第2話 喪失と炭酸

「フゥ──フゥ、フゥ……」


 自分の呼吸音がうるさい。黙らないといけないという緊張から心臓が揺れて、もっと隠れなければと、真っ暗のトイレの床に跪くみたいに伏せっている。


 どん、どん、と壁が叩かれる音がした。

 ここではない。たぶん、キッチンの方だ。昨日はキッチンに隠れていたから、確認しているのだろう。

「フゥ、フゥ、フゥ、フゥ──」

 黙れ黙れ静かにしないと呼吸すら惜しまないと──


 どん、どん


 ──音が近づいてくる。

 ──バレた?

 どん、どん、どん。ばん。

 壁にぶつかった。窓が叩かれた。

 良かった。ここじゃない。バレていない──


 ばん! と音がした。それも、すぐ、近くから──


「──ううぅッ」

「ひっ」

 口を抑えたが、遅かった。

 壁を叩くそれは──窓を殴る化け物は──"華崎の声の何か"は、トイレの窓を叩いていた。便座の後ろの磨りガラスの窓に、崩れた人の形がモザイクのように映る。

 それはおかしな汚い声で唸ったり、叫んだりし続ける。華崎はそんな声じゃないと言いたかったが、この化け物の声は、どことなく華崎の可憐な声の面影があった。

「うううう……」

 何が目的なのか、それは華崎が死んだ次の日から何日も何日も、僕の住むアパートの周りを徘徊する。

 僕は華崎の死体を見た。

 華崎は死んでいた。それは確かで、ならばこれは──リビング・デッドか、怨霊か、それとも悪魔でも死体に取り憑いたのだろうか? どちらにせよ、もう精神も体も、限界だった。

 ああ、と声を漏らすと、やかましく騒ぐ悪魔の声と、窓を叩く音が一際大きく鳴った。

「──もうやめてくれ……」

 もうその人をを弄ばないでくれ。

 そう懇願すると、カチンと意識が途切れた。




 深く、ため息を吐く。ベンチにもたれ掛かると、立てなくなるくらい身体から力が抜けた。昼間になるとやたらセンチメンタルになって、毎日、ずっとこんな体たらくだった。

 ──華崎が死んだ。

 右に右に崩れる身体を止めずに、華崎の顔を思い起こす。

 ──華崎が死んだ。

 やわく目尻を下げて笑う顔が脳に張り付く。ああ、そういえば彼女はつり目だったなと気付いてまたそれに心が沈む。


 ──華崎が、死んだ


 あれから一週間が経過していた。

「よう」

「──あ、監督……」

 監督が眉間に皺を普段にも増して寄せているので、無理やり立ち上がろうとすると、いいと制された。

 監督が隣に座る。缶コーヒーを握り締めていた。

「元気無いな」

「……そうですかね」

「しゃんとしろよ。疲れてるのは分かるが」

「すみません」

 何があった、と冷たい声で聞かれた。

 なんでもないと言おうとすると、華崎の顔が過った。

「高校からの友人が──死にまして」

「そうか。女か?」

「はい」

「恋人か」

「違い、ます」

「告白しなかったのか」

「出来ませんでした」

「どうして」

 ──どうして?

 婚約指輪を忘れたから、結婚してくれと言えなかった。違う。それは本質的な原因ではない。踏ん切りが付かなかったのだ。躊躇っていたから、特別な物を用意した。己の背を押すために。──けれど、それを忘れて。

「──なんて言うべきか」

「相手が居たのか」

「ち、違います」

「じゃあひよったんだな」

「──そう──です」

 結局僕は彼女と共に生きることをひよったのだ。彼女と共に生きて、彼女が僕の隣で病に苦しむことにひよっていたのだ。

「寝てないだろ」

 ──自分の顔見てみてよ

「はい」

「俺も寝れない時があった。寝ようとするとあちこちから音が鳴って、寝たくても寝れなかった。」

 はあ、と生返事をすると、俺はお祓いをして貰ったんだと監督が続けた。

 たぶん僕は、驚いた顔で監督の方を見ているだろう。そういうスピリチュアルな話はホラー映画に関わっていると聞くそうだし、僕自身も否定はしないが、この人がそういうのを本気にする人には見えなかったのだ。

 むしろ、映画を撮っている最中に霊が見えたとか、そう言う怪談話を鼻で笑う姿の方がずっと想像しやすい、冷めた人だというイメージさえあった。

「──その時知人に紹介された奴を、紹介してやる。実力は確かだ。信用していい」

 ──そうして、僕はとある霊能力者を紹介された。断るなんて、立場が違い過ぎて出来なかったのだ。


 それから数日後、僕は監督に言われた通り、向こうの指定したカフェで待っていた。

 ──指定通りの時間丁度。カランカランとドアベルが鳴って、見ると、カフェのドアを開けていたのはスーツ姿の青年だった。

 ──別人か。すぐそう判断して、僕が青年から目を逸らそうとするより早く、スーツの青年はカツカツと僕の席へと近付いて来て、そのまま着席した。

「ミサキ──紹介にあった岬さんって貴方ですよね」

「──あ、貴方は、霊能力者の?」

「はい、まあ。でも霊能力者って呼ばれるとなんか胡散臭いんで、是非丸山と呼んでください」

 丸山と名乗ったビジネスマン風の霊能力者は名刺を差し出したので、受け取らない理由もないし受け取ると、普通の白い名刺の表面には会社名らしき日樫スタッフサービスと言う文字と、丸山正直──たぶんマサナオだろう。丸山の本名らしき名前が書かれていた。

