外出、反省、本棚

 何しろ大学生という身の上であるため、講義というものを受ける必要があるし、当たり前だがそのためには大学に登校しなければならないのだ。

 大学進学という進路を選んだのが自分の意志によるものなのだから、別段それに文句があるわけでもない。講義に間に合うように生活を構築するのも義務だろう。将来の独り立ちに備えて、こうして一人暮らしというものを練習できるのはありがたいことだと思うべきだ。親の目を離れての自由な空間、というのも勿論魅力的だったことを否定はしないが、建前及び本来の目的というものを忘れるべきではないだろう。


 さておき一人暮らしの俺の部屋には無職になった上に生首になった兄が居座っているのが現状であり、手も足もなくそのくせ首だけでごろごろと動き回るあいつの面倒をどう見るべきかというのが目下の課題となっている。


 何をすべきかは未だによく分かっていないが、それでもできることはしてきたつもりだ。暇を持て余すといけないと思いテレビは点けっ放しにしてきたし、本棚の書籍に手を出すのは無理かもしれないがタブレットならまだなんとかなるだろうかと大学入学の時に父から譲ってもらったまま放っておいたものに動画と電子書籍のアプリを導入して床に置いてきた。やむを得ない用事で子供を置いて外出する親のようだという感想が支度の最中に脳裏を過ぎりはしたが、実際今の兄は子供よりたちが悪い――退屈させると何をするのか予想がつかないのだから仕方がない。

 首だけとはいえ二十歳も半ばを過ぎた成人男性にその評価はどうなのだと問われても、過去にそれなりの実績がある。普段はぼうっとしているくせに、時折思いつきで訳の分からないことをやらかしては家族を右往左往させるのが昔の兄だった。俺が生まれる前には、自分の茶碗を玄関に持ち出しては叩きつけて割れるのを見て喜んでいたそうだし、曽祖父が亡くなった際に動転した両親が兄を置いて火葬場を後にしたときにも泣きも騒ぎもせずに待合の椅子に座ってじっとしていたので誰にも気づかれずに火葬場の職員から連絡が来る羽目になったとも聞いた。実家の階段の半ばから飛び降りてはしたたかに床に顔をぶつけて鼻血をだくだくと流しながら居間に顔を出したのは小学校のときだったろうか。あのときは確か小学生とはいえ高学年だったはずだが、理由を尋ねられて『なんかいけそうな気がした』と答えたので父に怒鳴られていた。高校生になってからはそこまで派手な――少なくとも他人に被害が出るような愚行には及ばなくなったが、それでもいきなり肉まんを四種類買ってきては案の定食べ切れずに俺に協力を頼んできたりしていたので、性根は変わっていない気がする。胴体と頭が無事にくっついているときでさえその様だったのに、生首だけになったこの状況で暇などを与えたりすれば、およそ何かしらをしでかさないはずがない。

 気もそぞろなまま授業を終え、寄り道もせずにアパートの玄関へと帰りつき、鍵を回す。


「お帰り。遅かったじゃん学生さん」


 換気扇の真下、暈けた橙の光。

 咥え煙草の兄はシンクの縁に器用に乗ったままへらへらと笑った。


煙草それ、どうやったの」

「ん、昨日お前に手伝ってもらったから。言ったろ、コツ掴むの早い方だって」


 ――火遊びになるんだろうか。

 咄嗟に思いついたことを口にしようとしたが、こちらを見る兄の顔が少しばかり得意げだったので、躊躇ったまま飲み下す。一服ついでとはいえ、出迎えてくれたのは確かだ。ならばそれに感謝を示すべきだろう。


「ただいま、兄さん」


 代わりに吐き出した挨拶に応じるように兄はゆっくりと前傾してから、紫煙越しに僅か双眸を細めてみせた。


***


「兄さんはさ、何の仕事してたの」

「えー……ベンチャー企業? で企業戦士? みたいな感じで毎日頑張ってたよ」

「八割ぐらい嘘だろ、それ。っていうか兄さん分かってないで言ってるだろ」


 夕食――前日と同じく食べるのは俺だけではあったが――を終え、少ない食器の片付けも手早く済ませたはいいが、特にすることもない。特に文句もなかったので点けっ放しにしていたテレビには芸人がご当地の飯を食べて回って音量の割に中身のないコメントを添える類のバラエティーが映っている。駅の本屋で気まぐれに買った本を読む気分にもサークルの同期との付き合いで始めたソシャゲに手をつける気分にもならず、何となく兄に話しかけた――というより話をする必要があると思ったというのが正確な表現だろう。

