9. でも、間違いなく神には近いね【4/7】
お母さんにごちそうさまを言い小夜ちゃんの部屋に入る。預けていたおれのネイビーのピーコートと橙色のマフラーが小夜ちゃんの着ていた真っ赤なダッフルコートと肩が触れあうようにぴたっと並んでクローゼットの前に掛けてあるのが目に入った。
「あ、お菓子持ってくんの忘れた。取ってくるわ」
と小夜ちゃんが言った。「適当に座っといて」
女子の部屋というのはいい匂いがするもので、この部屋に来るのは今日で二回目だがやはりそわそわと緊張してくる。小夜ちゃんの部屋は散らかっているわけではないが物は多めだ。小村家に存在する女子の部屋と言えば極端に物が少なく生活感を排除していて、最近は入っていないが今でも別にいい匂いもしないだろうから真逆っちゃあ真逆だな、と生意気な妹の顔を一瞬思い出す。
前回は座布団を出してくれてたから迷うまでもなく床に座ったが、今日はそれがないのでおれは小夜ちゃんの勉強机に座るのか、それともベッドに? いやベッドはさすがに、などと落ち着きなくうろうろしながら部屋のなかにあるものを眺める。陸上部でもらった賞状や引退時の寄せ書き、コルクボードに貼ってある友達と撮った写真、本棚に並ぶ少女漫画、その棚の上に並ぶちょっとした化粧道具の数々、隣に鏡が置いてある。角度をつけれる卓上ミラーだ。いつもこれで整えた顔を確認しているのだきっと。おれはその、顔だけしか映せない小さな丸い鏡面を覗き込む。ほぉ、これが女子の部屋に来てどうにもそわそわしている十五歳の男の顔か、とつぶやいてみる。バッと振り返り部屋のドアを確認する。小夜ちゃんはまだ戻ってこない。
おれは徐々にし始めていた緊張をいよいよ誤魔化せなくなっていた。
リビングでお母さんと三人で蕎麦を食べながら話しているほうがむしろ気楽だった。その原因は付き合ってもうすぐ半年になるが性的な雰囲気が少ないからかもしれない。おれはそういうことについて奥手だし知識も豊富なわけじゃないからわからないことも多々ある。小夜ちゃんのほうもそれを望んでいるのかと言うと少なくともおれの目にはあまり興味がないようにも見える。
それにこういうことはお互いにとって今後の価値観を左右するかもしれない慎重に扱うべき事柄だ。どちらかが暴走気味にでもなってたらこのバランス自体そもそも取れていなかっただろう。先週のクリスマスにやっと初めてキスをして、でも照れてそのキスについて振り返るような会話は一度もせず、従来のクラスメートの間合いのままでいるおれたちには恋人同士でするようなこと自体がそもそも起こりにくい。わかっている。お互い自意識過剰なことくらい。大人同士だったらもっとこう、一触即発というか、空気がそうさせるみたいにソッチに発展していくようなイメージはある。映画にもそういうシーンは多い。でもそれを? おれや小夜ちゃんが? 急に黙って見つめあったりなんかして? おれが小夜ちゃんを押し倒してキスをして? 小夜ちゃんのほうから舌を絡めてきて? 口が塞がってるから鼻息がどんどん荒くなって? お互いの? 服を? 脱がしあいながら? このベッドへ転がり込むなんてこと……?
いやいやいや。
やっぱりどう考えても絵面がキツいでしょ。
中学生の妄想だからしょうがない。
リアルに考えたら服を全部脱いだ状態で色々と試行錯誤していくんだろうけど、小夜ちゃんがおれの前で服を脱ぐなんてことがまずあり得ない。脱ぐわけがない。いやおれもだ。上半身だったらいいけど、下の、肝心の部分だけは恥ずかしいから誰にも見せたくない。おれは銭湯に行ったってプール授業の着替えるときだって徹底して隠す。恥ずかしいのだがなんでそんなに恥ずかしいのかまではわからない。あまり考えたことがない。ただ、服を一枚も着ないでいると、すごく頼りないというか、肋骨のあいだを風が吹き抜けていくみたいに寒々しい、心許ない感じがする。何が心許ないのか。アレが小さくてかわいらしいからだろうか。「誰かに見られている気がする」からか。家で一人で風呂に入っているときは思わないからやっぱり原因はこの感覚のせいかもしれない。おれにとってはこいつは根深くて何かにつけて結びつけれてしまうのだ。別にこれが原因で性交渉ができないってんじゃなくて、そんなにまで急いで「したい」と思わないだけだけど。
「ごめんごめん洗い物手伝ってた」
小夜ちゃんは自分の部屋だからノックもなく喋りながらドアを開け、「これ、持ってきた」
と前回の座布団の代わりなのか、お菓子と一緒に抱き枕みたいな、長いクッションを両腕で抱えて少し持ちあげて見せた。それを部屋の真ん中のノートパソコンが一個だけ置いてある天板の小さな折りたたみ机の前にぽすんと投げて、ベッドサイドに置いてあるハロゲンヒーターをこっち向きにして電源を入れると先に座り、左隣を空けて、「ここ、どうぞ」
