第5回 岐阜県可児市の大森城:こっちくんなの大横堀
可児市の山城祭り「山城に行こう!2025」に合わせて可児市の山城強化月間ということにします。本音を言うと近くの城をまとめて調べた方が資料が関連していて、資料集めがしやすいです。でも、森長可の暴虐を追うのは辛い……。
大森城は久々利氏の家臣だった奥村元信の子、奥村元広が造った城で、久々利城からそれなりに近い距離にあります。敵対した森氏の金山城からも、それほど遠くありません。細い大森川を挟んですぐ近くに吹ヶ洞砦跡も存在していますが、こちらの築城者は謎に包まれているようです。戦国時代に生きた武将なら距離感や地形から一目で大森城との関係を見抜いたのでしょうか。
他人が造った城を再利用することも多いから、そう簡単ではないかな。敵対関係だと二つの城はちょっと近すぎる気がしたけれど――川もそんなに大きくないし――逆に味方だった場合、尾根が繋がっているわけでもなく連携しにくそうなのは疑問に感じてしまいます。
大森城と吹ヶ洞砦を両翼の支えにして、大森川の流域を封鎖できるほどの兵力があれば良いのでしょうが……それが出来るとしたらやっぱり森氏ですね。西には今城、東には久々利城、北には明智城(本当に城か疑問もあるけど)があって、木曽川を北の守りにした金山城への南からの接近を阻むために利用していたというのは地図で見ると納得しやすいです。東側は御嵩城も防衛線に組み込みたいところ。
渡河点を考えると、当時の可児川と支流と街道の関係などが気になります。
さて、大森神社の駐車場に車を止めて、石碑の隣りにあるポストから復元画の載ったチラシをゲット。載っている縄張図は吹ヶ洞砦跡のものなので紛らわしいです。
神社の裏にあるのは間違いないのですが、城にたどりつくルートが分からず、途中まで舗装された左側の道を進んでみました。一部は左側が転落したら大変な絶壁になっている藪に埋もれかけた踏み跡になりましたが、なんとか大横堀の南端に到着。しかし、主郭(ここでは「岐阜の山城ベスト50を歩く」のⅠ・Ⅱ・Ⅲ郭を主郭と書いています)の方に登る場所が見つけられず、横堀の中を歩き、途中で土塁の上に出ました。
外側の傾斜はきつく近づきようがないですが、斜面を見張るには主郭の上からでは見通しが悪そうで、できれば土塁の上に見張りを配置したいと感じました。あるいは主郭に高い櫓があれば斜面が見えたかもしれません。
合戦のときに土塁に立つ見張りは主郭に逃げ込むのが難しく、落ち着かなかったのではないかと雑兵の気持ちを想像しました。主郭に木橋でも掛かっていたなら良いのですが。
コンパクトな城と説明されていても、どこから登ればいいのか分からず、大横堀を歩く時間は長く感じました(しかし、大森城巡りの合計歩数は1500歩以下でした)。けっきょく大森神社の上を過ぎて大横堀が尽きるところまで歩き、そこから上の曲輪に登りました。
しかし、Ⅳ・Ⅱ郭までは良くても、Ⅰ・Ⅲ郭は笹薮が酷くて全体像が掴めませんでした。あと小さな藪蚊もやたらと多くて、何匹も写真を撮っている手に止まっては血を吸おうとしてきました。冬になってから来るべきだったと少し後悔しました。
土塁で囲まれたⅡの曲輪はかなり平坦にされていて、重要な区画だったのだろうという印象を受けました。ただし、現状の印象に影響を受けているのは否めません。枡形虎口とされている部分は攻撃できる土塁で囲んだ部分と坂道を掘り込んだ部分が半々という印象でした。
切岸に土塁の高さを足してショートカットを難しくしているので、現役時代の大森城は防御側に用意されたルートで順番に枡形虎口や曲輪を攻めるしかなかったのでしょう。
大横堀の存在もあり、近づいてくる敵を「倒す」ことよりも、そもそも敵を「近づけない」意識が強い城のように感じました。Ⅲ郭からの尾根道もばっさり堀切で遮断されています。攻撃者には北側から曲輪を一つずつ落としていくことを強いる感じです。
一方、逆襲についてはあまり得意ではないと思います。
枡形虎口の近くから麓へ降りる道があり、来たときより楽に大森神社の社務所らしき建物の手前に出ました。案内板もないので知らなければ気付きにくいルートでした。
現状ではⅠ郭からの眺望は木々に遮られて優れませんが、木がなければ眼の前の大森川流域はそれなりに見通せただろうと大森神社からの眺めで想像できました。それでも見える範囲は戦略というより戦術的なものになると思います。