 何しろ先週の金曜日に兄が無職になったと連絡を寄越すまで、正直どうやって生活しているのかということも知らずにいたのだ。身内ではあるがお互いに大人――少なくとも十八歳は超えているのだから法律的には成人だろう――なのだから、細々と近況などを伝え合うようなこともしていなかった。何かあれば連絡が来る、来ないということは元気にやっているということだろう、そのくらいの分別はつくはずだ、何しろ大人なのだ。そうして安穏と油断していたところに職を失くした上に胴体にまで逃げられた兄が現れたのだから、甘くて普遍的な見通しはかくも容易く裏切られたのである。

 兄は先程拭いたばかりのテーブルの上に乗ったまま、少しばかり思案するように右に深く傾いてから、器用に重心を元に戻した。


「だって業種とかそんな細かいこと考えたことないからなあ。何だろう、サービス業? 一番当たり判定広そうだし、その辺で大体合ってそうだと思わない?」

「俺に聞かれたって知らないんだよ。っていうかそんなんでどうやって就職したのさ兄さん」

「大学んときにサークルでよく飲み行ったり遊んだりしてつるんでた先輩と仲がいいOBさんが会社やってて、人手が足りないからお前バイトしないって言われて分かりましたやりますって声かけられるたびにちょいちょい手伝ってたらいつの間にか社員になる流れになって、なった」

「馬鹿じゃないの」


 一息でつらつらと吐き出された説明、その内容に眩暈がした。

 流れに流された挙句に何もかもが曖昧なままどこかしらに流れ着いているのがたちが悪い。何も為せなかった方がまだまし、下手に成果が出ているのが一番予後が悪い。そもそも就職というのはそれなりに人生において重大なイベントに分類されるものではないのか。それを業種も待遇も何もかもが曖昧なままコネとツテ勢いとノリだけで決めている。こういう人間はいつか自分が知らないうちにとんでもないことをしでかすのでは、あるいは知らないうちに取り返しのつかないことをやらされてから、切られることが決まっていた尻尾としてありとあらゆるひどい目に遭うのではないか――そもそもこうして生首になっている生きたまま胴体とお別れしている時点で、既に因果が巡ってきている気はする。

 この状況が果たして取り返しのつかないものかどうかは考えたくない。このまま兄が生首のままだった場合はどうすればいいのかと自問して、当然のように答えは出せずに唇を噛む。叔父だって困るはずだ。あの年になっていきなり胴体だけの同居人ができるというのも中々の災難だろう。また週末あたりに様子を見に行った方がいいかもしれない、と思った。煙草一箱を対価に預かってもらったとはいえ、胴体の様子も見に行かずにいるのは無責任というものだろう。

 兄はしばらくこちらを見てから、不思議そうな顔で続けた。


「何で俺の就職話聞いてお前がそんな顔すんの。別にいいじゃん、特に親とかお前に迷惑とか掛けなかったし、俺も何にも困んなかったんだから」

「そりゃあそうだけどさ」


 心配になるだろ、と吐こうとした言葉が喉に貼り付く。

 ――そんなことを言ったところで、今更じゃないのか。

 兄がこう生首になる前に、自分が兄をどう扱っていたか。勝手にいたたまれなくなり、目を伏せる。兄の顔を正面から見られる気がしなかった。便りがないのはよい便りという言葉を盾に、わざわざ連絡を取ってこないということは特段の困りごともないということだろうと勝手に状況を想定して安堵していた。

 そうして油断していた結果がこのよく喋り動き回る生首だとしたら、こうなってしまった責任の一端は俺にもあったのではないか。もう少し近くにいてやれれば、気にかけていれば、気遣ってやれれば――最早意味もない仮定が泡のように浮かんでは後悔の飛沫を散らして消えた。