とクッションを軽く叩いた。リビングで座らせてもらったソファーにも置いてなかったやつだからもしかしたら普段はお母さんの部屋にある私物なのかもしれない。おれは言われるままにその上に座ったがすると小夜ちゃんは肩を密着させてそれが全然芝居がかった感じじゃなくて参った。ヒーターの赤外線が暖める限られた空間のなかに身を寄せあって顔に熱を感じながらも肩と肩が触れているその一点に意識が集まる。
「映画でも観る? あーでももう今から観たら年明けちゃうか」
と彼女は掛け時計を見あげる。もう午後十一時になっていた。時計を見あげるとき顔がこっちに向いたから、声がすごく耳に近いところで聞こえて、おれは小夜ちゃんの息遣いやすぐそこにある口元の存在感を確認せずにはいられなくなって唇を見た。
先週のクリスマスにキスをしたのは発作的な出来事で、デートした帰りに立ち寄った公園でなんでもない会話をしていたとき、薄ピンク色の小夜ちゃんの唇がグロスで光っていて、一瞬そこに見惚れたおれを小夜ちゃんは同時に見つめて、つまり唇を見つめるおれの目元をすでに見つめていた小夜ちゃんと少し遅れて目があった。そのタイム感がそのままテンポを生みだすように、顔を少し上げる小夜ちゃん、身体の正面を小夜ちゃんに向けるおれ、目をつむる小夜ちゃん、目をつむって顔を近づけるおれ、あ、目をつむってたら距離感がわからん、しまったと目を開ける、小夜ちゃんがつむったまま静止しているのを確認、ちゃんと距離を間違えないように半開きの目で唇めがけて顔を寄せて、触れあう瞬間に目を閉じた。公園の電灯が一つだけの、高台にある広場でそんな薄暗いなか薄目で見たからか、もやがかったフレームにきらきらのフィルターを通したような視界で見た小夜ちゃんの唇。とろけそうなくらいやわらかくて温かくてなんか甘い。それが数秒間密着して、どちらからともなく自然な動作として離れたとき、
「えへへ」
と小夜ちゃんは小さく笑った。
「小夜ちゃん……、いや、セガサヨちゃん」
「なぁに、オムスミ君」
おれは「好き」って言おうとしたんだけど、なんかこのタイミングで言うそれはどう言っても芝居がかっていて気障でいやらしいな、と思って、呼び直してみたりしたんだけどやっぱりダメで、「やっぱなんでもない」って言っちゃった、その場面を思い出す。
おれは家に帰ってから、ああいった場合はどうしたって気障になるし、キスをして溢れでた気持ちを伝えること自体気障ったらしいことなのだから別に気障でよかったのだ、と反省した。
だから肩が触れるように座り直す小夜ちゃんの動作がものすごく自然でこだわりを感じさせないために、変に意識しているのはおれだけなのかと、しかしこの状況でとるべき行動や正解の導きかたがわからないおれは小夜ちゃんの唇がこちらを向いたり正面を向いたりお菓子を食べたりするのをただただ意識しながら恋人っぽくはない話題を続ける。共通の趣味である映画や小説の話がこの部屋の時間をじりじりと進めていくのだった。
気付いたらあと十数秒で年が明ける、というタイミングで、特にその瞬間どうしようなんて決めてなかったおれたちはなぜか立ちあがって部屋をうろつきながら早口で相談して、スマホの時計表示を見ながらベタにカウントダウンのゼロのところで小さくジャンプして空中で新年を迎えた。
「イエーイ、おめでとう」
「迎春~」
とハイタッチした。早速初詣のためにコートを持って部屋を出るとき、小夜ちゃんは例の長いクッションを小脇に抱えていて、リビングでおれがお母さんに挨拶したあとで、
「これ、ありがとう」
と返却していた。やっぱりお母さんのだったんだ。そこにさっきまでお尻を乗せていたと思うとなんだか気恥ずかしい。クッション代わりに貸しだしたってことはさすがに枕ではないだろうけど、座っているのか抱いて寝ているのかわからないけど、もしも顔を押しつけたならさっきの甘いりんごの蜜みたいないい匂いがするのかもしれない、などと不埒なことを思って軽く自己嫌悪に陥る。
「気ぃ付けて行ってきぃや」
「大丈夫。オムハルが守ってくれるって」
小夜ちゃんはちらりとおれを見る。自己嫌悪に浸っている暇はない。おれは元気いっぱい言った。
「責任持ってここまで送って帰りますよ!」
「よろしい」
と小夜ちゃんがおれの頭を撫でる。恋人じゃなくて犬を撫でるみたいなノリだから照れがないし、こういうときは触られても照れないのはおれも同じだった。
「また遊びにきてね」
「はい!」
お母さんに言われておれは元気よく返事する。尻尾を振りながら。
9.【5/7】へ続く
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