 丸山は僕が裏面の電話番号を見ているうちにそのまま店員を呼び付けると、メロンクリームソーダを注文した。

 ──そんな呑気というか、気楽な、霊能力者というより真面目な会社員みたいな男に、正直に言うと、僕は困惑していた。もっとそれらしいのが来ると予想していたから、肩透かしを食らった気分だった。

「さて。岬さん、まず、最近の話を聞いてもいいですか?」

「最近のって、霊障とか、そういう話じゃなくて、ですか」

「ン、そっちの話からしたいタイプですか?」

 てっきり、あの恐ろしい化け物の話をした後、ならば壺をいや御札をと霊験あらたかな道具を押し付けてきて……と、そういう流れかと思っていたが。

 せっかちだなあ、と呟いて、丸山はストローに口をつけた。

「せっかちって。貴方は霊能力者なんでしょう」

「だからですよ。」

 困惑したのが伝わったのか、丸山は明るい口調で続けた。

「何に困っているのか──これは霊障だとしても、最近何が起きたのか、身近の異変、個人の心境とか。そういうのをしっかり聞かないと解決は難しいモンなんですよ。特に、自分はお祓いって言うよりか、解決って感じですから」

「お祓いじゃない──?」

「ええ。"解決"です。」

 ですからまずは教えてくださいと丸山が笑った。明らかなビジネススマイルだった。かかったことはないが、なんとなく、カウンセラーにも似ていた。

 何度か口を動かして、決心して声を出す。

「──あの」

「はい」

「──友人が、死んだんです。華崎っていう、女性で。警察は、変死したって言うんですけど、あれは変死って言うより怪死……だと、思います」

「怪死?」

 その言葉に、華崎の顔がまた脳裏に蘇る。

 ぺちゃんこ、という言葉が相応しいように、人間の体に無理な圧が掛かって、重いものが乗った場所に跡がついたみたいに、身体が押し潰れた彼女。そして何より、その悲惨な上半身より印象的なのは、今にも叫び出しそうな、苦しげな顔──

「──華崎は、重いものに潰されたみたいに、上半身が潰れていたんです。無事なのは下半身と──ギリギリ右肩のあたり。岩にでも潰されたみたいだって、警察の人が言っていました。でもおかしいんです」

「どの辺が」

「……家の──中で、そうなって居たんです。壁や天井が崩れたりはしていないのに家の圧死なんて、おかしい──でしょう?」

 丸山が興味深そうに目を細めて、続けるように示すみたく、黙っている。

 僕の方も一度口に出すと、吹っ切れたのだろうか、それからあまり詰まることなく説明が続けられた。

 それは華崎の死に方とか、死体の見目を説明し終わると、僕の身の上話から華崎の病気のことに続いて、段々とただの雑談になって行った。華崎はジャンクフードが好きなこと、次はケバブを食べようと約束したこと、劇は現代の物語より古典が好きだったこと──とにかく話した。

「華崎は、病気さえなければ──名女優になれた筈なんです」

「へえ、聞く限り中々ガッツのある人ですしきっと活躍出来たでしょうね」

「そうなんです、才能があったんです」

「ええ、ええ。自分も見てみたかったですねえ華崎さん。」

「きっと驚きますよ。」

「そんなに。いや、でも残念ですねえ──」

 丸山は半分くらいになったメロンソーダのストローを回して、残念と繰り返した。


「──美人薄命。若くして死んで、しかも取り込まれてしまうなんて、ええ、残念ですね。」


「……取り込まれる?」

「ア、違いました? これでもある程度の事情は察してるつもりだったんですけれど」

「それは──貴方達お得意の、霊能力というやつで?」

「はい、まあ。そうですね。」

 僕はまだ、華崎の声の化け物の話は──していない。それを言い当てるようなことを言われて、思い当たらないわけではないから、余計に厄介だった。きっと事前に探ったりしているのだ。それで知っているのだというのは分かるのに、頭がこの人は本物だと錯覚したがる。


 "あれが取り込まれたということなのか?"


 丸山はニコニコと呑気なほど笑って、細めた目で僕の目を捉える。──捉えているのだが、いまいちその目線は僕ではない場所に向けられている気がしてならなかった。

「──岬さん。予知夢ってご存知ですか」

 こうして、霊能力者らしくない霊能力者は、やっとエンジンが掛かったのか、それともこちらを引き込む算段が立ったのか──オカルト的なことを言い始めた。

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