9. でも、間違いなく神には近いね【3/7】
「オムハル~」
午後九時、約束通り
小夜ちゃんは自分の両腕を組むようにして身震いした。
「せやなー、普段こんな時間に外出歩かんやろうし余計ちゃう?」
「そうかも」
と鼻を啜る。膝くらいまでの長めのダッフルコートを着ていたが、マフラーはしていなかった。おれは自分のマフラーを外してちょっと慎重に、且つそうだとわかるように大袈裟に、彼女の首元にそれを巻いてあげた。ショートボブだから外気に触れ続けた華奢な首元はきっと冷えきっていたんだろうな、と巻きながら思った。「わぁ。えへへ、嬉しいよう。ありがとう」小夜ちゃんはとびきりの笑顔だった。彼女が感情をこうやってストレートに表現してくれる人だから、おれは調子に乗って紳士的に振る舞いたくなるのだろう。
「どういたしまして」
と返すおれは、気障ったらしく演じているような感じが出ている。自分から行動しといて何だが、自然じゃないことへの引け目がある。おれも決して嘘の気持ちを演じたりはしないのだが、小夜ちゃんには元々こういった「てらい」すらないのだから圧倒的だ。素直さの次元が違う。純真なものには平伏したくなる。だから実はおれも調子に乗っているばかりでもなく、無意識のうちに気圧されている。それを悟られないために大袈裟に紳士を演じていた、てことになる。おぉ~、とマフラーの手触りを楽しむ小夜ちゃんを横目にそんなことを思い、改めて自分を好きになってくれたことに感謝した。
歩き始めながら彼女は言った。
「どっちのコンビニ行くぅ?」
「こっちにしよか。せっかくやから暗い夜道を歩こう」
近所にコンビニは二つあった。おれが選んだのは少し遠回りになる道だったが大通り沿いよりは静かなほうが話しやすいし雰囲気もいい。
家を出たときからどこもそうだったけどこのへんも普段だったらもう少し明るいのに今日は真っ暗だ。車も全然走っていない。塾の帰りに通るときは角の飲み屋とかガソリンスタンドとかレンタカーの営業所が開いていて、そこから漏れる光で点々と道は照らされている。
「どこも閉まってんなぁ」
おれは通りの店舗を順々に指差しながらはしゃいだ。「年末やなぁ」
「いやいや、にしぐちはいつもこの時間閉まってるっしょ」
ちょうど駄菓子屋を指差していた。小夜ちゃんの指先はそんなおれの脇腹をつんつんする。小夜ちゃんもわくわくしている。人差し指から脇腹へと伝ってくるタッチがそのことを形象化している。おれは言った。
「あ、この先にさ、昔もう一ヶ所駄菓子買えたとこあったん知ってる?」
「うそやん、駄菓子屋二つもあったん」
「いや、駄菓子屋じゃなくて、ちっちゃい店、駄菓子とか、パンとか、雑誌もあったな。日用品も売ってる、何でも屋? みたいなとこ」
「ふーん」
「平井商店、て名前やった。おれも数回しか行ったことないけど、兄貴に菓子買ってもらったり。びっくりするくらい薄暗くてさ、ほんまにやってる? みたいな」
「へぇ~! 全っ然知らん!」
「ほんでな、ほんまに儲けあるん? て思うくらい日用品はどれも安かった。家族に買い物頼まれたときな、ここで洗濯ばさみ買うて、百均より安いから余ったお釣りで駄菓子買ってこっそり食べてん」
「キャハハ」
平井商店は和崇兄さんのお気に入りスポットだった。今はもうない。
「確かそこのあたりに建ってて、隣にこっち向きに道が抜けてて、イタチとかよく見かけたな」
平井商店のあった場所自体今は車道だった。区画整理されたから跡形もなかった。相当古い建物だったが別の家屋に建て替わったり更地になってるならともかく、道の向きまで変わると別の場所にしか見えなくて、いくら記憶力のいいおれでも確証はない。小夜ちゃんは小学校が違うからこっちの道は校区内にあたるのだけど、潰れたのが十年近く前だったから入学した頃にはもう工事が始まっていたかもしれない。ちょっと感傷的な気分にもなってたところで小夜ちゃんが「お母さんやったら知ってるかな」と言ったから、わざわざ訊かんでもええで、と返す。
