浜村葦考 二
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浜村葦考 二
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河原の気温は、涼しくはあれど暖まることは滅多になかった。忘れられない熱を帯びた身体を適度に涼ませてくれる。
それほどまでに居心地がよくて、けれどもとある地点の草々は日夜僕の体重をかけたせいか、醜く凹んでしまっている。伸びに伸びるはずだった未来を文字通り捻じ曲げてしまって、申し訳なさと、理外の不条理という無常感を感じてしまう。
僕の意思で決まるから理外ではないか。都合を考えず押し付けているから、不条理ではあるけれど。
あれから海には足繁く通っている。水場の近くはせせらぎが感性を研ぎ澄ませてくれるからここ、近所の河川敷に来ているだけで、本当は3駅離れた海浜公園に毎日通いたい。
あの映画を、いち早くリメイクするために。あの人が作り上げた、完璧とも穴だらけとも言えるあの映画を。僕は今日もそのシナリオの再編に集中するため、生い茂った
あの映画こと『
その映画は、全編を通してひとつの定点カメラで取られた、ドキュメンタリー映像のようなかたちを取っていた。
変哲のない穏やかな波に向かって、一人の男性が、目まぐるしく声調や表情を変えながら慟哭したり、嘆いたり、時には笑ったりする。極めて不気味で、でも僕は強く惹かれてしまった。理解が及ばないから惹かれたのだ。十割以上を理解してしまうと、きっとあの作品は面白くなくなってしまう。不完全に理解し、身勝手に考察している今が、僕はどうしようもなく楽しい。
なぜあの男性は、海に話しかけているのか。海に何かしらの幻覚が見えていた、いや、さもすれば、海自体が喋っていたからではないのか。海を見ているだけで表情が変わるなんて、余程感性が振り切れていないと得られない体験だ。その感性を振り切らせる何かが、きっとあの海にはあったのだろう。
その理由が知りたくてたまらない。けれど、十割以上を知りたくない。そんな曖昧なバランスで、僕はあの映画を楽しんでいる。
役者の名前は度重なる検索の結果、最近知った。調べるうちに情報が芋づる式に出てきて、その瞬間には知恵の輪を解いた時のような快感があった。
だから僕がすべきことは、強く惹かれたあの映画をより多くの人に理解してもらうこと。つまりはそう。そうする上では、僕はあの映画の十割以上を理解しないといけない。十割以上を理解したうえで、猫も杓子も皆一様に楽しんでくれるような映像作品に仕上げたい。
要は考察してる時間が楽しい、というのは自論の中の感想でしかない。事実は小説よりも奇なりと言うし、十割以上を理解したら面白くないという自論は、音を立てて壊れる日が来るのかも。いや、確信している。きっと来る。あの映画は、きっと十割を超えて理解しても、十二分に楽しいのだ。
あんなものを軽々しく世に
僕はその何人いるかも知り得ない有象無象を出し抜いて、彼に僕を知ってもらいたい。背伸びしたうえで手を伸ばして、縦横無尽にハーネスで駆け回って僕たちを魅了する彼の手を掴んでみせるんだ。警備員も振り切ってやる。多分彼は、僕と一緒に駆けながら笑ってくれるんじゃ……いや、期待混じりの憶測は呑んでおこう。服にこぼすと情けないし。
さて、この映画を大衆に楽しんでもらうために必要なこと。それは、ドキュメンタリー性の改善だ。これはあくまで、海に話しかける男性を延々と記録するだけのホームビデオの片隅に過ぎないと、僕は評している。
だって、画角に入っているのはずっと男性1人と海の穏やかな潮騒だけで、録音されているのは男性1人の独白や慟哭、嘆き、笑い声だけだ。感情が揺れ動いているのは分かるが、なぜ感情が動いているのかが分からない。そこにエンタメ性なんてものは介在せず、ただ独りよがりなままに120分の時が過ぎていくだけ。絵面が変わらなければ間違いなく飽きる。それを飽きさせないために、僕は奔走しなければならない。
これは使命だ。遂げないと死ねない。たとえ息を忘れたって、誰にも負けない脚本に仕上げてみせる。その時に使わず浮いた空気は、ポップコーンと共に吟じてやろうか。ドリンクはLで頼もう。とびきりの炭酸飲料を、涼しげな顔をして喉に流し込むんだ。
