれたのもこの人だった。

 向こうとしては暇潰し、あるいは幾ばくかの義務感によるものだったかもしれないが、忙しい大人の間ですることもなく二人揃ってぼんやりとしていた子供の面倒を見てくれた。幼児の頃は裏庭の畑の中で日射しに焙られながら蝉の抜け殻と羽を集めるのに付き合ってくれたし、中学生のときは退屈してひっくり返っているのを街の映画館まで連れ出してくれた。こうして俺たちが大学進学を期に実家を出て近くに住まうようになってからは生存確認だと食事に連れて行ってくれたりもするし、職場に届いたお歳暮のおすそ分けだと食用油やらそれなりにいい素麺などを分けてくれるし、こちらから突然に押しかけて特に何をするでもなく入り浸っていても怒られない。

 要約するまでもなく、あるいは疑うまでもなく、いい人なのだと思う。少なくともある日突然枕元に首なしの胴体が居座っているような状況に遭うような悪業は積んでいないはずだ。

 とりあえずは知っていることの説明だけでもしておくべきだろうと、俺はローテーブル越しに叔父の目を見返した。


「俺も全然分かってないんですけど、とりあえず兄さん、仕事クビになったんだそうです。一昨日」

「一昨日。それもまた急な話だけど」

「俺もそう思います。そんで俺んちで飲もうぜっていうから、まあ失職直後でハイになってるんだろうなって思って、飲んでたんです。金曜日だったし飲み過ぎて潰れても別にいいなって、そういう加減で」

「そんで二人して潰れてたんだけど、なんか明け方に胴体が出てっちゃったんですよね。そんで俺こんなんで、もっかい寝てから起きてもやっぱり首だけだったんで腹括るかって弟起こして、わあわあやってたら叔父さんから電話が来たんですよ」


 だからこうして二人で訪ねてきましたと、俺に抱えられたままの生首が小さく跳ねた。叔父はしばらく目を丸くして、我に返ったようにぼわりと煙を吐く。ちらりと視線を俺たちの背後――胴体の方へと向けてから、ぐったりと目を伏せた。


「俺も最初部屋にあれが入ってきて、怖いとか以前に意味が分かんないから夢だと思ってもっかい寝て、そんで起きたらベッドの横で正座してたから、もうこれは俺頭おかしくなったんだなって諦めたんだよ」


 叔父の視線の先、相変わらず正座を崩すこともなくじっとしている胴体。着ている浮かれた花柄のシャツ――黒地に緋牡丹が幾つも咲き群れている――から見るに、明らかに兄の胴体だろう。部屋の入口に立った俺たちに向かって手を振ってきたときは、目の前の光景を飲み込むためにしばらく立ち尽くしてしまった。生首が喋ったり動いたりしているのも相当ではあるが、首のない胴体が何事もなく動作しているのも中々に異様な光景ではある。

 ――こんなもんが目の前にいて、もう一回寝直せるのか。

 それはそれで大概どうかしているのではないかと思ったが、寸前で口には出さずに済んだ。少なくとも現状では二対一になるだけ俺の分が悪い。理屈をどうにか考えるなら見なかったことにすれば何とかなるのでは、そんな僅かな希望に縋った結果としての逃避とするのが妥当だろう。そうして眠った叔父をただ傍らで眺めていた胴体というのも意味が分からない。気遣いのつもりだろうか。予告もなく押し掛けておいて、半端に優しいような真似をして何になるというのか。

 ――けどこいつはそういうこと、するもんな。

 そもそも無職になったからと弟の家に突撃してきておいて、酒やらつまみやらは自腹で用意していたようなやつだ。昔からそうだった。実家にいた頃、高校生のときに大雪が降ったからとはしゃいで部屋で大人しく本を読んでいた俺を引きずり出して雪遊びに付き合わせ、そのまま俺は風邪を引いた。それに責任を感じたのか俺の部屋に特に看病じみたことをするでもなくただ付き添っていた覚えがあるし、それで自分も風邪を引いていたのだから本当にどうしようもない。思い付きとその場のノリで躊躇なく突っ走るくせに、後からおろおろと親切のような真似をしてはより事態を面倒にする。それでいてどこにも悪意はないのだから、余計にたちが悪い。

