銀幕スターにしたかった
三雨ぬめり
第1話 君は綺麗だ
コツン、と細い指先でグラスを突いて、大義そうに華崎は脂ぎったカウンターのテーブルに頬を着けた。
「汚いぞ」
「ラーメンエキスを頬から吸ってるだけ」
「カウンターにこびり付いた油汚れはラーメンエキスじゃない」
塩ラーメン一丁目! と言う声がした。あと三十分くらいで閉店時間なクセに、割と繁盛しているらしい。
僕は今、華崎お気に入りのラーメン屋のカウンターで、さっき注文したソフトクリームを待っていた。晩飯を終えているから、これはデザートである。
厨房の方をぼーっと見ている内に、気の短い華崎はピッチャーで水を注ぎながら文句を言った。
「ねえ、遅くない?」
「注文したばかりだろ」
そう言ってお冷に口を付けると丁度、カウンター越しの店員に、ソフトクリームです、とコーンに乗ったアイスが華崎に渡された。
なんとも言えず華崎の方見ていると、厨房の熱気のせいかちょっととろけているそれを僕の前にスライドさせて、ソフトクリームですう、とわざとらしく店員の物真似をした。
「似てない。四十点。」
「四十点満点中ってこと?」
「百点中四十点」
「そんなあ」
えらくガッカリとしたようだったが、遅れてやってきたラーメンにすぐに機嫌を取り戻して、呑気な顔で味噌ラーメンを啜り始めたちょろいのにつられて、僕もソフトクリームを食べ始めた。
僕はすぐに食べ終わったが、胃袋が小さいのか、華崎は十分もしない内に汗をかいて苦しそうな顔をし始めた。どんぶりにはまだ半分も残っていて、見てられなくって代わりに食べるよと言うと、華崎はパーッと笑って可愛らしい顔になった。
そうして暫くして二人とも食べ終わり、後は解散、みたいな雰囲気になった時。
──とある、重大な忘れ物をしていることに気付いた。
「いやあ美味しかったねえ」
「そうだな」
「うん。ミサキくんと来て良かった。……けど、ミサキくんは嫌じゃなかった?」
「嫌? 何が?」
鞄を漁る手を止めて聞くと、言いにくそうに華崎は口ごもった。
「よく分からないけど、嫌だったら来ないよ」
でも、とまだ言いたげに、病的に白い、可愛らしい顔に影を落とす。何がいけなかったのだろうか。──そう聞いてもいいものか。
「ミサキくん、忙しいでしょ。頻繁に会ってるのに、その度に目の下の隈が濃くなってるからさあ──寝てる?」
「こまめに寝てるつもりだよ」
「じゃあ自分の顔見てみてよ」
手鏡を差し出された。
覗くと、そこには殺人鬼みたいな目をした男が写っていた。確かに、これは心配されるだろうなと他人事の感想が湧いて、鏡の自分と目を合わせると、余計にホラー映画のキラーに見える。
あのさ、と言う声に顔を上げると、華崎の病的な細さと、儚い美しさが目に飛び込む。華崎だってそうじゃないか、と思いかけて、彼女のそれとは別だと考えるのを止める。
「──仕事、上手くいってないの?」
まあ、彼女の言う通りだった。
若いからと、経験不足だからと、助監督として監督に学ばせて貰えと──そういう名目で雑用をさせられた。当然のように、学ぶことは少なく、見て覚えろ、慣れろとしか言われない。そうして大した事も任されず、しまいには文字通り寝る間を惜しんで書いた脚本さえも、ウケないと説教された。監督よりも小説家が向いているとバカにされて、華崎が凄いと褒めてくれた渾身の一作はウケないというレッテルを貼られた。
それを言うのか? ただでさえ様々なことを抱えている彼女に?
──実は君が気に入ってくれたあの作品だけど、監督にウケないって叱られたんだ。なんて
──迷惑なだけだ。
だから苦笑いを浮かべると、華崎は察してくれたのか、或いは空気を読んだのか、もうこんな時間だねと言った。
本当なら、本来ならばここで彼女に贈り物をする筈だったのだ。
「近いし送るよ。おばさん達は?」
「今日は友達とランチに行ってる」
「ふうん」
「ふうんって何っ。
「
「まあ、そうかもだけど」
──華崎はクスクス笑いながらカーディガン襟を正した。
袖口から覗く手首の細さに寒気がした。前よりも痩せている。不健康どころじゃない。医者に見せれば直ぐに点滴を打たれそうだ。
「また入院することになっちゃった」
だからラーメンは暫くお預けなんだあ、と笑うのに合わせて笑おうとしたが、頬が引き攣れるだけだった。
華崎は健気に、必死に生きている。これで今年二回目の入院なのに、苦しいはずなのに、弱音一つ言わずに生きていた。
澄んだ声、スラリと伸びる脚、高い背、白磁の肌と指、整った顔立ち。全部が彼女の才能で、それを病が台無しにする。健康でいたら、きっと銀幕スターになれただろう。レッドカーペットだって歩けた筈だ。
「……また台本とか、本とか、暇潰せる物持って行くよ」
「じゃあミサキくんが助監督のドラマが見たい」
「わかった。」
華崎は女優が夢だったそうだ、と、彼女の母親から聞いた。ハリウッドのとある女優に憧れたらしい。
映画の台本を、身体が許す限り朗読することを楽しみだと笑うのが耐えられないのだと、彼女の母は泣いていた。
僕も泣きたい気分だった。華崎を女優にしたかったのは彼女の親だけじゃなかった。僕は、常にストーリーを考える時、頭の中の舞台では彼女が主演だった。彼女が栄えある賞を取る妄想をしたのは十やそこらじゃない。
夜のビルディングのバックライトを背景に、寒そうに手を擦りながら二人で歩いた。それだけでこれから素晴らしいドラマが始まる予感がした。けれどそれが実現するより先に、すぐに彼女の家に辿り着いた。徒歩十分もしない距離だったが、華崎は息切れしていた。玄関の鍵を開けさせて、上がり框に座らせると、深呼吸する音が聞こえた。
そのままなんとはなしに玄関の入口付近に立っていると、やけに信楽焼のたぬきみたいな顔をした黒い招き猫と目が合った。可愛らしいインテリアと言うより、伝統品──なのだろうか。だとしてもこれを置くセンスは、僕には少しばかり理解が及ばないが。
「はーっ。ごめんね、わざわざ」
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫。今度はケバブ食べに行こうね」
またねと手を振って、華崎が扉を閉じた。
そうして、また少し歩いて、自分の部屋のあるアパートに帰宅した。忘れ物は玄関脇に転がっていた。
忘れられた──婚約指輪は箱が縦になった状態だった。
ああ、これを忘れさえしなければ──良かった。これをここに置いて行かなれば、鞄に入れることを忘れていなければ、僕はきっと──
「──告白できたのに」
次の日、華崎の母から連絡が来た。
華崎が変死したとの知らせだった。
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