河川敷にいるのは、今日が脚本を見直す日だから。酔ってしまいそうな、フィールドワークの休肝日。本当は毎日海浜公園に行って海の傍でインスピレーションを高めたいものの、僕はまだアルバイトもしていない、もっと言うと〝禄にできない〟一端の中学生だ。貯蓄なんてあったものじゃないし、あったとしたら間違いなく海浜公園へと毎日通うことになるだろうから、きっとないほうがいい。
しかし幸い、僕の父親は業界人だった経験があるらしい。
まだ僕が幼かった頃の話らしく、僕自身は憶えていないし、そもそもあまり詳らかに教えてはくれないけれど、演技指導には多少自負があるようで、僕が映画を撮ると言い出した時には前向きな姿勢を見せてくれた。
父親がいるから、演技に関しては僕には多少の利がある。少ない財力でもその道に長けた指導者がいるのだから、後は役者を雇うだけ。これはもう作らざるを得ないのでは、と思い立った次第だ。
脚本を見直す。通算13回目の校閲。……シーン1は完璧。2と3は悪くない。4で泥んだ整合性が5と6に多少影響はするけれど、この前入れた7へのメスが上手くはたらいている。直すべきは4~6だ。
草々の匂いが鼻に入って、でもその匂いを知覚できないほどに僕の指は、キーボードを休む間もなく強かに叩きつけていて。
窮まった部屋で吸う空気よりも些か澄んでいるはずの空気を澄んでいると知覚できないのは、多少困り事ではある。
夕暮れを告ぐカラスが舞う。僕の目には届かない。
川のせせらぎは止まない。僕の耳には届かない。
強い風が吹いて、綿毛が広く舞う。それが頬を撫でたとて、僕の脳には届かない。
「
僕の名前を呼ぶ人がいる。僕は──。
「……父さん」
「やっぱりここにいたな。毎日毎日飽きもせず……」
「昨日と先一昨日はいなかったよ。ここにいない日は海浜公園にいるから」
「お前をそこまで惹き付けた映画を知ってみたいね。全く、学業は別に置いておいてもいいが、つくづくお前は俺の子供だな」
「父さんも映画に狂わされた人? って、そうじゃなきゃ監督……演技指導? はやってないよね」
「そうだよ。……正確には演出全般だ。まあ、好き勝手やっていい環境で好き勝手やりすぎて、白い目で見られてそれっきりだけどな。せいぜい笑ってくれ、そのほうが幾分気が楽だ」
「笑わないよ。父さんの精一杯だったんでしょ」
「はっ、誰に似たんだかお前も性根が悪いな。そうやってガキに汲み取られんのが、大人としては結構クんだよ」
「撫でないでよもう……」
父親は僕があの映画に取り憑かれるまで、あまり自分を話そうとしない人だった。正しくは演出の仕事をしていたことだって、つい最近知ったことだ。
まあ、知ってしまったら逃がさない。絶対に僕の糧になってもらおう。
「で、父さん、何の用?」
「何の用って、お前今の時間分かってんのか?」
「……あ、21時」
「一端の中学生はもう家に帰って寝んねの時間だ」
「ごめん、気づかなかった」
立ち上がる。けれど長い間腰を下ろしていたから、立ちくらみが身体を襲う。
「おっとっと」
「おい。……パソコン落とすなよ。高かったろそれ」
「ありがとう、父さん」
父親がそっと支えてくれたから、頭と身体とパソコンを打ち付けることはなかった。パソコンを閉じ、河川敷を出ようと立ち上がって──。
「おい、葦考。その役者……」
「どうしたの?」
「……この映画なんだな?」
「うん、そうだけど?」
「……それ完成したら俺に渡せ。然るべきところに送ってやる」
「そこって、劇団ケイライズ?」
「……そこまで知ってるのかよ」
「景良さん、父さんの知り合いなの?」
「……まあな」
曖昧な返事を返した父親に、まだ探り甲斐がありそうだな、と含んだ笑みを浮かべてみる。
何より、改めてひとつ太いパイプを見つけた。僕はこの映画が完成したら、景良さん……俳優:
そんなひとり息子の無謀にも近い夢を応援してくれるなんて、僕はなんて愛されているのだろう! 褒められたいが原動力だった日々は、いつしかその結果に辿り着けなくてもいいような気がしていた。
他者が捺した自分への烙印、見てくれだけを飾るより、他者の介在しない僕なりの最高点を見つけて、そこを目指して自分を自分たらしめる何かを見つけることに意味があるのではないか、と思い始めていた。だってきっと景良さんも、彼なりの最高に少なからず固執していたはずだから。
それはそれとして、景良さんの目は灼きたい。そう思っていることも、否定することはできないけれど。
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