 過去の愚行を脳内から振り払う。今は目の前の事象について思考するべきだ。 

 黙々と煙を吐く叔父に、俺は問いを投げる。


「そういやなんで俺に電話くれたんですか。気が狂ったと自覚したときにどこに電話すべきかっての、俺も知らないですけど」

「学校で習わないもんねえ、そういうの。君の番号が履歴の一番上にいたのと、ほら、近場だから。どうにもならなくって俺が病院なり警察行きになったら、そのまま始末が頼めるかなって思ったんだよ。……こんなん兄さんに言えないもんなあ、めちゃくちゃだもん、説明ができない」


 つっても君らもできないみたいだね、と叔父が煙越しにこちらを見る。腕の中で兄の首が前傾して、そのまま床に落ちた。拾い上げれば少しばかり照れたように笑うので、安否を問うのも馬鹿らしくなる。もう一度抱え直してから、俺は言葉を続けた。


「説明に来たとは言いましたけど、結局俺らもよく分かってないんです。兄さんの首が取れて胴体が逃げた、そんで胴体が叔父さんのところに来た、それが残念ながら事実だってことを補強することしかできません。なので叔父さんは正気です。そんで兄さんは首と胴体の二分割になってます。以上です」

「だよねえ。……ただあれだね、整然と理屈を説明されたりしたら俺めちゃくちゃ怖かったと思う。塩撒いちゃう」

「塩、効くんですかね」

「どうだろ。別に撒いてみてくれてもいいし、何なら擦り込んでくれてもいいけどさ。精々垢すりか下味ぐらいにしかならない気がする」

「あんまりふざけてると目に入れるよ兄さん」

「拷問じゃん。やめろよ無力な生首相手にさあ、そういう無体な真似すんの」


 ひどいことすんじゃないよと兄が吐いた言葉に合わせるように、胴体が両手を挙げてからひらひらと振った。叔父は目を剥いて硬直している。


「――まあ、一応お兄ちゃんの胴体だってのが分かったから、いいけど。でもこれどうするの、くっつく?」

「くっつきますかね。普通の切り傷だってそこそこかかるのに、首が取れてるのは、こう」

「一度くらいは試してみてもいいんじゃない? これで戻ったら万々歳だし、駄目だったらまあそんなもんだろってことでさ」

「他人事みたいにさあ、生首が何を言ってんだよ本当に……」


 どうにも危機感の薄い兄の言葉に頭痛がぶり返すような心地がする。さておきできることを試さないのも損だろうと、俺は兄の首を抱えたまま胴体の側へとにじり寄る。断面をなるべく見ないようにしながら、兄の生首を乗せる。

 まっすぐな肩の線、その中央に置いた首からゆっくりと手を放す。自転車の練習みたいだな、と場違いなことを思った。支えていると騙したまま、突き放して見送る――兄の首が、胴体が騙されてくれればいいのだけどもと、僅かな望みを抱いた。


「どうだろ兄さん」

「んー……あ、駄目だ」


 眩暈でも起こしたように揺らいで落ちそうになる首を、俺は慌てて抱え込む。

 生首――胴体から切り離されてなお元気に動いている時点で頭を打った程度でどうこうなるかと言われたら判断に悩むところではあるが、一般的な常識においてはそうがんがんと頭部に衝撃を与えるのは避けるべきだろう。実の兄の頭が170cmの高さから落下して地べたに転がる様を見るのはあまり気分のいいものではないだろう。万が一割れたりしたら取り返しがつかない。幼少期、夏に帰省した祖父の家で縁側から興味本位で落とした西瓜が見るも無残に四散した様を思い出して、俺は慌てて気を逸らす。あれを人の頭でやるほど俺も叔父も悪趣味ではない。