年越しを家以外の場所で過ごすのは初めてだった。正直言っておれは不安だった。去年も一昨年も「今年は絶対起きている」と決めたのにもかかわらず年越しの瞬間はおれは寝ていて、中学生になってからも夜は眠たくて眠たくて眠たくて、年末に午前0時まで起きれていた試しがない。最近になってようやく日付をまたぐほどの夜更かしはできるようになったけれど、それはたいてい昼寝をした日だし午前一時までには必ず眠っていた。今年の大晦日はもし明ける前に寝てしまったら家族の誰かに起こしてもらおう、と年始から決めていたのだがこんなことになってしまい、お子様すぎて彼女にはさすがに頼むのも憚られる。
コンビニでお金を出しあってポテトチップとチョコレートとコーラを買って小夜ちゃんの住むマンションに着く。まずお母さんに挨拶をする。改めて面と向かってみても雰囲気は若くて、顔は小夜ちゃんに似ていて、おれに対してすごくやさしく接してくれる人だ。小夜ちゃんはお父さんがいなかった。どこかで生きてはいるらしいのだけれどもう会うことはないんだそうだ。それを決めたのはお母さんだから小夜ちゃん自身は五歳までのお父さんとの記憶自体はいい思い出として胸のなかにある。とは言えお母さんをかなしませたことは別問題で彼女にとっても許し難いことだった。
しかしお母さんはもう完全に縁を切ることで娘にも会わせないようにしていたから個人的に報復を達成した感があって、話を聞きかじったおれからしたらもう小夜ちゃん自身は自由なんだと思っている。母親の怨念を同じように自身の心にも宿す必要はまったくなくて、小夜ちゃんが父親に会いたいともし思ったなら自力で探しだして会いにいくぶんにはお母さんだって文句は言えないはずだ。もちろんそんなことわざわざ許可をもらいにいったって嫌な顔をされるに決まってるから勝手にやるに越したことはないのだけれど。
リビングのソファーに座らせてもらいグラスに注いでもらったコーラを飲む。
「オムハル君は年越し蕎麦食べた?」
とお母さんが言った。「うち、今から食べるねんけどよかったらどう?」
「はい、さっき家で食べてきましたけど蕎麦だけは何杯でもいける口なのでいただきます!」
「まぁたくましい」
小夜ちゃんが言った。
おれはそんなに大食いじゃないが今日はこういうこともあるかもしれないと思い午後は間食もせず晩ご飯は控え目に蕎麦だけにしておいた。だからまだまだ入る。テレビの歌番組でバンドが歌っていた。反射的に正嗣兄さんを思い出す。
今日ライブだった正嗣兄さんのバンドの出番はもうとっくに終わっているはずだ。今日のイベントは夕方から始まって終演が午前三時半とかになるらしい。主催のライブハウスにゆかりのあるバンドやシンガーが二十組も出るそうで、なかにはその界隈では人気の高いバンドとか三十代や四十代のベテランバンドも混じっているから全員ハタチの正嗣兄さんのバンドなんて駆け出しもいいとこで「入れてもらえるだけありがたい」と言っていた。そういう縁は大切にしなくちゃいけないしたくさんの人に観てもらえるチャンスだから大晦日だったけど出演を即決した。しかし終わるの三時半って……。すごい世界を生きていると思う。おれだったら絶対に起きていられない。
けれど年越しの瞬間はきっと楽しいだろう。バンドの仲間とお客さんと、共演者やお世話になっているスタッフと、みんなでフロアに集まって、そのときステージでライブをやっているのは人気も実力もあるようなバンドで、おっとそろそろかい、準備はいい? つって用意されたデジタル表示のでかい数字を見ながらそこにいる全員でカウントダウンを大合唱するのだ。んでゼロを迎えた瞬間日付が変わったってだけなのに大歓声が起こり周囲にいる人同士でおめでとうおめでとうと乾杯をしまくってお酒を飲みまくる――、おれはこの光景をなんでこんなにはっきりと思い描けるのだろう。テレビで見て知ってるんだっけ。そんな映画があったんだっけ。動画を漁ってるときにこれそのものを観たんだっけ。それとも夢かな。おれは昼間に見た自分の夢について書かれたノートを思い出した。実際にはなかったことがさも事実として夢に出てくるなんてありきたりな話だ。ライブしたあとで大勢でわいわい年越しするの楽しそうやなぁすごいなぁ、と正嗣兄さんに言ったら、ぼくからしたら中学生やのに彼女と二人で年を越すほうがすごいわ、と言われた。ダイニングに移って蕎麦をありがたくちょうだいし、おれは出汁が飛び散らないように上品さを意識して啜る。そして思う。ただ日付が変わっただけ、という気分のときは本当にそれだけで終わるがやっぱり三百六十五日間に一度しか来ないのはどの日付でもそうだけどでもだからこそ年が変わる瞬間を迎えるその前後くらいは特別に思って特別なことをするのがいい。そんなことは今初めて思ったのだけど、こんな、午後十時も回っているというのに彼女の家で彼女のお母さんの作った蕎麦を食べている状況はやっぱり日常ではありえなくて年末年始が特別なものだという共通認識が魔法なのだ。魔法みたいだから特別だし、そんな類の特別だからそれぞれ自分の意思で魔法みたいなことができる。
