第4回 岐阜県可児市の久々利城:宴会呼び出し謀殺の応酬
第1回の今城以来の可児市の城。可児市内では飛び地にある金山城に次いで二番目に大きいという久々利城に行ってきました。規模は土岐市の高山城と同じくらいのイメージでしたが、さらに大きいかもしれません。曲輪の配列に高低差があって立体的なことで空間が大きく感じられる面もありそうです。
こちらも高山城と同じく二つの尾根上に展開していて、間に谷を挟んでいます。香川元太郎先生の復元図では谷の中に建物などは想定されていない様子。間の谷は北東―南西方向に伸びていて日当たりも関係しているのかもしれません。
小雨の中に訪れたので最初の木橋から滑って、登城道の粘土が出ているところでも滑って、大変でした。トレッキングシューズを履いていても、そんな状態なので、
最初の枡形虎口は相当守りが堅く、城内の複数の地点から立体的に狙い撃てる状態になっていました。三の丸の高所から見下ろす兵からは倒れて死んだふりをしている攻め手すら見破れそうです。
井戸が枡形虎口を越えてすぐにあるのは持久力の面で気になります。他にも水を確保する当てがあったのでしょうか。本丸東の谷が平たく整地された場所は水が得られそうな感じがします。尾根の間の土地も上流部分ならキープできそうです。
枡形虎口を何とか突破しても左側に曲輪が並んでいる狭い坂道(濡れれば滑りやすい)を登っていく羽目になります。曲輪の反対側はきつい斜面になっていて転落が怖いです。木が生えてなければもっと危なっかしいでしょう。
守る側は一列になってスピードも出せない敵をボコボコにしほうだい。攻める側は登る味方を援護射撃する空間を確保できそうにないことも厳しいです。
以前来た時は曲輪の中を通らずに次の曲輪を目指せる構造が気になっていましたが、ここまで攻めにくいなら無理にいじる必要はなさそうです。下の曲輪に取り残される兵が出そうになったら梯子で上の曲輪に収容することはできたのかもしれません。
本丸からは北の町並みと、南の山間を通ってくる土岐市からの道が良く見えました。いかにも街道支配の要衝といった風情です。
城内の看板でいう本丸・二の丸・三の丸が、「岐阜の山城ベスト50を歩く」収録の縄張図ではⅣ・Ⅶ・Ⅷ郭になっているのは紛らわしいです。後者では見張り台とされている場所がⅠ郭のようです。
高い場所から機械的につけていく方が、機能に予断が入らないのでいいのかもしれません。可児郷土歴史館で見た冊子では本丸には下の曲輪と違って柱穴などは確認されていないとのことです(三の丸は美濃久々利城趾調査報告書によれば戦時中にサツマイモ畑にされたらしいのに良く検出できたなぁ)。復元画では建物を盛れるだけ盛っている感じですが……。
本丸までの登城路が曲輪の中を通るようになっていないのは、二の丸・三の丸に建物があって、その庭先を毎回通るのが気まずいということもあったのかもしれません。
久々利城は尾根線方向の防御が徹底していて、複数の堀切によって切断されています。現状でも人の背丈を越える高さがあるので、登攀を妨害する守備兵がいる状態でここを突破するのは非常に難しいと思います。
設置された丸木の階段などを伝い、堀切を越えて北側の尾根に出ると一人が歩く幅しかない道が西へ長く続いていました。どちら側から来るのを想定しているか分かりませんが、敵を食い止めやすい地形になっています。
進んでいくと道の左側に多少の土地がみえて、水が流れている沢を渡ると久々利城の大きな看板が立っている東禅寺の東に出ました。
東禅寺の前を過ぎて西に向かう道路の左手側に土塁の痕跡らしきものがあり、道路工事の削り残しじゃないだろうなと不安になりながら観察しました。
江戸時代の千村氏屋敷跡周辺は、道が広くて土地の一区画が大きいことが印象に残りました。看板の下の石垣は低くて、久々利城の防御態勢と比較すると江戸時代の平和さを感じました。でも、すぐ近くだから千村氏もいざとなったら久々利城に立て籠もるつもりだったのかな?
久々利城の随所に建っている看板には寄贈パロマの文字がありました。調べると、そもそも城趾の土地所有者がパロマの模様。一般開放してくれて、ありがたいことです。
なお、久々利城の歴史は久々利氏が斎藤妙春(応仁の乱で京都の動向を左右すると言われた斎藤妙椿ではありません)を久々利城に招いて謀殺、森長可が久々利氏を金山城に招いて謀殺、一説によれば森長可の部下林(じゃあ「林」の部下は「木」かな?)が高山城主を久々利城に呼び寄せて謀殺と、謀殺に彩られています……。
まるでヤクザの世界です。こんな時代に生まれたら、生き残れる気がしないです。
久々利城主の暗殺後に森長可が久々利城を落とすのに使った兵は三百余だったそうです。おそらく、その時には枡形虎口はなくて、森氏が後で追加したと考えられているようです。
ところで、久々利氏が出世して内大臣になったら久々利内府(くくりないふ)と呼ばれていた呼ばれていたのでしょうか。
……内大臣になるほどだと、おそらく土岐氏の分家として本宗家を乗っ取って土岐を名乗ってしまうでしょうね。
堀切の手前付近で灰色のヘビに遭遇しました。ヒバカリかアオダイショウか、どちらも写真とはちょっと色が違った気がするけれど、変異の内だったのでしょうか。
追記
11月1日に「天空の見張台」と「奥之院」を確認してきました。おそらくイベントに備えて綺麗に草刈りがされていました。
「天空の見張り台」は狭い狭いと人の記述を読んでいたので、思ったよりも広いと感じました。推定復元図でも建物が建っています。二重堀切方向がよく監視できます。「奥之院」を見下ろすと石がたくさん転がっているのが分かりました。
「奥之院」の看板には「石垣の崩落跡有り?」と書かれているのですが、「?」が杭に隠れていて見にくいです。事実として独り歩きしそうで怖さがあります。「奥之院」のかなりスペースがあるのと、土岐市への道はここからでも監視できるのが印象的でした。「奥之院」こそが真の本丸で、本丸の看板が立っている曲輪は視界を得るための見張所という説もあるようです。
「本丸」から「天空の見張台」「奥之院」へ向かう土橋でもうちょっとだけ抵抗できそうに感じました。結局、森氏には落とされていますが。
枡形虎口前の木が切られて、腐って空洞になった断面に蜂の巣が入っていました。
参考文献
ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城 香川元太郎 2018年
岐阜の山城ベスト50を歩く 三宅唯美・中井均 2010年
美濃久々利城趾調査報告書 森川益三 1974年
美濃国・土岐庄【高山城の考察】 大杉緑郎 平成三年(1991年)
可児市の久々利城パンフレット https://www.city.kani.lg.jp/secure/10134/kukurijou_ippan.pdf
KAGAWA GALLERY-歴史館 https://rekishi.kagawa5.jp/
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