白波景良 四
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白波景良 四
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以前とは違い、忙しない日々を送っていた。地元から再び上京して、あまり贅沢とは言えない暮らしを続けてもうすぐ1年が経つ。
思い立ち役者業に舞い戻った俺は、自身の幼さと改めて向き合って妥協点を見つけることに奔走した。俺が許せるラインを明確に言語化しようと頑張って、結果それなりに日々は上手くいっている。
向けられる要求と発する回答に蟠りができる機会が減ったと言えば分かりやすい。
六畳あるかないかの部屋で、今日も営みのために目が覚める。寝ぼけ眼で踏みつけた軋む床は、これも妥協点。演技だけでなく、生活にも妥協点を見つけることが大事だと知った。
野心とまで仰々しくはない。噛み砕けば廉価の我儘だ。高価な我儘が毎度都合よく通されると思い上がっていた幼い自分は、この1年で身を潜めるに至っていた。
「……ああ、今日は昼からだったか」
所属していた事務所の先輩の助言のもと、俺は劇団を立ち上げた。といっても、特別偉い立場にはいない。あくまで代表というだけで、所属している団員とは対等な関係を築こうと努力している。
事には誰かしら矢面に立つ人間が必要だから、泥に汚れた白羽の矢は、俺にだけ立てばいいと思っているだけのことだ。
「ん? 珍しいな、こっちのアドレスに届くなんて」
携帯の電源を入れ、団員からのメッセージをチェックする。メールのほうも念の為。
すると、現在のSNSのプロフィールに記載しているアドレスではなく、昔使っていた古いアドレスに1通のメールが届いていた。
そこには、URLがひとつだけ。開いてみると、ログイン済みの動画サイトに投稿された、ひとつの限定公開の動画に飛ばされた。
「……『
覚えがある。海に意思はあると知ったあの日が、海馬の奥から蘇る。
照りつける太陽、うねる波々。吹き付ける温い夏の風が、絵空事のような日々が、まるで今その場にいるかのように思い出される。
俺がこのサイトに投稿した映像のリメイクだ。同じシチュエーションで、物語は進んでいく。
ただ違うのは、海が実際に喋っていること。CGか何かでかたちを象って、このスピーカーから声が出力されていること。それは妙にひずんでいて、いい風に心地が悪いこと。そして、前後に挟まれるかたちで描かれるストーリーの仕立てが凝っており、大変見やすく面白い脚本になっていること。
俺はあの日々を撮った映像を、ほぼほぼ編集せずに投稿した。間違いない。そこには、平穏な海の底にまで澱みそうな俺の慟哭や懺悔が、ただひとつ映っているだけだったはずだ。
そう。きっと、海に意思なんてなかった。あの日々の記憶は、日射病か何かの影響で茹だった脳が陥った、信用性なんて微塵もない、俺の妄想が描いた絵空事そのままの幻覚だった。
……でも、まるで夢のように思えないほどの現実感があって、海に入った記憶もないのに服が塩臭く濡れていた日があって。全ては日射病による幻覚と譫妄で片がつくから、俺はそれで片付けていた。
そこで得た達成感と満足感に、反省点の漠然とした手触りがあったから、今の俺の生活はある。あの妄想があったから、俺は救われたと思う。けれど、この投稿者の目には、そしてあの当時の俺の目には、証明のしようもない、間違いのないそれが映っていた。
海には意思があって、生きていて、仲間を求めている。俺たち人間が1人でも興味を示せば、手の内を晒すことはないにしろ、うんうんと頷いて手筈を整えてくれる。優しい。けれどどこか恐ろしい。空の果てよりも未知数な、広々とした底の見えない自然というものの意思を感じたあの日の俺は、きっとそれが夢ではないと思い込んでいた。
「……アンタも同じものを見たのか? もしくは全部妄想で?」
俺を再現したのだろう、言い回しが瓜二つだ。下手くそな演技で海へと慟哭を溶かす少年。そして海のうねりは映像にも残るかたちで人を象って、少年に当たり障りのない言葉を投げかけ、全てを許すような態度で悠然と構えていた。
耳には、打ち付けるさざ波の音が。その奥の奥には、それの声が。ひずんでいるがよく似ている。その異常とまで言える俺の記憶の再現性に、当時は感じなかった畏れを感じ、呼吸が浅くなる。
それに反して、海馬に広がる水に身を置いている過去の俺は、どんどんと海面から遠ざかって、枷や重りでも着いているかのように深く沈んでいく。最後の日に見た、極めて黒い海底に。
その俺は息ができない。
「…………」
俺は、その動画の概要欄を開いた。この映像を撮った人間。俺の脳内を垣間見たかのような、俺の記憶の再現性。その答えを知りたくて、そこに記載されていたアドレスにメールを送った。
♢♢♢
返事はすぐに届いた。数日後に顔を合わせようという約束を交わし、その日もすぐにやって来た。
待ち合わせ場所は都内の一角。ここ、劇団ケイライズ。俺が代表を務める小さな劇団。役者がそれほど揃っているわけではないから今もこうして細々とやっている、ほとんどが身内だけで構成された貧乏劇団だ。
気がつけば顔合わせの時間が近づいており、少し換気をしようと応接室の窓を開けると、夏の訪れを感じる生温い風が目蓋を、頬を撫でた。くしゃみをするには少し湿り気を帯びてすぎているその
「……そろそろか」
待ち合わせの時間になった。着崩していた慣れない背広をもう一度着直し、階段を降りて玄関へと足を運ぶ。
そこにいたのは、大柄な不惑そこらの男性と、制服を着た中学生くらいの男の子だった。
「俺は