「兄さん、あのさ――」


 言うべきことも曖昧なまま、それでも黙って見過ごすのも違うだろうと俺はようやくと顔を上げる。

 先程まで鎮座していたローテーブルの上には兄の姿はなかった。

 ――どこに行った。

 ほんの一瞬目を離しただけだ。部屋の鍵も帰宅のときにチェーンまで掛けた。まず生首だけでどこに行けるわけもない。不安への反駁が幾つも頭に浮かぶが、されども不安はじりじりとその体積を増していく。確かに理屈としてはそうかもしれないが、そもそも生首だけで元気に動き回っているようなやつに真っ当な理屈が適用されるかどうかが怪しいのだ。コツを掴んだというだけで、生首ひとりで悠々と紫煙を燻らせてこちらを出迎えてみせるようなやつに、常識的な基準が適用されるのだろうか。ほんの昨日までは口元に煙草を挿せだの火を点けろだの灰皿を寄越せだのと王様のようなことを言っていたのに。

 どくどくと鼓動が早くなる。見失った、それだけでここまで動揺している自分が信じがたくもある。普段の兄なら気にもしない、けれども今あれは首だけなのだ、何かの拍子に外に転がり出てしまって、何かしら危うい目に遭わないとも限らない。俺は今度こそ何もかもを繕いようもなくしくじってしまったのではないか――。


「兄さん、どこに」

「ここだって、上。本棚んとこ」


 本棚?

 聞こえた声に従って、視線を向ける。

 本棚の最上段、その上の天板。

 白い壁を背景に少しばかり驚いた顔でこちらを見下ろす兄がいた。


「そんなさあ、どうしたの今にも死にそうな声出してさ。なんかつらいことあんならお兄ちゃんに話してみ、聞くだけならなんぼでも聞いてやるから」

「なにしてんの」

「ん、乗ってみた」

「違う、足りない、なんでそんなことしてんの」

「高いところに上がってみたかった」


 馬鹿みたいな答えが返ってきた。

 状況がそもそも馬鹿だと言われたらその通りである。ならば仕方がないと納得するしかない。これでちゃんとした理屈理路整然とした心理でも語られた方がよほど怖い。


「何かさあ、そういうタイミングってあるじゃん。今ガチャ回したらピックアップ当たるとか、今なら勉強したらめちゃくちゃ集中できそうとか、そういう感じがするやつ」


 なんか登れそうな感じがしたんだよねと兄は照れたように笑った。俺はただ茫然と棚を見上げている。


「でさあ、明貴」

「なに」

「降り方全然分かんないから、とりあえず下に布団敷いてくれる? 飛ぶから」

「……降ろしてやるから、頼むからじっとしてて。それ以上動かないで」


 知らぬが仏、見るが目の毒、見ぬは極楽――認識したが最後、どうあがいてもこちらの負けになるのだろう。この人の動向をいちいち気にかけていたらこちらが参るのが先なのかもしれない。というより十中八九そうなるという確信がある。ある程度までは好きにさせておいて、どうしようもなく致命的になると傍から見ても分かるような致命傷の寸前に手を出せれば合格ぐらいの心構えでいた方がいいのかもしれない――それこそこうして高所から首一つで飛び降りるような無謀を試みていようが、それが本人の意思によるものならば俺が口出しなり手出しなりをするようなことではないのだろう。

 けれども仕方がない。ちょっと目を離している間に、仕事を辞めて首だけになって胴体が勝手に人の家に押し掛けるような真似をする人間を放っておけば、確実にろくなことにならない。何より俺はこの人の弟であるのだから、そうした愚行を見て見ぬふりをしたところで後始末のツケはこちらに回ってくるのだ。あとは、まあ、多少ではあるが――寝覚めが悪い。近しい血縁が痛い目を見る様など好き好んでみたいものではない。


 見上げれば兄と目が合う。いつもと同じ軽薄な笑顔は、無個性な本棚にやけにきっちりと収まっている。目元に不安のような翳りが僅かに滲んで見えるのは、照明のせいだろう。

 立ち上がるついでに溜息を吐く。抱えたあとでベッドにでも放り投げてやろうかと思いながら、俺はへらへらとした顔へと手を伸ばした。

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