「このお蕎麦って関東風ってやつですか」
「そうなのよ~。おじいちゃんおばあちゃんが関東生まれで」
とお母さんじゃなくて小夜ちゃんが答えた。
「あたしはこっちで生まれ育ったんやけどね。やっぱり、濃く感じる?」
お母さんは声をひそめて訝しむようにおれに訊く。何を期待しているのかどこを見られているのかその物言いや表情だけではわからない。
「いやおいしかったですよ。出汁全部飲んでもた」
わかめと刻み揚げとねぎだけのシンプルな蕎麦だった。おれは食べ終わってしまったが小夜ちゃんの鉢を見るとまだ半分くらいは残っている。
「うちではずっとこの蕎麦やから外で食べるのと違ってて両方好き。どう言ったらいいんやろぉ、お得、的な?」
「お蕎麦のおいしさを二種類知ってるってことね。関西風しか知らんかったらこういう喜びは味わえんっちゅうわけや」
「そすそす」
小夜ちゃんは首肯した。お母さんが補足する。
「まぁこの味がド関東なのかっていうのはあたしも知らんねやけども。大人になってから母が作ってた出汁を思い出して作ってるだけで」
「あぁ、知らず知らずに関東と関西のハイブリッドになってるかもと」
おれは確かにそれは充分にあり得ることだ、と思い、「でもそれやったらむしろそのほうが良くないですか」と言った。「だってお母さんの味とふつうの関西風に加えてほんまの関東風も今後加わる可能性もありますし。やっぱりおいしいお蕎麦の基準としてお母さんの味があるわけやからそこから小夜ちゃんのお蕎麦の幸せが始まって広がっていってるじゃないですか。ちゃんと原点を持った上で一般的な物差し使えるほうが個人の豊かさに繋がると思うんですよ」
おれは興が乗ってつい勝手な想像を繰り広げよく考えもせず生意気な意見を言っちゃった。小夜ちゃんは自分に向けられた発言じゃなかったらぼーっとして周りの会話なんて聞いていないことが多く、このときもおれの発言中は蕎麦を啜る音を左で響かせていて、おれの正面に座っていたお母さんが、
「オムハル君はやさしい心を持った子やな」
と、ぐっと身を乗りだし、「小夜子のことよろしくお願いね」
と言ったのを見て、
「お母さん! 顔近すぎ!」
と笑った。
いや、怒っているのかもしれない。
その笑いのなかには無邪気さだけじゃない何かがありそうだがおれにはわからない。まぁ文字通り注意はしたかったのだろう。小村家みたいなでかいダイニングテーブルじゃなくて二人暮らし用のやつだから、実際さっきの体勢は顔が近かった。元々おれは出汁を飛ばさないようにするために結構前へ詰めて座っていた。まんま小夜ちゃんが大人っぽくなったような顔が急接近してきてどきりとしたしふわっといい匂いもした。それは小夜ちゃんの近くでは感じたことのない甘いりんごの蜜のような匂いだ。化粧品なのか香水なのかトリートメントなのか柔軟剤なのか、何なのかはわからないが小夜ちゃんが使っていない、お母さん専用の多分きっといいやつだ。こんなことまで想像が回るのはやっぱり小夜ちゃんのお母さんには全然「おかん感」がなくて、そっちよりおれのような一介の男子中学生が日常触れることのない色気をふんだんに持っているからだった。自覚的に演出してアピールしちゃってるとか、無意識にそういう色気が出て男を翻弄しちゃうとか、本人がどのように意識して自分の「そういう部分」と付き合っているかは別になんでもよくて、おれからしたらまず こんなお母さんがいる、ってことが異世界の光景でそれだけで充分衝撃的で刺激的だから、こんなお母さんがいるんだぁ、てところに留まってその感動だけで今日はもう終わりたい。
9.【4/7】へ続く
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