「くっつきませんね」

「ガムテープとか使う? 布と紙どっちもあるけど」

「いや、止めときます。下手にくっつけて、何かの拍子に落ちたりしたら危ないですし」

「和紘くん、身長あるからね。高いところから首を落とすの、下手すれば死ぬ――死ぬかな生首で喋っちゃってるけど――でも危ないから――」


 叔父がもごもごと語尾を曖昧にしながら俯く。無理もない。生首がいきいきとしている時点で何が危険で安全なのかをどう判断すればいいのか。深く考えると取り返しのつかないことに気づいてしまいそうで、俺は黙って頭を振った。


「でさあ、胴体これどうするの。何でか俺のところに来たけど、別に俺ができることないんだよね、多分」

「そうですね。……そうなん、ですけど」

「ですけど?」

「……このまま叔父さんのところで預かってもらったりとか、できませんか」


 叔父の眉間に深々と皺が寄った。

 無理もない。無茶を言っているのは俺の方だ。叔父のところに来るまでの道中で生首片手に考えていたことではあったが、とりあえず胴体については引き続き預かってもらうつもりでいた。首なしの胴体と生首を抱えて、叔父の家から自宅まで何事もなく戻れる自信がなかったのもあるが、何より男二人で住むには俺の部屋は狭すぎるというのが大きい。元々が学生の一人暮らし用として借りた部屋であり、もう一人――胴体を一人と勘定していいのかが悩みどころではあるが――を同居させておくだけのスペースも設備もない。首ひとつならインテリアを一つ増やすぐらいの手間で何とかなるが、成人男性の胴体は嵩張るのだ。

 叔父は歯痛を堪えるような顔をしてから、煙草を指先に挟んだまま口を開いた。


「スペース的にはできるけどさ。その、できれば一緒に、っていうか近くに置いといた方がいいんじゃないのかな」

「俺の部屋1Kなんですよ。叔父さんの部屋より狭いのに、首と胴体まで置いたら明らかにキャパオーバーです」

「それはまあ、理屈としては分かるけどさ。あんまり離れて置いとくもんでもないじゃん、首と胴体。くっつきたがって飛んだりするって、昔そんな話を聞いたよ俺は」

「それはそうかもしれないんですが。ただ、ほら」


 首をねじって視線を向ける。

 兄の胴体は正座したまま綺麗に一礼した。


「どうですかね。その……こうなんで」

「なんか胴体がこう言ってるんで、俺からもお願いします、叔父さん」


 叔父は渋い顔のまま黙り込む。口元の煙草の火は赤々と灯り、みりみりと燃え進んでは唇へと近づいていく。


「……とりあえずさ、俺は怖がりなんだよね」

「そうなんですか」

「そうだよ。仕事終わって帰ってきたときに消したはずの換気扇の明かりが点いてたらもうその日は四時くらいまで寝らんないし、ふっと夜中に目が覚めたときにクローゼットから物音がしたら起きて明かり点けてからうだうだ一時間ぐらい悩んで扉開けて確認してからテレビ点けっ放しにしないと無理だし、風呂で頭洗ってるときにだるまさんのやつ思い出したらいきなり富士山を歌い出して絶対鏡も背後も見ないようにするぐらいのことはやるの、俺は。だって怖いから」


 溜息。先端に伸びた灰を灰皿に叩き落してから、叔父は続けた。


「たださあ、君たち俺の甥っ子じゃん。そんでこの胴体が和紘くんので、ここに居たいっていうんならさ、無碍にはできない、だろ。叔父だし」


 だってかわいそうだし、と天井に煙を噴き上げて、叔父は充血した目をぞろりと俺に向けた。


「帰る前にさ、下のコンビニで煙草買ってきてよ。預かり賃、一旦はそれでいいから」


 叔父はハイライトの空箱を握り潰してから盛大に紫煙を吐いた。

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