大森城主の奥村元広は米田城主の肥田玄蕃と組んで森長可の謀殺を企てた(資料によっては上恵土城の長谷川五郎右衛門と組んだとも書かれています「東海の名城を歩く 岐阜編」上恵土城の項目など)が、森長可に察知されて五百余人に大森城を攻められて加賀に逃げたとのことです。鬼武蔵は自分も謀殺を企むから勘がいいのでしょうか。
これが近所の領主と連歌会ばっかり開いていた松平家忠と同じ時代・社会に生きていた事実……連歌おじさん家忠の方が特殊なのかもしれません。
「岐阜の山城ベスト50を歩く」などでは、奥村元広が父と同じく久々利氏の家臣であると直接的な書き方をされていないのが気になります。そもそも、久々利氏が森長可に謀殺された事件と大森城が攻められた事件の時系列が分かりませんでした。
江戸時代の記録をまとめて整理した美濃古戦記史考によれば、米田城(肥田玄蕃)攻め・大森城(奥村元広)攻め・久々利城攻めの順番のようです。「図説可児・加茂の歴史」によると米田城と大森城は(同じく上恵土城も)天正10年7月に攻めていて、久々利城は天正11年1月に攻めています。
そうすると、久々利氏は関係の深い奥村氏がやられてから、のこのこと金山城に出向いたことになります。当時は奥村氏との関係が切れていたのか、「秘書が勝手にやった」論法で切り抜けられると思ったのか、追い詰められて覚悟して行くしかなかったのか、いろいろと考えさせられます。
大森城と吹ヶ洞砦の主郭の距離を「ぎふ森林情報WebMAP」で測ると627メートルでした。森氏が、この間を兵員で塞ごうとした場合、小牧・長久手の戦いでの動員が3000人なので1メートル辺り4.8人を配置できます(実際はそれぞれの城に置く人員なども必要)。美濃平定後の所領は12万7千石らしいので3000人は余裕のある数字です。
久々利氏の動員力は不明ですが、以前に烏峰城(金山城)攻めに派遣した兵力が500人余という記述があり、留守部隊がいて倍として1000人だとすると1メートル辺り1.6人になります(ちなみに異なる時期で近隣の明智氏は籠城時870余人、小栗信濃守は1500人の数字があります。ただし、森氏以外は江戸時代の二次資料の数字なので信憑性はあまり高くありません)。
ただし、久々利氏が森氏に対抗する場合は久々利城の北側をガラ空きにするわけにはいかなかったでしょう。ここで野戦をするには心もとない気がします。奥村氏単独で守るなら、さらに兵力は小さくなるはずです。
実際の使い方は分かりませんが、そんな試算をしてみました。大森城を攻める敵の後ろを吹ヶ洞砦の守備隊が攻撃して、吹ヶ洞砦が攻められたら今度は大森城の兵が敵の後ろを攻撃するみたいな使い方も考えられそうです。吹ヶ洞砦から大森城に逃げ込むのは難しいですが、久々利城方向ならもっと逃げやすいです。
久々利氏が大森城を支援するために築こうとしたというのもありかもしれません。その場合なおさら金山城に呼び出されて行ったことが無謀に思えてきますが……考えてみると奥村元広が久々利城じゃなくて加賀に逃げたのは当時の両者の関係の弱さを示唆しているかもしれませんね。
Ⅲ郭でイノシシの寝床らしき笹が薙ぎ倒されたてワラが敷かれた空間を見つけました。これを見て、だいぶ逃げ腰になってしまいました。今の時代はマダニが付いていそうなのも怖いです。
今後の課題
・藪がない時期の西側と南側の確認。復元図などではあるように描かれている枡形虎口以外からの主郭部分への登り口の確認。
参考文献
岐阜の山城ベスト50を歩く 三宅唯美・中井均 2010年
美濃古戦記史考 渡辺俊典 昭和44年(1969年)
図説可児・加茂の歴史 吉岡勲 監修 中島勝国 著 昭和60年(1985年)
東海の名城を歩く 岐阜編 中井均・内堀信雄 2019年
可児市の大森城パンフレット https://www.city.kani.lg.jp/secure/10134/oomorijou.pdf
ぎふ森林情報WebMAP https://www.forest.rd.pref.gifu.lg.jp/shiyou/sinrinwebmap.html
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