「俺は演技とCGの監修だけだ。ほとんどコイツが一人で作った作品だよ」
「……こんにちは、
「それはご丁寧にどうも。アンタは保護者か?」
「コイツの父親だ」
「景良さん……本当に白波景良さんなんですよね。『Surge』を観てから、ずっとファンです。あなたにいつか会いたくて、逢いたくて……!」
「……おう、そりゃどうも。立ち話もなんだし、まあ入ってくれ」
制服を着た奴を応接室に入れるなんて、かつてあっただろうか。身を自由に振れないことが枷になってはいけないから、中学生……はもとより、高校生以下の募集は断っている。その規則がほんのりと牙を剥いている気がしたような。
背に刺さる視線は、多分そう嘯いている。あわよくば入団しようとしてるな、コイツ。
やたらと大柄な付き添いの父親は仏頂面で、なんとなく見覚えがあるような気がしてならなかった。忘れてはいけないものの、あんまり思い出したくもない顔によく似ているような。
……それに反して息子の葦考とやらは、目の中に一際明るい一等星が輝いていて、俺か映画の純粋なファンであることはひと目見て分かった。
花形は大抵団員に譲っているものだから、羨望の眼差しを向けてもらうことは割と久しぶりで、忘れてしまった新鮮味を肌で感じることができて嬉しかった。
「ここが応接室だ。適当に掛けてくれ」
座ると余計にこじんまりとした感じを醸し出す葦考。反してその父親は座っても大きくて、威圧感が溢れている。目つきも鋭く、その視線は合わせた目を躊躇いなく抉ってでもきそうなほどだった。
決して気のいいものではない。……そこで、漠然は確信に変貌した。
「改めてお訊きします。『Surge』を作った、かつあの映画の主演俳優の白波景良さんですよね」
「さっきそう言ったろ。映画なんて大仰なもんじゃない。映像だ、映像」
「……ファンです。大ファンです! あの映画はまるで熱線です! それを浴びた僕は、脳髄をぐずぐずに溶かされるほどの衝撃を受けました!」
「……おう。何よりも表現が怖いな。まあ喜んでもらえたようで良かったよ」
「はい!」
「で。……早速だが、本題だ」
ノートパソコンを開き、葦考がほぼ独りで作ったとされる『Surge』のリメイク作品、『Re:Surge』を見せる。
「……正直、魅入った。お前の演技はまあ……言っちゃアレだが上手くはない。だが、CG技術はそれなりだ。そして……いや、何よりも、俺の脳を直接開いて見たのかってほどに再現性があった。ドキュメンタリー形式で投稿したエッセイみたいな映像が、1本のストーリーを成した映画にまとまっている。これは脚本が素晴らしいってことだ。……お前の脚本家としての能力。これを俺は強く買っている」
「っ! ……やった!」
「……で、話は飛ぶが、提案だ」
星の出囃子でも鳴りそうな位に光っている葦考の目を見て、数日前に思いついた案を話してみる。
「……正直、この作品には魅入ったが、さっきも言った通りに演技力が欠けてる。音作りが荒い。画角も一辺倒……って、俺のほうもそうだったから言えないか。というかそもそも中学生がほぼ全部独りでやったんだからあんまり強い批評はしたくないが……未完成だ。脚本以外には改善の余地がまだまだある。俺には刺さったが、お前が作り直したこれには、もっとエンタメ性を広げられる見込みがある」
「……えぇと」
「……この映画、お前が作り直したほうを主体に、俺と一緒にもう一回リメイクしてくれないか? で。フィルムにして、広い劇場でたくさん放映しよう」
葦考の目の輝きが増す。何光年も向こうか、はたまた文字通り目と鼻の先かに輝く一等星と今、俺は目が合っている。眩しくて堪らない。こうも輝きを魅せてくれると、つられてこっちまで光ってしまいそうだ。
どこかまだ燻っていた野心が、たくさんの空気を含んだ青さを思い出して、煌々と火照って仕方がない。これだけ眩しい恒星が光を放ってくれているのだから、照り返さないと野暮なのかもしれない。
「なら、主演は絶対に景良さんでお願いします!」
「……うん? 無粋かも分からないが、お前がやりたいとか……そういうのはないのか? 個人制作だが、紛れもない主演だぞ? なんかこう、今時のガキってアレだろ。自己顕示欲というかそういうもんが……」
「景良さんの演技に意味があるんですよ」
「お、おう……そうか」
「……でも、いいんですか。その、時間とか、人手とか……」
「幸い、俺はあんまり売れてるわけじゃない。から割と暇だ。人手ならここの団員に声をかけてみる。……で、アンタ……思い出したよ。演出家の浜村さん、だよな」
「おう。憶えてたか。数奇なモンだな」
「……その節は」
「謝んなよ。俺も当時は好き勝手やりすぎた。それが祟って、今じゃ死んだも同然な、
「……不躾なのは重々承知だ。だが、それでも許してくれるなら……」
「ほら、言ってみろよ。……なに、悪い返事はしねぇから」
「……ああ。アンタにもう一度、演技指導を頼みたい。俺はあの時のままじゃないが、未だ演技に確かな自信はない。腹を割って指導を乞いたい。必ず……必ず、
飄然とした態度が真面目さを纏って、暖かくも緊迫感のある空気が辺りに立ち込める。
「長らくやってはなかったが、諦めてたわけじゃねぇからな。俺は今でも厳しいぞ?」
「僕も脚本通りじゃない演技には、多分ちょっとうるさいですよ」
「……ああ、受けて立とうじゃねぇの」
手と手を繋ぐ。左手には骨ばった大きな手を、右手には細っこい小さな手を握っていた。ボルテージが上がる毎に、それぞれの鼻息は見違えるほどに荒くなっていた。
これだけ
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