白波景良 三
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白波景良 三
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海の底も茹だるほど、夏は深まった。海は存外暗いもの。
俺は今日も、海に贖罪を溶かすべくここにいる。海もそれも、日を経るごとに優しくなっていった。
『おはよう。今日で贖いは終わりかな』
「えっ」
そう告げられた。風は生温い。じっとりと粘るような汗を全身から滲ませた俺は、それに対して情けない声を上げていたらしい。贖いは今日で終わりだと言うのだ。
「明日は、ないのか……?」
『そうだよ。キミは十分贖った。ボクたちと一緒になれる権利は、今日のうちに手に入るよ』
シャツの皺が伸びるほどに両手を上げ、ガッツポーズを決め込んだ。
やった。ようやくだ。俺は海になることができる。醜く澱んだどろどろとした感情の全てはこの星の七割を占める中に溶け込んで希釈されて、面影をなくしてしまえるのだろう。小数点以下の、そのまた遥かな下のパーセントに俺の濃度は抑えられる。
この海を殆ど穢すことなく、俺は救われる。
『じゃあ、最後の贖いだね。キミが苦労の末に勝ち取ったドラマ出演の権利。その現場にいた、胡座をかいた演出さん。名前は憶えているかい?』
「……憶えてる。言わなくても分かるだろ」
『そうだね。
30分枠の深夜ドラマ。前作が人気だったからか、その続編として作られたソレはやたらと倍率が高かった。だから当時のオーディションは、本当に運が良かったのだと思う。だって、分不相応の実力で合格した気がして、思い悩んだ記憶があるから。周囲との演技力の差だとか、演出の意図を汲み取る能力だとかに。
主演女優よりも、一瞬しか出番のない役者よりも誰よりも、俺は下手くそだった。スランプに陥りながらも運と、僅かだと思うが、必死でしがみついた実力が成した久しぶりの大仕事だった。
現場に入った時から嫌な予感はしていた。高圧的で、どうせ期待なんてしてない、といった目で流すように俺を見た。膝の辺りまで押し寄せるその濁流に大きく呑まれてしまって、初日はボロボロに貶された。
二日目は、初日を越えようと頑張った。三日目は二日目を。四日目は三日目を。けれど、浜村さんのお眼鏡に適う日は、降板を告げられるその日まで、一度たりとも訪れなかった。
『さあ、贖おうか。キミは心の中では何度も贖っているようだけど、口に出したことはないよね』
「ないな。口が滑って浜村さんの悪口にもなりかねないし、それを同業者にでも聞かれようものなら、回り回って俺の印象が悪くなる」
『うん、だからここで口にしようね。贖いも、愚痴も』
全身に海風が吹き込む。人ひとりが微かに吐く息に声を乗せるなら、誰にも聞こえないんじゃないか。この海にだけ言葉を投げかけたら、気づかない間にその言葉は溶けてしまうのだから、純粋にその言葉だけを淘げることは叶わない。
なら、言ってもいいだろう。
「……確かに、俺は対応力がなかった! 浜村さん、アンタの思ったように演じることも難しかった! 台本憶えられなくて、曖昧なとこはアドリブでどうにかしようとした! でも、全部裏目に出てたよな! ……本当に悪かった! 驕っていたわけじゃないが、結果的にそう見えてしまったんだろ!? 印象は最悪だっただろうな! 何回も反芻して、アンタにずっと、ずっとまた謝る機会を探していた俺は随分と馬鹿らしかったはずだ!」
『うん、それが贖いだね』
「……でもな! アンタも大概的外れなこと言ってたからな! あの子はあの程度で泣くような
『うん。言いたいことが言えたね。贖って、思いの丈を吐ききった。それなら、後悔はないね』
気づけば息が切れていた。きっとこの広い海に混ざっても色味が残ってしまうくらいには濃かっただろう。息を整えるうち、遠巻きに見える波のうねりが、少しだけ高くなっていた。
『おめでとう、おめでとう』
『おめでとう。おめでとう』
「……ああ、そうか」
木霊する声は次第に四方八方から聞こえるようになって、振り向けば、さっきまでいた砂浜は遥か遠くになっていた。
下を見る。青なんて生易しい色じゃない。そこにあるのは光を全て飲み込むような黒で、俺は今その黒の一部にされようとしていた。
『キミは十分に贖った』
『つらかったね。偉かったね』
『ボクたちと一緒になろうね。歓迎するよ』
徐々に波が俺を包む。陸地である砂浜は、もう二度と拝めないのだろう。恋しい? いや、後腐れのないようにこうして罪を吐き出したのだから、何も心残りなんてはいはず。
残らない。青……いや、黒に溶けるから。
育まれ、朽ちていくはずだった陸には、皮脂のひとつも残らない。
……何も。
「…………」
『どうしたの? 曇った顔だね』
「……悪い、やっぱり俺まだ未練がましいわ」
『そうなの?』
『そうなの? そうなの?』
「……だから、悪い……いや、ごめんなさい。俺はこの海に混ざりたくない。いくら海に誤ちを嘆いたって、当人に届くはずがないんだから。当人に直接会って謝ったほうが、幾分気が楽だ」
『そうなの?』
『そうなの?』
『そうなんだ』
『……ちぇっ』
ドーム状に広がって俺を包んでいた水の壁は、次第に引いていく。すると外の景色が見える。泥む陽の光に焼かれる。
ふと拳を握ると、そこには手の下に広がる砂浜の砂を握る俺の手があった。
身体を起こす。波打ち際を見る。そこにはうねりも何も無くなっていて、ただずぶ濡れの俺が、身一つで投げ出されているだけだった。
波は人を象ってなんかいないし、耳の奥に木霊するような声はもう聞こえない。多分、二度と聞こえるようにはならない。直感がそう言っている。
吐き出したはずの贖罪は心に深く根付いていて、やっぱり
カメラを止める。携帯を取り出し、電話をかける。
「……もしもし、白波です。……はい、はい。復帰します。させてください。……ええ、ええ。……はい、はい! ええ、今日からでも……!」
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